第24話 少年の言葉
子爵の視線が、まっすぐノアに向けられた。従者たちも、そして村人たちも、固唾を飲んで少年の次の言葉を待つ。
「言うてみよ」
ノアは一度深く息を吸い、拳をぎゅっと握りしめた。声はまだ少し震えていたが、その目にはもう迷いがなかった。
「俺の家は、去年、親父が怪我して働けなくなりました。それで、行商人から『特別に安く』って肥料を買わされそうになったんです」
村人たちの中に、静かなざわめきが広がる。ノアの家庭の事情を知らない者も多かった。
「でも先生に教わったばっかりの字で、その契約書を頑張って読んだら──安く見えるのは最初の一年だけで、二年目からはとんでもない額を払わされる決まりになってました。俺、それに気づけたから、お袋を止められたんです」
ノアは子爵を見上げた。
「もし俺が字を読めなかったら、うちは今頃、畑を手放すことになってたと思います。だから俺は、貴族様に良く思われたくて勉強してるわけじゃありません。俺は──自分の家族を、自分の手で守れるようになりたいだけです」
広場に、しばしの沈黙が落ちた。
ヴォルフ子爵は、少年の顔をじっと見つめていた。その表情には、先ほどまでの嘲りとは違う、何か複雑な色が浮かんでいる。
「……」
子爵は視線を、手元の契約書の写しに戻した。それから、ゆっくりと村人たち全体を見渡す。ドノヴァンの毅然とした佇まい、ガレットの震える手で書かれた文字、ミアの真っ直ぐな眼差し、そしてノアの──守りたいものを守り抜いた少年の顔。
「レイモンド」
子爵が家令を呼んだ。
「はっ」
「この村の識字率は、実際のところどれほどのものだ」
「調査によりますれば……この半年で、村人の約四割が基礎的な読み書きを習得したとのことです」
「四割、か」
子爵は低く呟いた。辺境の一村で、たった半年でそれだけの数字が出ていることに、明らかに動揺している様子だった。
その時、それまで黙っていたレオが、静かに口を開いた。
「子爵様。俺たちがやっていることは、決して子爵様の統治を脅かすためのものではありません」
「ほう。では何のためだと言うのだ」
「ただ、自分たちの身を、自分たちで守れるようになりたい──それだけです。文字を読めることは、誰かに騙されない盾になる。それだけのことです」
子爵は、しばし無言でレオを見つめた。その視線には、先ほどまでのような侮蔑の色はもうなかった。かわりに浮かんでいたのは、警戒とも、興味とも取れる、複雑な光だった。
「……盾、か」
子爵は契約書の写しを畳み、懐にしまった。
「今日のところは、これで引き上げるとしよう。だが──」
その言葉に、村人たちの間にわずかな安堵が広がりかけた。だが子爵は、それを断ち切るように続けた。
「この件、儂の一存だけで済ませられる話ではない。グリンウォード交易組合とも、改めて話をつける必要があろう」
子爵の目が、ちらりとレオに向けられる。
「レオとやら。お前の噂、実家にも届いておるようだぞ」
その一言に、レオの心臓が小さく跳ねた。
「……どういう、意味でしょうか」
「さてな」子爵は薄く笑い、踵を返した。「近いうちに、分かることだろうよ」
馬車が土埃を上げて村を去っていく。その後ろ姿を見送りながら、村人たちの間には安堵と、そして新たな不安が入り混じった空気が漂っていた。
ミアがそっとレオの隣に立ち、小さく呟いた。
「先生……実家に噂が届いてるって、まさか」
その視線の先、街道の彼方に消えていく馬車を見つめながら、レオは静かに、しかしはっきりとした予感を覚えていた。
──ガイウス兄さんが、動き出す。




