第23話 ノアの震える手
「ノア、大丈夫か」
レオが小声で尋ねると、ノアは青ざめた顔のまま、絞り出すように言った。
「せ、先生……俺、今日に限って、何にも頭に入ってこねえ……!」
無理もない、とレオは思った。子爵という存在の重圧を前に、普段なら難なく読める簡単な単語すら頭から飛んでしまう──それは前世で見てきた、試験本番に弱い生徒たちの姿そのものだった。
「ノア、こっちを見ろ」
レオは片膝をつき、少年と目線を合わせた。周囲の村人たちが固唾を飲んで見守る中、レオはあえてゆっくりとした口調で続けた。
「お前が字を覚えたのは、誰かに見せるためだったか?」
「え……」
「違うだろう。お前の母さんが、行商人に騙されそうになった時──お前が契約書の中身を読んで、それがおかしいと気づいたんだったな」
ノアの肩が、わずかに強張った。
「あの時お前は、誰かに褒められたくて字を読んだわけじゃない。家族を守りたかったから、読んだんだ。それは今日も同じだろう」
しばしの沈黙。ノアは唇を噛みしめ、拳を握り直した。
「……そう、だな。俺は、貴族様に良い顔したくて勉強してるわけじゃねえ」
「ああ」
「お袋を守りてえから、字を覚えたんだ」
ノアの目に、少しずつ光が戻ってくる。震えていた手が、ゆっくりと落ち着きを取り戻していった。
その様子を、少し離れた場所からヴォルフ子爵が眺めていた。従者たちに指示を出し、あらかじめ用意させていたのだろう一枚の書類──村の外れにある水車小屋の使用権に関する、実際の契約書の写しを取り出す。
「では、始めるとしよう」子爵は冷ややかに言った。「この村で今問題になっている水車小屋の契約書だ。読み解いてみせよ」
ドノヴァンがそれを受け取り、内容にざっと目を通す。そして、あらかじめ決めていた通り、ミアと数人の子供たちを含めた「読み合わせ」の輪を作った。
「では読みます」ミアが紙を受け取り、声に出して読み上げていく。「『水車小屋の使用権は、以後グリンウォード交易組合の管理下に置くものとする……使用料については、組合の定める規定に従うものとし……』」
そこまで読んで、ミアはふと眉をひそめた。
「先生、これ……使用料の『金額』が、どこにも書いてありません」
村人たちの間に、小さなどよめきが起きる。子爵の目が細くなった。
「金額が書かれていないのは、当然だろう。市況によって変動するものだからだ」
「では」トビーが恐る恐る、しかしはっきりと声を上げた。「変動の『基準』は、どこかに定められているんですか?」
「……」
子爵は、一瞬言葉に詰まった。もちろん実際には、そのような基準は組合側の裁量に一任されており、明文化されたものは存在しない。それはヴォルフ子爵自身もよく知っていることだった。
「子供が生意気な口を利くものだな」
「恐れながら」ガレットが割って入る。「儂らはただ、書かれていることと書かれていないことを、正直に申し上げているだけにございます」
沈黙が広場を包んだ。子爵の従者たちの間にも、微妙な動揺が広がっているのが見て取れた。
その時、ノアが一歩前に進み出た。先ほどまでの震えは、もうどこにもなかった。
「子爵様。俺からも、ひとつよろしいですか」




