第21話 子爵の影、村に落ちる
家令レイモンドが去ってから三日後の朝、エルバン村は普段とは違う静けさに包まれていた。
「本当に、今日なんだよな……子爵様が来るの」
ノアが落ち着かない様子で、寺子屋の床几に座ったり立ったりを繰り返している。その隣でミアが呆れたように笑った。
「さっきから五回は同じこと聞いてるわよ」
「だって……もし俺たちが答えられなかったら、村がまずいことになるんだろ?」
その問いに、レオはすぐには答えなかった。子爵が視察に来る本当の理由──それはおそらく、村が組合に送り返した毅然とした返書への牽制だ。もし村人たちの学びが「口先だけの反抗」だと見なされれば、閉鎖を命じられてもおかしくない。
だが、それを今ノアに言う必要はない。
「大丈夫だ」レオは努めて軽い調子で言った。「俺たちは何も特別なことをする必要はない。いつも通り、契約書を読んで、疑問に思ったところを指摘する。それだけでいい」
「いつも通り、か……」
ガレットが杖をつきながら寺子屋に姿を見せた。孫のトビーがその後ろから駆けてくる。
「先生よ、儂は正直、貴族様なんぞ好かん。だがな」老農夫はゆっくりと腰を下ろしながら続けた。「儂らがこの数ヶ月でやってきたことは、誰に見せても恥じるもんじゃねえ。堂々としてりゃいい」
その言葉に、村長ドノヴァンが小さく頷いた。彼は昨夜遅くまで、村人全員で読み合わせた契約書の写しを、几帳面に束ねている。
「レオ先生。子爵様への受け答えは、私が中心になって行う。だが……もし何か聞かれて、我々の誰かが答えられる場面があれば、それはそれで良いことだと思っている」
「はい」レオは頷いた。「見せつけるためじゃなく、事実を淡々と話せばいいんです。俺たちは何かを証明する必要はない。ただ、自分たちの言葉で語ればいい」
その時、村の入り口の方角から馬の蹄の音が響いた。子供の一人が窓から飛び出すようにして外を見て、上ずった声で叫んだ。
「来た……! 紋章のついた馬車だ!」
寺子屋の中に、ぴりっとした緊張が走る。ミアが無意識に自分の胸元を押さえ、ノアがごくりと喉を鳴らした。
レオは深く息を吸い、窓の外に目をやった。石畳の道の向こうから、鴉の意匠を刻んだ紋章旗を掲げた馬車が、ゆっくりと村へと近づいてくる。
──ヴォルフ子爵。
その名を知ってはいても、実際に顔を合わせるのは初めてだ。前世で校長や教育委員会の視察に冷や汗をかいた記憶が、場違いにも脳裏をよぎる。だが同時に、レオの中には確かな手応えもあった。
この数ヶ月、村人たちが積み上げてきたものは本物だ。それを、ただ見せればいい。
「みんな」レオは振り返り、教え子たちの顔を一人ずつ見渡した。「胸を張っていこう」
馬車の扉が開く。降り立ったのは、白髪交じりの髭を丁寧に整えた、鋭い眼光の初老の男だった。従者たちを引き連れたその姿には、辺境の村など歯牙にもかけぬという空気が漂っている。
ヴォルフ子爵は村の広場を一瞥すると、集まった村人たちを値踏みするように眺め、静かに、しかしよく通る声で言った。
「──これが、噂の『学校ごっこ』か」
村に、しんと沈黙が落ちた。




