第20話 視察に向けて
子爵家の使者が去った翌日から、村の空気は一変した。
「先生、視察って、何をどう準備すればいいんだ?」
朝一番、納屋に飛び込んできたガレットが、珍しく落ち着かない様子で尋ねた。普段は泰然としている老農夫が、そわそわと部屋の中を歩き回っている。
「正直、俺にも正解はわかりません」
レオは正直に答えた。
「ただ、一つだけ確かなのは──取り繕っても意味がないということです。俺たちがやってきたことを、そのまま見てもらうしかないと思います」
「そのまま、か」
ガレットは腕を組んで唸った。
「けどよ、子爵様の前で、トビーがまた字を間違えたりしたら……」
「じいちゃん、俺そんなに間違えないよ!」
トビーが頬を膨らませて抗議する。ガレットはにやりと笑った。
「この間、『山』を『出』って書いてたのは誰だ」
「あれは一回だけだろ!」
祖父と孫の掛け合いに、納屋にいた数人が思わず噴き出した。張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。
「まあ、間違えても大丈夫だ」
レオは笑いながら言った。
「大事なのは、間違えた時にどうするかだ。間違いに気づいて、自分で直せる。それが本当の力だから」
その言葉に、ミアが小さく頷いた。彼女はここ数日、いつも以上に真剣な顔で、寺子屋の様子を見て回っていた。
「先生。あたし、考えたんだけど」
「何だ?」
「子爵様に、ただ『できます』って見せるだけじゃなくて、この村が変わった理由を、ちゃんと伝えられないかな」
「理由……」
「うん。あたしたち、ただ字を覚えたかったわけじゃない。もう二度と、騙されたくなかったんだよ」
その言葉に、レオはしばらく黙り込んだ。数年前、村が土地を騙し取られかけたあの出来事──ミア自身が抱え続けてきた悔しさが、この寺子屋の始まりだった。
「そうだな。それを、伝えよう」
「どうやって?」
「実演だ」
レオは、壁に貼られたままの、あの古い契約書の写しを指差した。
「子爵様の前で、この契約書を村人たちが実際に読み解いて見せる。俺たちがどうやって、言葉の罠を見抜くようになったか、その過程ごと見てもらう」
ガレットが目を丸くした。
「先生、それは……些か大胆すぎやしないか。子爵様に、あの契約書を見せつけるようなもんだぞ」
「はい。でも、隠したところで意味がありません。むしろ、堂々と見せた方がいい。俺たちがやましいことをしているわけじゃないと、はっきり伝わります」
しばらくの沈黙の後、ガレットはふっと息を吐いて笑った。
「……あんたは本当に、腹の据わった先生だな」
その日の午後、寺子屋では「子爵様御前デモンストレーション」の練習が始まった。
「エマ、ここはもう少しゆっくり読んだ方がいい」
「はい、先生」
「ノア、お前は緊張すると早口になるから気をつけろよ」
「うるせえ、俺だって緊張するんだよ!」
「あら、緊張してるんだ、ノア」
「ミア、うっさい!」
軽口の応酬に、周囲がどっと笑う。だが、その笑いの奥には、誰もが感じている確かな緊張があった。
夕暮れ時、練習を終えた子供たちが三々五々帰っていく中、レオは一人、貼られた契約書を見つめていた。
「先生」
村長ドノヴァンが、静かに隣に立った。
「正直、怖い。俺は、子爵様に逆らったことなど一度もない」
「わかります」
「だが……不思議と、悪い気はしないんだ。これまで、何かに立ち向かうということ自体、考えたこともなかったからな」
ドノヴァンは、納屋いっぱいに貼られた文字の練習跡や、子供たちが作った不揃いなかるたの駒を見渡した。
「この村は、もう、あの頃の村じゃない」
「はい」
「だったら──何が来ても、受けて立つしかないな」
ドノヴァンの声には、恐れと同じだけの、静かな覚悟が滲んでいた。
夜の帳が下りる中、レオは灯りを消しながら、窓の外の空を見上げた。子爵の視察がいつになるのか、まだ分からない。だが、それがどんな形で訪れようと、この村はもう、ただ怯えて待つだけの村ではなかった。
灯りは消えても、そこに積み上げられたものは、消えはしない。
そう自分に言い聞かせながら、レオは静かに納屋の戸を閉めた。




