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識字率0%の辺境で、元教師の無能転生者が学校を作ることになった件  作者: 菊池まりな


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20/22

第20話 視察に向けて

 子爵家の使者が去った翌日から、村の空気は一変した。


「先生、視察って、何をどう準備すればいいんだ?」


 朝一番、納屋に飛び込んできたガレットが、珍しく落ち着かない様子で尋ねた。普段は泰然としている老農夫が、そわそわと部屋の中を歩き回っている。


「正直、俺にも正解はわかりません」


 レオは正直に答えた。


「ただ、一つだけ確かなのは──取り繕っても意味がないということです。俺たちがやってきたことを、そのまま見てもらうしかないと思います」


「そのまま、か」


 ガレットは腕を組んで唸った。


「けどよ、子爵様の前で、トビーがまた字を間違えたりしたら……」


「じいちゃん、俺そんなに間違えないよ!」


 トビーが頬を膨らませて抗議する。ガレットはにやりと笑った。


「この間、『山』を『出』って書いてたのは誰だ」


「あれは一回だけだろ!」


 祖父と孫の掛け合いに、納屋にいた数人が思わず噴き出した。張り詰めていた空気が、少しだけ緩む。


「まあ、間違えても大丈夫だ」


 レオは笑いながら言った。


「大事なのは、間違えた時にどうするかだ。間違いに気づいて、自分で直せる。それが本当の力だから」


 その言葉に、ミアが小さく頷いた。彼女はここ数日、いつも以上に真剣な顔で、寺子屋の様子を見て回っていた。


「先生。あたし、考えたんだけど」


「何だ?」


「子爵様に、ただ『できます』って見せるだけじゃなくて、この村が変わった理由を、ちゃんと伝えられないかな」


「理由……」


「うん。あたしたち、ただ字を覚えたかったわけじゃない。もう二度と、騙されたくなかったんだよ」


 その言葉に、レオはしばらく黙り込んだ。数年前、村が土地を騙し取られかけたあの出来事──ミア自身が抱え続けてきた悔しさが、この寺子屋の始まりだった。


「そうだな。それを、伝えよう」


「どうやって?」


「実演だ」


 レオは、壁に貼られたままの、あの古い契約書の写しを指差した。


「子爵様の前で、この契約書を村人たちが実際に読み解いて見せる。俺たちがどうやって、言葉の罠を見抜くようになったか、その過程ごと見てもらう」


 ガレットが目を丸くした。


「先生、それは……些か大胆すぎやしないか。子爵様に、あの契約書を見せつけるようなもんだぞ」


「はい。でも、隠したところで意味がありません。むしろ、堂々と見せた方がいい。俺たちがやましいことをしているわけじゃないと、はっきり伝わります」


 しばらくの沈黙の後、ガレットはふっと息を吐いて笑った。


「……あんたは本当に、腹の据わった先生だな」


 その日の午後、寺子屋では「子爵様御前デモンストレーション」の練習が始まった。


「エマ、ここはもう少しゆっくり読んだ方がいい」

「はい、先生」


「ノア、お前は緊張すると早口になるから気をつけろよ」

「うるせえ、俺だって緊張するんだよ!」


「あら、緊張してるんだ、ノア」

「ミア、うっさい!」


 軽口の応酬に、周囲がどっと笑う。だが、その笑いの奥には、誰もが感じている確かな緊張があった。


 夕暮れ時、練習を終えた子供たちが三々五々帰っていく中、レオは一人、貼られた契約書を見つめていた。


「先生」


 村長ドノヴァンが、静かに隣に立った。


「正直、怖い。俺は、子爵様に逆らったことなど一度もない」


「わかります」


「だが……不思議と、悪い気はしないんだ。これまで、何かに立ち向かうということ自体、考えたこともなかったからな」


 ドノヴァンは、納屋いっぱいに貼られた文字の練習跡や、子供たちが作った不揃いなかるたの駒を見渡した。


「この村は、もう、あの頃の村じゃない」


「はい」


「だったら──何が来ても、受けて立つしかないな」


 ドノヴァンの声には、恐れと同じだけの、静かな覚悟が滲んでいた。


 夜の帳が下りる中、レオは灯りを消しながら、窓の外の空を見上げた。子爵の視察がいつになるのか、まだ分からない。だが、それがどんな形で訪れようと、この村はもう、ただ怯えて待つだけの村ではなかった。


 灯りは消えても、そこに積み上げられたものは、消えはしない。


 そう自分に言い聞かせながら、レオは静かに納屋の戸を閉めた。


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