第19話 紋章の使者
馬車が村の広場に停まると同時に、御者とは別に一人の男が降り立った。仕立てのいい上着に、ヴォルフ子爵家の紋章を模した徽章。物腰は丁寧だが、目の奥には値踏みするような光がある。
「本官はヴォルフ子爵家の家令、レイモンドと申します。エルバン村の村長殿はどちらに」
その声には、村人を萎縮させるだけの威厳が込められていた。ざわめいていた広場が、水を打ったように静まり返る。
「私が村長のドノヴァンです」
進み出たドノヴァンの声は、わずかに震えていた。無理もない。子爵家の使者が直接村を訪れることなど、これまで一度もなかったのだから。
「先日、貴村がグリンウォード交易組合殿へ送られた返書について、子爵様がお目通しになりました」
レイモンドはそう言うと、懐から折り畳んだ紙を取り出した。それは、村人たちが夜通しかけて書き上げた、あの返書の写しだった。
「大変、興味深い内容でしたので、直接お伺いした次第です」
言葉こそ丁寧だが、その口調には隠しきれない警戒と苛立ちが滲んでいた。村人たちの間に、緊張が走る。ミアがレオの袖をそっと引いた。
「先生……」
「大丈夫だ」
レオは小さく頷いたが、内心は決して穏やかではなかった。返書一つで、これほど早く反応が来るとは思っていなかった。
「村長殿。この返書には、契約書の価格条項の不備、そして識字率と奨励金の関係についての、かなり踏み込んだ指摘が記されています」
「はい。私どもなりに、内容を吟味した上でのお返事です」
「──失礼ながら、この村に、これほど契約書の細部を読み解ける者がいるとは、存じ上げませんでした」
レイモンドの視線が、じわりとドノヴァンの背後──集まった村人たちの方へ向けられた。その視線がレオの上で、一瞬だけ止まった。
「噂には聞いておりました。この村で、読み書きを教える者がいると」
「私です」
レオは一歩前に出た。
「アルダート伯爵家の四男、レオと申します」
その名乗りに、レイモンドの片眉がわずかに上がった。
「アルダート伯爵家の……なるほど。魔力なしゆえ辺境送りになったという、あの」
侮蔑とも驚きともつかない響きが、その声にはあった。レオは表情を変えずに、まっすぐレイモンドを見返した。
「子爵様は、この村の返書について、どのようなお考えをお持ちでしょうか」
「率直に申し上げれば」
レイモンドは静かに、しかし明確に言った。
「快く思っておられません。組合との取引は、この地域の経済の根幹を支えるものです。それを、一介の村が『内容がおかしい』と突き返すなど、前例のないことです」
「前例がないことと、内容が正しいことは、別の話だと思います」
レオの言葉に、レイモンドの目つきが鋭くなった。
「……ほう。四男殿は、随分と大胆な物言いをなさる」
「事実を申し上げただけです。あの契約書には、価格の明記がなく、識字率と奨励金の関係も、通常とは逆の書き方がされています。それを指摘することは、村として当然の権利だと考えます」
広場に、張り詰めた沈黙が満ちた。レイモンドはしばらくレオを見据えていたが、やがてふっと息を吐き、口元にわずかな笑みを浮かべた。それは、友好の笑みではなかった。
「面白いことをおっしゃる。……村長殿」
レイモンドは再びドノヴァンに向き直った。
「子爵様は、近くこの村へ視察にお越しになることを検討しておられます。噂に聞く『識字の村』が、どれほどのものか──ご自身の目で確かめたい、と」
その言葉に、村人たちの間から低いどよめきが上がった。ドノヴァンの顔から血の気が引く。
「子爵様御自らが……」
「ええ。日取りは追ってお知らせいたします。それまでに、村としての『心構え』を、しかとお考えおきください」
言葉の端々に、隠しきれない威圧が滲んでいた。レイモンドは一礼すると、踵を返し、馬車へと戻っていった。蹄の音が遠ざかっていくのを、村人たちは誰一人動かずに見送った。
静寂を破ったのは、ノアの震える声だった。
「先生……子爵様が、来るのか」
レオは、遠ざかる馬車の砂埃を見つめながら、静かに答えた。
「ああ。多分、そう遠くない日に」
灯りを消そうとする力は、噂でも、契約書でもなく、ついに領主その人という形で、村に迫ろうとしていた。
村人たちの顔に浮かぶのは、恐れだけではなかった。そこには、これまで積み上げてきたものを守ろうとする、静かな決意も滲んでいた。
「先生」
ミアが、レオの隣に並んだ。
「あたしたち、負けないよね」
その問いに、レオはすぐには答えられなかった。だが、しばらくの沈黙の後、彼は自分自身に言い聞かせるように、はっきりと言った。
「負けない方法を、一緒に考えよう」
夕暮れの空の下、村はこれから訪れるであろう最大の試練に向けて、静かに、しかし確かに動き始めていた。




