第16話 組合の反撃
行商人が逃げるように村を去ってから、数日が経った。
表面上、村の暮らしは平穏を取り戻していた。ノアもトビーも寺子屋に戻り、契約書の読み方を学ぶ授業には、以前にも増して多くの村人が詰めかけるようになっていた。しかし、レオの胸には、拭えない予感がくすぶり続けていた。
──これで終わるはずがない。
その予感は、思ったより早く現実になった。
ある朝、村長ドノヴァンの家に一通の書状が届いた。差出人は、グリンウォード交易組合。表向きは丁重な文言で綴られたその書状を、ドノヴァンは険しい顔で寺子屋に持ち込んだ。
「先生、これを見てくれ」
レオは書状を受け取り、目を通した。ミアも横から覗き込む。
「これは……」
内容はこうだった。組合は「エルバン村の発展を心から喜んでいる」とした上で、村と組合との間に新たな「協力契約」を結びたいと申し出ていた。村の特産品──主に麦や毛織物──を、今後五年間、組合が独占的に買い取る代わりに、村には「教育振興のための奨励金」を毎年支払う、という内容だった。
「奨励金……?」
ミアが眉をひそめた。文面だけを見れば、まるで組合が寺子屋の活動を後押ししてくれるかのような、寛大な申し出に見える。
だが、レオは何度も文面を読み返し、ある一点に目を留めた。
「ミア、ここを見てくれ。『独占的に買い取る』という部分の後に、価格についての記載がない」
「本当だ……いくらで買い取るか、どこにも書いてない」
「それに、ここ。『教育振興のための奨励金』は、村の識字率が一定の基準を下回った場合、支払いを停止すると書かれている」
村長ドノヴァンが息を呑んだ。
「下回った場合……? 上がった場合の間違いじゃないのか」
「いえ、正確に読むと逆です。識字率が下がれば奨励金が出る、上がれば出ない──そう読める書き方になっています」
一同がざわめいた。ガレットが唸るように腕を組む。
「つまり……村の連中が字を覚えるのをやめれば、金をくれてやる、と。そう言ってるのか」
「そう解釈できます。しかも、麦と毛織物の買い取り価格を明記していないということは、組合側が後から自由に価格を決められるということです。もし村がこの契約を結んでしまえば、五年間、組合の言い値で作物を売らされ続けることになりかねません」
レオの説明に、納屋の中は重い沈黙に包まれた。
「恐ろしい話だ……」
エマが震える声で呟いた。彼女の母が命を落とすきっかけとなったのも、こうした「言葉の罠」だったのかもしれない──そう思うと、拳が自然と握りしめられる。
「先生、これは……このまま突き返していいものなのか?」
ドノヴァンの問いに、レオは少し考えてから首を振った。
「いいえ。これは、村だけの問題じゃないと思います」
「どういうことだ」
「もし村が単純にこの契約を拒否したら、組合は『村が非協力的だ』と、別の形で圧力をかけてくるはずです。それに──」
レオは書状の隅に押された印章に目をやった。ヴォルフ子爵家の紋章に似た意匠が、控えめに刻まれている。
「この契約書には、子爵家の紋章が入っています。つまり、組合だけでなく、領主様も一枚噛んでいる可能性が高い」
その一言に、村人たちの顔色が変わった。
村長ドノヴァンが深く息を吐いた。
「……先生。この村は、これまでも領主様には逆らわず、大人しく従ってきた。それが、生き延びる術だったからだ」
「わかっています」
「だが」
ドノヴァンは、納屋の壁に貼られたままの契約書の写しを見た。数年前、村が土地を騙し取られかけたときのものだ。
「あの時、俺たちは何もできなかった。文字が読めなかったからだ。今は違う。俺たちには、読み解く力がある」
その言葉に、村人たちの間に静かな決意が広がっていった。
「先生。この契約、村のみんなで検証しよう。一人残らず、この書状の中身を、自分の目で確かめさせてくれ」
レオは深く頷いた。
「わかりました。今夜、集会を開きましょう。この村の未来を、この村の全員で決めるために」
夕暮れの光が納屋に差し込む中、レオは壁に貼られた新しい紙──組合からの契約書の写しを見つめた。
灯りを消そうとする力は、思っていたよりずっと巧妙で、そして大きい。だが、村はもう、かつての村ではない。
これから始まるのは、単なる噂との戦いではなく、村の未来そのものを賭けた戦いだった。




