第13話 母の不安、少年の選択
ノアの家は、村の中でも一番小さな畑を持つ農家だった。父親は数日前から腰を痛めて臥せっており、母親のサラが一人で畑仕事と家事を切り盛りしている。
レオが訪ねると、サラは畑仕事の手を止め、警戒するような目でこちらを見た。以前、ノアが文字を覚え始めた頃には見せなかった表情だ。
「先生。悪いけど、今日はノアを寺子屋にはやれない」
「サラさん」
「あの子には、この畑を継いでもらわなきゃならないんだ。魔力なんて元々うちにはない。それでも、せめて……せめて普通に、子を持てるくらいの体でいてほしい」
その声には、責めるような響きはなかった。ただ、深い不安だけがあった。
レオは、サラの言葉を遮らずに聞いた。前世でも、こういう場面が何度もあった。生徒の親が「勉強なんかより手に職を」と口にするとき、その裏にあるのはたいてい、我が子を守りたいという切実な思いだった。
「サラさん。その噂、誰から聞きましたか」
「隣村から来た行商人だよ。あちこちの村を回ってる人で、悪い人には見えなかった。わざわざ忠告してくれたんだ」
「その行商人は、何か商品を売っていましたか」
サラは一瞬、虚を突かれたような顔をした。
「……そういえば、薬草油を勧められたね。魔力を強める効果があるとかって。高かったから、買わなかったけど」
レオの中で、点と点が線になった。
不安を煽り、そこに解決策として商品を売りつける。行商人の常套手段だ。だが、それが偶然ではなく、意図的に仕組まれたものだとしたら──。
「サラさん。俺は、その噂が本当かどうか、確かめる方法があると思っています」
「確かめる方法……?」
「文字を覚えた人間が魔力を失うというなら、その行商人はどこでそれを確認したんでしょうか。医者ですか、学者ですか。それとも、誰かから聞いた話をそのまま話しているだけでしょうか」
サラは黙り込んだ。
「もし本当なら、俺は今すぐ寺子屋を閉めます。俺だって、子供たちを危険な目に遭わせたいわけじゃない。でも、根も葉もない話で、ノアが学ぶ機会を失うのは……もったいないと、俺は思っています」
そのとき、家の陰から小さな声がした。
「母ちゃん」
ノアだった。畑の隅に隠れるように立っていたのか、いつの間にか話を聞いていたらしい。
「俺、字が読めるようになって、この間、隣村の商人が持ってきた種の袋、読めたんだ。中身が書いてあるのと違う種が混ざってた。母ちゃんに言ったら、母ちゃんも気づいてなかったろ」
サラの表情が揺れた。
「あれは……」
「魔力なんて、俺にはもとからない。でも、字が読めるようになって、初めて『自分の家を自分で守れるかもしれない』って思えたんだ。それを、噂だけでやめたくない」
ノアは、以前の反抗的な口調とは違う、静かな声でそう言った。レオは驚いて少年を見た。数ヶ月前、勉強なんて腹の足しにもならないと嘯いていた少年が、今はこんな言葉を口にしている。
サラは長い沈黙の後、深く息を吐いた。
「……先生。あんたを信じたわけじゃない。でも、この子の顔を見てたら、無下に止める気にはなれないよ」
「ありがとうございます」
「その代わり」
サラはレオをまっすぐに見た。
「その噂の正体、ちゃんと確かめとくれ。もし本当に危ないもんなら、あたしはこの子を寺子屋には二度とやらない」
「約束します」
ノアが小さくガッツポーズを作るのを横目に、レオは静かに頷いた。
一人、また一人と、生徒たちの信頼を繋ぎ止めながら、確実に噂の出所へと近づいていく──そんな手応えを感じながらも、レオの脳裏には拭えない疑問が残っていた。
グリンウォード交易組合は、なぜ今、このタイミングで動いたのか。
答えはまだ、霧の向こうにあった。




