第112話 解けない暗号、遠い符牒
第112話:解けない暗号、遠い符牒
ミルバンク村に寺子屋の看板が掛かってから五日が過ぎた。
朝の空気にはまだ夏の名残があったが、山際の風にはわずかに秋の匂いが混じり始めている。レオは看板の下で、覚えたての文字を反復するリナやノアたちを見守りながら、内心では別のことを考えていた。
──王都の解析班から、まだ何の連絡もない。
灰の館の地下書庫で発見された暗号じみた記録。あれが真の黒幕へと繋がる唯一の糸口であることは、ガイウスも認めていた。だが、五日経っても音沙汰がないというのは、決して良い兆候ではない。
「レオ、また難しい顔してる」
ミアが隣に腰を下ろしながら、呆れたように言った。手には、ミルバンクの子供たちのために新しく作った文字カードの束を抱えている。西方三村の教材は、エルバン村のものよりも一回り絵柄を増やした。鉱山の道具や作物など、この土地の暮らしに馴染む題材を選んだのはミアのアイデアだった。
「解析班からの報せが来ないのが、少し気になってな」
「気になるのは分かるけど……今は、今できることをやるしかないでしょ」
ミアの言葉に、レオは苦笑して頷いた。彼女の言う通りだった。目の前には、文字を覚えたいと目を輝かせる子供たちがいる。焦っても、遠い王都の解析が早まるわけではない。
その日の昼過ぎ、村の入り口に土埃を上げて一頭の馬が駆け込んできた。乗っていたのは、王都からの伝令だった。ガイウスが真っ先に駆け寄り、書状を受け取る。
「……解読が、進んだのか」
書状に目を通すガイウスの表情が、みるみる険しくなっていく。レオとミアも思わず駆け寄った。
「暗号の一部が解けた。灰の館の記録にあった符牒は、単なる地名や品目の隠語ではなく──取引ごとの『格付け』を示すものだったらしい」
「格付け……?」
「連れ去られた人間を、年齢や体格、技能によって等級分けしていた形跡がある。ダニエルとフィンのような若い男は採石場、リナのような子供は別の等級……そして、記録の中には、まだ解読しきれていない最上位の等級が存在する」
その場に、重い沈黙が落ちた。
「最上位の等級というのは、つまり──」
ミアが声を詰まらせながら尋ねる。
「分からない。だが解析班の見立てでは、その等級に該当する取引先だけが、西方三村や九つの村とはまったく別の帳簿──館の中でも最奥、いまだ発見されていない場所に記録されている可能性が高いという」
灰の館は、既にすべて衛兵によって接収され、隅々まで捜索されたはずだった。それでもなお「発見されていない場所」があるという事実に、レオは背筋が冷たくなるのを感じた。
「エドマンドは、その最奥について何か話しているのか?」
「頑として口を割らない。ただ──」ガイウスは書状の最後の一文に目を落とした。
「尋問の際、彼が一度だけ漏らした言葉がある。『あの方の名を出せば、私など一晩で消される』と」
“あの方”。それが誰を指すのか、誰にも分からない。だが、その言葉の重みだけは、この場にいる全員に等しく伝わった。
「王都では、これ以上の情報漏洩を防ぐため、エドマンドの身柄を厳重に隔離することになった。同時に、俺たちにも新たな指示が来ている」
ガイウスは書状をたたみ、レオとミアを見た。
「西方三村の事後処理が落ち着き次第、俺たちは一度、王都へ戻ることになる。バロウズ侯爵の一件を裁いた内務省が、直々に俺たちの話を聞きたいそうだ」
王都──その響きに、レオは公聴会の日の記憶を思い出した。国王ジークフリートの裁定によって、九つの村の被害が明るみに出たあの日。だが、灰の館で見つかった証拠は、その九村をはるかに超える規模を示唆していた。今度こそ、事件の全貌に迫れるかもしれない。同時に、それは今までとは比べ物にならない、大きな相手との対峙を意味していた。
「レオ先生、次の字、教えて!」
物思いに沈むレオの袖を、リナが元気よく引いた。その屈託のない笑顔に、レオは我に返る。
「ああ、すぐ行く」
大人たちの間に流れる不穏な気配をよそに、子供たちの学びは今日も続いていく。その小さな灯りこそが、どんな闇にも屈しない証なのだと、レオは自分に言い聞かせるように、リナの隣に腰を下ろした。
だが、この時のレオはまだ知らない。王都行きの先に待つのが、これまでのどの相手よりも遥かに巨大で、そして意外なほど身近な影であることを。




