第108話 待つことの意味
村に戻ったガイウスは、その夜のうちに早馬を王都へと走らせた。
「王都までは、早馬でも二日はかかる。……向こうで捜査団が編制され、こちらに向かうまで、さらに数日。世話役が戻ってくる期限までに、間に合うかどうか」
ガイウスの言葉に、部屋の空気が重くなった。
「間に合わなかったら、どうするんですか」
エマが不安げに尋ねる。
「その時は……俺たちだけで、何とかするしかない」
ノアが拳を握りしめた。
「だったら、最初からそうすりゃいいだろ。灰の館の時だって」
「灰の館とは、状況が違う」
ガイウスが遮った。
「あの時は、俺たちは屋敷という限られた空間の中で、キットという内通者もいた。今回は、坑道という未知の構造の中に、複数の見張りがいる敵地だ。……闇雲に飛び込めば、囚われている人々もろとも、危険に晒すことになる」
その言葉に、ノアは唇を噛んで黙り込んだ。
「待つのも、戦いのうちだ」
レオが静かに言った。
「わかってるよ、そんなこと」
ノアの声には、苛立ちと悔しさが滲んでいた。
「でも……リナのことを考えると、じっとしてられねえんだよ」
その気持ちは、レオにも痛いほどわかった。
だからこそ、今この瞬間にできることを、精一杯やるしかない。
「ノア。お前にしかできないことがある」
「なんだよ」
「リナとベンの傍にいてやってくれ。あの子たちが、少しでも安心していられるように」
ノアは一瞬、意外そうな顔をしたが、やがて小さく頷いた。
「……わかった。それくらいなら」
翌日から、寺子屋はいつも通りに開かれた。表面上は、何も変わらない日常。だが、そこに集う人々の心には、見えない緊張が張り詰めていた。
リナは、いつものように文字の練習をしていたが、時折、手を止めては村の入り口の方角に目をやっていた。
「大丈夫か」
レオが声をかけると、リナは無理に笑おうとした。
「うん……平気」
その笑顔が、あまりにも痛々しかった。
「リナ」
ノアが、リナの隣に腰を下ろした。
「これ、教えてやるよ。俺が最初に覚えた字」
ノアはかるたを取り出し、一枚を差し出した。「つよい」という文字が書かれたかるただった。
「これは?」
「『つよい』って読むんだ。……俺、最初は全然字なんて興味なかったけどさ。先生に、この字を見せられて、なんかムカついて、絶対覚えてやるって思ったんだ」
「ムカついて?」
「『お前には難しいかもな』って言われて。バカにされた気がして」
ノアが懐かしそうに笑う。実際にはそんな挑発的な言い方をレオがしたわけではなかったが、当時のノアにはそう聞こえたのだろう。
「だから、意地でも覚えた。……そしたら、なんか、自分が『強く』なった気がしたんだ。字を知らなかった頃の自分より、ちょっとだけ、何にも負けない気がして」
リナはじっと、その文字を見つめていた。
「私も、強くなれる……?」
「なれるよ。今だって、もう『はな』とか『みず』とか、書けるようになったんだろ? それだけで、もう十分強い」
ノアの言葉に、リナの目に、わずかな光が戻った。
その様子を少し離れた場所から見ていたミアが、レオに小声で言った。
「ノアさん、変わりましたね」
「ああ。……最初は、あんなに反抗的だったのにな」
「先生の教えたことが、ちゃんと繋がってるんですね。ノアさんから、リナちゃんへ」
レオは頷いた。文字は橋になる。それは、レオとリナを繋ぐだけでなく、かつて教わった者から、次に学ぶ者へと、静かに受け継がれていくものでもあるのだと、改めて実感した。
そうして三日が過ぎた頃、村の入り口に、一人の伝令が姿を現した。
「ガイウス様!」
騎馬の男が、息を切らしながら駆け込んできた。ヴォルフ子爵領からの使者だった。
「王都からの報せです。……捜査団の編成が完了し、明後日にはこちらに到着する予定とのことです」
ガイウスの表情に、わずかな安堵が浮かんだ。
「間に合うか……世話役の男が戻る期限は、明日か明後日のはずだ」
「ギリギリですね」
ミアが緊張した面持ちで言った。
「だが、間に合う可能性が出てきた」
ガイウスは伝令にいくつかの指示を伝え、村人たちに気取られぬよう、慎重に態勢を整え始めた。
その夜、レオは一人、村はずれの空き地で、静かな夜空を見上げていた。
「先生」
背後から声がして、振り返るとエマが立っていた。
「眠れないんですか」
「少しな。……考え事をしていた」
「灰の館の時も、思い出しますね」
エマが隣に立ち、同じ夜空を見上げた。
「あの時も、直前まで、うまくいくかどうか、わからなかった」
「ああ」
「でも、うまくいきました。……今度も、きっと」
エマの声には、まっすぐな信頼が込められていた。レオはその言葉に、静かに頷いた。
「明日か、明後日か。……いずれにせよ、決着の時は近い」
夜風が、山あいの村を静かに撫でていった。
まだ見ぬ坑道の奥で、囚われた人々が待つ夜明けを、レオたちもまた、息を潜めて待ち続けていた。




