第104話 小さな橋
リナが寺子屋に顔を出すようになってから、数日が過ぎた。
最初は一人だったが、三日目には、リナと同じ年頃の男の子が一人、遠巻きについてくるようになった。名をベンといい、リナの幼馴染らしい。
「べつに、字を習いたいわけじゃないから」
ベンは腕を組み、そっぽを向きながらそう言った。その態度は、かつてのノアを思い出させて、レオは思わず笑ってしまいそうになった。
「そうか。じゃあ、見てるだけでいいよ」
「……別に、見ててやってもいいけど」
そう言いつつも、ベンの視線は、リナが書く文字をずっと追っていた。
「リナ、あの字は?」
「『みず』だよ。井戸の『みず』」
「ふうん……俺だって、書けるし」
ベンは負けん気を発揮して、リナの隣に座り込んだ。かるたを取り上げ、見様見真似で線を引き始める。不格好な文字だったが、確かに「みず」の形になっていた。
「上手いじゃないか」
レオが声をかけると、ベンは「別に」と言いながらも、耳が赤くなっていた。
こうして、少しずつではあるが、寺子屋に集う子供たちの数が増えていった。とはいえ、大人たちは相変わらず遠巻きに眺めるばかりで、直接顔を出す者はいない。
ある日の午後、リナが一人でやってきて、いつものように文字の練習を始めた。だが、その日はどこか様子が違った。手が止まりがちで、時折、村の方角を気にするように振り返る。
「どうかしたか?」
レオが尋ねると、リナは少し迷った様子を見せてから、小さな声で言った。
「……お父さんが、帰ってこない」
「帰ってこない?」
「三日前から、いなくなった。お母さんは、『仕事で遠くに行ってる』って言うけど……」
リナの声が震えていた。
「でも、いつもと違う顔してた。すごく、心配そうな顔」
レオの中で、何かが繋がった。三日前──ちょうど、ガイウスたちが鉱山跡地の情報を集めていた頃と、時期が近い。
「リナ、お父さんの仕事は?」
「木こり。……でも、最近は違う仕事も、してるって聞いたことがある」
「違う仕事、っていうのは?」
リナは首を横に振った。
た「わからない。お父さんも、あんまり話してくれなかったから」
レオは慎重に言葉を選んだ。子供を怖がらせず、それでいて必要な情報を集めなければならない。
「お父さんが、何か困ったことに巻き込まれてるかもしれない。……もしよかったら、俺たちに手伝わせてもらえないか」
リナは不安げな表情のまま、小さく頷いた。
その夜、レオはガイウスたちにリナから聞いた話を伝えた。
「三日前……時期が合うな」
ガイウスが険しい表情で言った。
「俺たちが鉱山跡地の情報を集め始めたのと、ほぼ同時期だ。……村の中で、何か動きがあったのかもしれない」
「もしかしたら、俺たちの動きが村に伝わって、警戒が強まったのかもしれません」
ミアが不安げに言う。
「その可能性もある。……あるいは、もともと定期的に人手を『調達』する周期があって、たまたま重なっただけかもしれない」
ノアが苛立たしげに言った。
「どっちにしろ、放っておけないだろ。リナちゃんの父ちゃんが、鉱山に連れて行かれたかもしれないんだ」
「落ち着け、ノア」
ガイウスが制した。
「確証もなく、いきなり乗り込むわけにはいかない。それに、俺たちが強引に動けば、リナの父親どころか、村人全員を危険に晒すことになりかねない」
「じゃあ、どうすんだよ」
「証拠を集める。……そして、村長のハロルドに、もう一度話を聞く必要がある」
翌朝、ガイウスとレオは、揃って村長の家を訪ねた。ハロルドは二人の姿を見るなり、明らかに顔をこわばらせた。
「また、貴族様と、寺子屋の先生か。今度は何のご用で」
「単刀直入に聞く」
ガイウスが切り出した。
「この村から、三日前に姿を消した男がいるはずだ。木こりの……名は、まだ知らないが」
ハロルドの表情が、一瞬にして凍りついた。
「……何のことか、わかりませんが」
「リナという少女の父親だ。三日前から帰っていないと聞いた」
「それは……その、仕事で、遠くまで」
「木材の買い付けにしては、随分と長い出張だな」
ガイウスの声は静かだったが、有無を言わせぬ圧があった。
ハロルドは、しばらく黙り込んでいた。その顔には、隠し事をする者特有の、追い詰められた色が浮かんでいた。
「……お願いです」
やがて、ハロルドは声を絞り出すように言った。
「これ以上、詮索しないでください。……村の者たちが、危ないんです」
「危ない、とは?」
「話せません。話せば、もっと多くの人間が……」
ハロルドの声が震えていた。恐怖に支配された人間の声だった。
レオは一歩、前に出た。
「ハロルドさん」
「……なんですか」
「もし、あなたが話す言葉を、誰にも知られずに残す方法があるとしたら」
ハロルドが顔を上げた。
「話す、のではなく──書く、という方法です」
レオの言葉に、ハロルドの目に、初めて何かが揺らいだ。




