第103話 窓の向こうの目
寺子屋を開いて三日が過ぎても、誰一人として広場に近づいてくる者はいなかった。
「……相変わらず、見られてる感じはするんですけどね」
ミアが小声で言いながら、それとなく周囲の家々に目をやった。窓の隙間や扉の陰から、こちらの様子を窺う視線は、確かに感じる。だが、それが実際に足を運ぶことには繋がらない。
「エルバン村の時とは、だいぶ違いますね」
エマが文字かるたを並べ直しながら言った。
エルバン村では、最初こそ怪しまれたものの、子供たちの好奇心をきっかけに徐々に人が集まってきた。だが、ここでは子供の姿すら、ほとんど見かけない。
「子供たちは、大人に外へ出るなと言われているのかもしれないな」
レオは呟いた。恐怖による沈黙は、大人だけでなく、子供にまで及んでいるということだろうか。
その時、視界の端に小さな影が動いた。
広場の隅、井戸の陰から、こちらをじっと見つめる小さな顔があった。年の頃は七、八歳ほどの女の子だ。目が合うと、慌てて井戸の陰に隠れてしまう。
「……今、いましたよね」
ミアが小声で言う。
「ああ」
レオはゆっくりと、井戸の方へ近づいた。急に距離を詰めれば、怖がらせてしまう。数歩進んでは足を止め、また数歩進む。
井戸のそばまで来ると、女の子はもう隠れきれず、その場にしゃがみこんで身を縮めていた。
「こんにちは」
レオは、しゃがみこんだ女の子と目線を合わせるように、自分も膝をついた。
「怖がらせて、ごめんね。俺はレオという。あそこで、字を教える場所を開いているんだ」
女の子は答えなかった。ただ、大きな目でじっとレオを見つめている。
「見ているだけでもいいよ。……字を書くのが、少し面白そうだなって思ったら、いつでも来てくれていい」
「……ダメって、言われてる」
小さな声が返ってきた。
「誰に?」
女の子は口を噤んだ。言ってはいけないと、強く言い聞かされているのだろう。
「そっか。……なら、無理に聞かないよ」
レオはそれ以上追及せず、懐から一枚の紙切れを取り出した。文字かるたの予備に使っている、小さな紙だ。そこに、簡単な文字を一つ書いた。
「これは、『はな』って読むんだ。花の『はな』」
紙を差し出すと、女の子はおずおずと受け取った。じっとその文字を見つめている。
「持って帰っていいよ。もし気が向いたら、また明日、この時間にここへおいで」
女の子は何も言わず、紙を握りしめたまま、走り去っていった。
「あの子、名前も聞けませんでしたね」
その夜、借りている空き家で、ミアが少し残念そうに言った。
「焦る必要はない。……今日、あの子が紙を受け取ってくれたこと自体が、大きな一歩だ」
レオは静かに答えた。エルバン村での経験を思い出す。最初にかるたに触れたノアも、最初は反抗的な態度を隠さなかった。それでも、少しずつ心を開いていった。時間をかけることを恐れてはいけない。
「問題は、村人たちが『誰に』口止めされているか、ですね」
エマが言った。
「村長のハロルドさんか、それとも別の誰かか」
「あるいは、もっと上の──グレイフィールド家に繋がる誰か、かもしれない」
その可能性を口にすると、部屋の空気が少し張り詰めた。
翌日の夕方、村はずれの林の中で、ガイウスとノアが戻ってきた。二人は村の外から周辺の情報を集めていたのだが、その表情は硬かった。
「収穫は?」
レオが尋ねると、ガイウスは地図を取り出しながら答えた。
「村の北にある山道の先、半日ほど行った場所に、使われていない鉱山の跡地がある。……そこに、定期的に荷馬車が出入りしているという証言を、近隣の行商人から得た」
「鉱山跡……」
「表向きは廃坑扱いだが、実際には何かに使われている可能性が高い。灰の館の書庫にあった記録の中に、『西方採掘拠点』という言葉があったのを覚えているか」
レオは頷いた。あの隠し書庫で目にした、無数の記録の中の一つ。当時は詳細まで読み解く時間がなかったが、確かにそんな記述があった。
「まさか、ダニエルたちが送られていた北部の採石場と、同じような場所が……」
「可能性はある。だが、確証はまだない。……何より、村人たちが口を閉ざしている理由が、その鉱山と関係しているのかどうかも、まだわからない」
ノアが苛立たしげに拳を握った。
「じれってえな。灰の館の時みたいに、さっさと乗り込んで確かめられないのかよ」
「今回は、証拠がまだ何もない」
ガイウスが冷静に制した。
「灰の館の時は、キットの証言と隠し書庫という決定的な材料があった。今は、噂と憶測だけだ。……下手に動けば、村人たちをさらに危険に晒すだけになりかねない」
その言葉に、ノアも渋々ながら頷いた。
「まずは、村人たちの信頼を得ることが先だ」
レオは静かに言った。
「文字を教えることも、証拠を集めることも、村人たち自身が『話してもいい』と思える土壌がなければ、何も進まない」
「土壌、か」
ガイウスが小さく笑った。
「お前らしい言い方だな」
「教師ですから」
レオも小さく笑い返した。だが、その表情はすぐに引き締まった。
翌日の午後、レオが一人で広場の寺子屋に座っていると、井戸の陰から、また小さな影が現れた。昨日の女の子だ。
今度は、隠れることなく、まっすぐにこちらへ歩いてきた。
「……昨日の、字」
女の子は、握りしめていた紙切れを差し出した。皺だらけになったその紙には、レオが書いた「はな」の文字の横に、たどたどしい線で、同じ文字が書き足されていた。
「一人で、練習したのか」
レオが驚いて尋ねると、女の子はこくりと頷いた。
「これで、あってる……?」
「ああ。よく書けてる」
レオが微笑むと、女の子の表情に、初めてわずかな笑みが浮かんだ。
「名前を、聞いてもいいかな」
「……リナ」
「リナか。俺はレオだ。よろしく」
差し出した手を、リナは少し戸惑いながらも、小さな手で握り返した。
小さな、けれど確かな一歩が、ミルバンクの村にも刻まれ始めていた。




