第101話 手紙
ブライアーウッド村に滞在して、十日が過ぎた。
共同倉庫の帳簿は完全に整理され、不審な差異の原因──四年前から少しずつ品目名を書き換えていた、かつての管理人による着服──も明らかになった。管理人は既に村を去っていたが、記録が残っていたことで、被害の全容と、村に返還されるべき分の算定まで済んだ。
「文字がなければ、この管理人は今でも涼しい顔で村の物資をくすねていたでしょうね」
村長がそう言って、深々と頭を下げた。
「先生、そして皆さんには、本当に感謝してもしきれません」
「俺たちは、きっかけを作っただけです。ここから先、この帳簿を管理していくのは、村の皆さん自身の力ですから」
レオがそう答えると、村長は目を細めて頷いた。
出発の朝、村はずれの街道には、また多くの村人たちが見送りに集まっていた。フィンとダニエルの姿もある。二人とも、まだ本調子とは言えないが、顔色はこの十日で見違えるほど良くなっていた。
「先生」
フィンが一枚の紙を差し出してきた。まだたどたどしい、けれど確かに読み取れる文字が並んでいる。
『せんせい、ありがとうございました。またきっと、じをおしえてください』
「これは……」
「昨日の夜、母さんに見せたら泣かれました。字が汚いって笑われるかと思ったのに」
フィンは照れくさそうに笑った。
「汚くなんかない。むしろ、驚くくらい丁寧だ」
レオは本心からそう言った。四年間の空白と、灰の館での過酷な日々を経てなお、こうして文字を取り戻そうとする意志。それは決して簡単なことではない。
サリーが進み出て、深く頭を下げた。
「先生。この子たちを……いいえ、この村を、救っていただいて」
「いえ、俺は」
「わかっています。先生一人の力じゃないって、何度も仰るんでしょう。でも」
サリーは顔を上げ、まっすぐにレオを見た。
「文字を知らなければ、始まらなかったことばかりでした。倉庫の帳簿も、灰の館の証拠も、フィンとダニエルの証言も。……先生が最初にこの国のどこかで、文字を教え始めてくれたから、その先に、この子たちの帰り道があったんです」
レオは何も返せず、ただ頭を下げた。感謝の言葉を素直に受け取ることに、まだ少し慣れていない自分がいる。
「先生」
不意に、ノアが袖を引っ張ってきた。
「そろそろ行かないと、日が暮れる前に次の村に着けないぞ」
「……そうだな」
見送りの村人たちに手を振りながら、馬車はゆっくりと動き出した。窓の外で、フィンとダニエル、そしてサリーの姿が、少しずつ小さくなっていく。
「灯りが、また一つ増えましたね」
ミアが呟いた。
「ああ」
レオは頷きながら、懐から一通の手紙を取り出した。ブライアーウッド村を発つ前日、王都から届いたものだった。差出人は──キット。
保護施設で新しい生活を始めたばかりの少年からの、初めての手紙だった。
『れお せんせい
げんきに していますか。ぼくは げんきです。
ほごしせつの ひとたちは みんな やさしいです。まいにち すこしずつ もじを ならっています。まだ じぶんの なまえしか かけませんが、つぎに あうときは、もっと たくさん かけるように なりたいです。
はいの やかたの ことは、ときどき おもいだして こわく なりますが、だいじょうぶです。ここには、ぼくを たすけて くれた ひとたちが います。
いつか、えるばんむらにも いって みたいです。れお せんせいの がっこうを、この めで みて みたいです。
きっと また あいましょう。
きっと』
拙い文字で綴られた手紙を、レオは何度も読み返した。
「先生?」
ミアが心配そうに覗き込んでくる。レオは首を横に振り、少し笑った。
「いや……いい手紙だったから」
「キットさんからですか」
「ああ」
ノアが身を乗り出してきた。
「あの、灰の館にいた子か。元気にしてるのか?」
「文字を覚え始めてるらしい。……もう、自分の名前は書けるそうだ」
「へえ」
ノアは意外そうな、それでいて嬉しそうな表情を浮かべた。灰の館で共に危機を乗り越えた少年の成長を、自分のことのように喜んでいるのが伝わってきた。
エマが窓の外を見ながら、静かに口を開いた。
「文字って、不思議ですね」
「どうした、急に」
「離れていても、繋がれる。声が届かない場所にいても、想いを伝えられる。……お母さんの手紙を読めるようになった時、私、初めてそれを実感したんです」
エマは自分の胸元にそっと手を当てた。母の遺言が刻まれた、あの日のことを思い出しているのだろう。
「キットさんの手紙も、フィンさんが書いた文字も、きっと同じですね。会えない時間や距離を、埋めてくれるものだから」
レオは頷いた。
「文字は、剣にも盾にもなる。……そして、橋にもなる」
自分がかつて生徒たちに語った言葉に、また一つ意味が加わった気がした。人と人を繋ぐ橋。離れていても、想いを届け続けられる橋。
「さて」
レオは手紙を丁寧に折りたたみ、懐にしまった。
「次の村まで、あと少しだ。西方三村──まずは、ミルバンクから始めよう」
馬車の窓の外には、これまでとは違う、見慣れぬ山々の稜線が広がり始めていた。




