第10話 灯りの数だけ
秋の気配が深まる頃、エルバン村の空気は、俺が初めてこの地を踏んだ時とは、明らかに違うものになっていた。
寺子屋に通う生徒は、気づけば十五人を超えていた。ミア、ノア、エマ、ガレットとトビーの祖孫、カイル──そして、彼らの評判を聞きつけてやってきた、名も知らぬ子供や大人たち。納屋一つでは、もう手狭になりつつあった。
「レオ様、今日の分の収穫、書き留めておきました」
そう言って帳面を差し出してきたのは、ノアだった。父の畑仕事を手伝いながら、彼は今では自分の手で、収穫の記録をつけられるようになっていた。数字と品目が、几帳面な字で並んでいる。
「上出来だ」
「まだ字、汚いけどな」
「読めれば十分だ」
そう答えると、ノアは満更でもなさそうに鼻を鳴らした。
その帳面を横から覗き込んだガレットが、感慨深げに呟いた。
「わしの独自の記号より、よっぽど分かりやすいわい」
「じいちゃんの記号も、味があって好きだけどね」
トビーがからかうように言うと、ガレットは孫の頭を軽く小突いた。かつて誰よりも頑なだったこの老人が、今では誰よりも熱心に、孫と並んで文字を学んでいる。その光景を目にするたび、俺は言葉にできない感慨を覚えていた。
夕暮れ時、村の広場では、ちょっとした催しが開かれることになった。年に一度の収穫祭──今年は、いつもと少し違う趣向が加わっていた。
「レオ様の発案で、今年は"手紙”の交換をするんです」
ミアがそう説明してくれた。文字を覚えた者たちが、家族や親しい者へ、短い手紙を書いて贈り合う。ただそれだけの、ささやかな催しだった。
「まさか、こんなことになるとはな」
村長のドノヴァンが、感慨深げに広場を見渡しながら呟いた。
広場のあちこちで、覚えたての文字で書かれた短い手紙が、そっと手渡されていく。エマは、亡き母の言葉を胸に、今度は自分の妹に、手紙を書いていた。カイルは、隣村のあの娘への次の手紙を、真剣な顔で書き上げている。ベサニー老女は、ミアの手を借りながら、遠くに嫁いだ娘への便りをしたためていた。
「──こんなに小さな村に、これだけの灯りが増えるとは、思ってもみなかった」
俺の隣に立ったドノヴァンが、そう漏らした。
「灯り、ですか」
「文字を覚えるというのは、心に灯りを点すようなものかもしれん。今まで暗闇の中で、手探りで生きてきたものが、少しずつ、自分の足元を照らせるようになる」
その言葉に、俺は静かに頷いた。
前世では、こんな言葉で自分の仕事の意味を語られたことは、一度もなかった。ただの授業。ただの成績。それだけだと、思い込んでいた時期すらあった。だが、ここでは違う。一つひとつの学びが、確かに誰かの人生を照らしている。
「レオ様のおかげです」
「いや……」
俺は首を振った。
「俺は、きっかけを作っただけです。灯りを点したのは、ここにいる皆さん自身だ」
その言葉に、ドノヴァンは静かに微笑んだ。
夜が更ける頃、広場には、いくつもの小さな灯りが揺れていた。手紙を交わし合う人々の顔は、皆一様に、穏やかな喜びに満ちている。かつて行商人に騙され、諦めることに慣れきっていた村の空気は、今、確かに変わり始めていた。
「レオ様」
ふと隣を見ると、ミアが夜空を見上げながら、静かに口を開いた。
「わたし、最近よく思うんです。この村が変わっていく様子を、もっと多くの人に知ってもらえたらって」
「隣村とか、か」
「はい。ソルヴィン村にも、きっとこの村と同じように、文字が読めなくて困っている人が、たくさんいると思うんです」
その言葉に、俺は小さく頷いた。だが同時に、脳裏には、あの慇懃な笑みを浮かべた男の顔がよぎった。ダレン──グリンウォード交易組合の長。あの日の訪問以来、表立った動きこそなかったものの、あの男が、この村の変化を黙って見過ごすとは、とても思えなかった。
「──広がっていくのは、良いことだと思う。ただ」
「ただ?」
「この灯りを、快く思わない相手もいる」
ミアの表情が、わずかに引き締まった。
「組合、ですね」
「ああ」
夜空の下、村の灯りを見つめながら、俺は静かに、これから訪れるであろう波乱を予感していた。この小さな灯りの輪が、村の外へと広がっていく時、それを消そうとする力もまた、動き始めるはずだ。
「大丈夫でしょうか、この村」
不安げなミアに、俺は努めて穏やかな声で答えた。
「大丈夫だ。一人じゃない」
かつて、一人きりで始めたこの試みは、もう、俺だけのものではなくなっていた。ミアが、ノアが、エマが、ガレットが、カイルが。それぞれの灯りを持った人々が、この村には、もう十分すぎるほどいる。
たとえこれから、どんな嵐が訪れようとも──。
俺は、広場に揺れる灯りの数を、もう一度、静かに数え直した。




