第1章 第1話 あの日の白影砦
「次は誰ぇ〜?」
白影砦に行くのはとっても楽しい。
大好きな剣が振れるから。
お父さんは砦の責任者で、みんなから信頼されているのが誇らしいし、私が行くと構ってくれる。
元衛士のお母さんも、たまにだけど剣に付き合ってくれる。
「おっ、じゃあ次は俺が、ちょっと強めにいっちゃおうかなあ?」
「いいよぉ〜」
妹のティアリスは剣を握る私を見て、最初の一回はやりたがったけど、一回限りで興味はなくなったみたいだった。
妹の相手はたいていお母さんがしていて、この間はなんかアクセサリーを作ってた。女の子らしいかも。
「いやあ、リゼアノートちゃんはすごいよ」
「もうあと数年したらほんとに敵わなくなりそうですね」
私の相手は衛士さんたちがしていた。というより勝手に混ざっていた。
私は剣が好き。
上達していくのが楽しいし、みんな褒めてくれるのは嬉しい。
「そうだろ、俺の娘だからな!お前らみたいにデリカシーのない奴にはやらないぞ?」
「こりゃあイェジェットさんに勝てないとダメそうだ」
「当然だろ」
「それじゃ結婚できなくてかわいそうですよ、あっはは」
剣を持つお父さんや衛士さんはかっこよくて、いつか私もみんなみたいに砦の外で戦えると思っていた。戦いは怖いものじゃないと思っていた。
今日の夕方までは……
・
ハル地区第四砦、通称、『白影砦』
北のミケウと南の中央街。
二つの大きな街を隔てる蓋山脈にそびえる鍵山。
そのミケウ側の麓に白影砦は築かれている。
白影砦は、ケモノの多い鍵山に街道の要所として築かれた。
"白影"と呼ばれるのは、ウサギのケモノが特に多いためで、その肉や毛皮を獲ることも、砦に駐屯する衛士たちの任務となっている。
「来たぞ、片耳だ」
不定期に現れるウサギの中には、人間の男性のような、大きな体で片耳が半分欠けた魔獣がいた。
多くのウサギたちを従えていた片耳ウサギは、砦に、というより一人の人間にその鋭い眼光を向けていた。
「あいつは俺がやる」
片耳とは幾度も交戦した。
"幾度も"だったのは、砦の衛士長である"吹雪のイェジェット"が片耳の猛攻を防ぎ、撃退していたからだ。
ケモノの目的など、生きて食い散らかしたい、旨い人間の肉を口いっぱいに頬張りたいという、太古から本能に刻まれた欲望に従うことだけだが、片耳に知恵はあった。
あの人間には勝てないと踏んだのだ。
いつしか片耳とイェジェットは直接対峙することなく、互いに睨みを効かせる状態となった。
それでも片耳は、姿だけは現し、配下のウサギたちをけしかけてきた。
自分たちの縄張りに人間が入ってきて、諦めるなどなかった。
その状況は人間側に都合が良く、適度にウサギたちを連れてきてくれるならと、執拗に片耳を追うこともなく、魔獣討伐の依頼を出すこともなかった。
・
『白影の村』
「リゼ、運ぶの手伝ってあげなさい。ティアは食器を並べててね」
「はーい」
「はぁい」
白影砦の北側には、白影の村があり、白影砦に赴任する衛士の家族らが住んでいた。
危険地帯でない限り、砦にはこういった村が隣接することは当たり前の光景である。
衛士の家族は義務のようなものとして生活を支え、輸送や宿の提供などの仕事もこなして暮らす。
「あっちに積めばいいですか?」
「お、リゼアノートちゃん。うん、この辺の軽いやつだけでいいからね、ありがとう」
「はーい!……よっ、いしょ」
こういった村に危険がないわけではないし、不運に見舞われることはある。
だが常に衛士が行き交い滞在する拠点は逆に安全とも言える。
災厄を経験していなければ、自分だけには不幸は振りかからないと信じ、便利さを前に僅かな可能性には目をつむってしまう。
「ティアぁ、こぼしてるじゃない」
「え〜?えへへ」
「もう、しょうがないなあ……」
「リゼぇ、優しくするのよ〜、おねえさんなんだから」
「してますぅ」
白影砦衛士長イェジェットの娘である8歳のリゼアノートは、母と妹と共に白影の村で暮らし、暇があればしょっちゅう家族で砦まで遊びに行っていた。
「お母さん、今日は砦に行く?」
「終わってご飯食べたらね。だから早くしなさい」
「やったー!すぐ終わらせてくるから!ティアも手伝ってよ」
「え〜、重いのやだぁ」
「お父さんのお弁当も詰め終わったんでしょ?わがままいわないの、小さいのもあるから」
「はぁい……」
その日もやることを終わらせたら砦に行く。
それが楽しみで、だからこそ仕事にも精が出た。
ご飯も早く食べてしまいたい。
「お母さん、今日はなに?」
「お母さんの得意なウサギコロシ炒めだよぉ、はいどうぞ」
「んふ、美味しいね。変な名前だけど」
「変な名前だけど〜」
「そう?わかりやすいと思うんだけど……」
白影砦はケモノの多い地に建てられたといっても、だからこそ堅牢であり、破られたことなどなく安全であった。
駐屯する衛士もハル地区の他の砦より多い。
リゼアノートにとって白影砦は、家族がいて、衛士たちが笑っていて、世界で一番安心できる場所だった。
「早く行きたい!」
「そんなに急がなくても大丈夫ですよ」
リゼアノートは幼い頃から父や衛士たちを見ており、赤みがかった髪をなびかせ、剣を持ち遊ぶのが当たり前だった。
他の仕事をしなかったわけではないし、むしろ甘えん坊の妹に良い"おねえさん"を見せるため、積極的になんでも手伝ったが、やはり剣こそが一番の遊び相手であった。
「お、来たな、小さな剣士」
「こんにちは!お父さんは?」
「もうそろそろ戻ってくると思うよ、それまでこっちで俺たちと遊んでるか?」
「うん!やったー!」
リゼアノートは衛士たちに囲まれ剣を交え、おだてられているうちに、だんだんと剣士として才能が開花していった。
「うわあ!や、ら、れ、た〜!」
「あはは!修行が足りません!」
『リゼアノートちゃんに負けたら降格』
そんなことはないのだが、リゼアノートの薄紫の瞳と、まだ遠慮や手加減の下手な剣を向けられた衛士たちは、時折冷や汗をかく事も、中には油断から被弾し、わざとらしく負けたフリをする衛士もいて、そんな冗談を言いながらも、誰もが期待せざるを得ない実力を育てていった。
「お、ほっ、ほっ、えいっ」
「あーっ!」
「修行が足りないのはリゼもだな?」
「えー、お父さん、本気でやるのはズルい!」
「あっははは、本気じゃないさぁ」
「じゃあもう一回!本気出させてあげる!」
リゼアノートの剣の技術は、まだまだ衛士たちや、まして砦を任される衛士長のイェジェットには遠く及ばなかったが、イェジェットは娘のことが誇らしく、リゼアノートが砦で剣を振っていると、自慢したい気持ちを抑えられず、よく鼻の穴が膨らんでいた。
「痛っ!たたたぁ……」
「あっ!すまんリゼ!大丈夫か?」
「うん、平気だよ」
「突然纏いを変えるから、ビックリしちまって……」
「言ったでしょ、本気出させるって」
「はっはっは!次の砦長はリゼちゃんだな」
「その歳でその纏いは天才だ」
「ふっふーん、だろ?」
衛士たちは口々にリゼアノートを褒める。
知らない者が聞いたならば、鼻の穴を膨らませた衛士長の手前、お世辞だと思うかもしれない。
だが白影砦の衛士たちは皆、本心からそれを言っていた。
なぜならリゼアノートは、剣士が扱う自然の力である『纏い』、その四属性のすべてを纏うことができたからである。
見て、出来ると思ったら感覚的に真似できた。
ただそれだけでほとんど誰も真似できない全属性の纏いを、リゼアノートの身体は自然と行なっていた。
そんな天才的な剣を無邪気に振り、その日もいつもと同じように、衛士たちと遊び、帰る。そうなるはずだった。
・
砦はいつも通りで穏やかだった。
砦を通る者を検査し、山越えを労い、案内する。
家族の持ってきた愛情のある弁当を満足気に食い、そして片隅では今日も笑顔で剣を振るリゼアノートを、皆自分の娘のように感じながら、衛士たちもどこか気の抜けた顔をしていた。
最初の異変は、砦の外から近づいてきた。
「ウサギだ……」
見張りは、一体の白いウサギが草を食べに来たのを見つけ口走る。
ウサギは進化すると賢くなることが多いが、ただのウサギ一体ならかわいい、もしくは美味しそう。という感想になる。
しかし白影砦においてそれはない。
ゴォォーン……
ひとつ、砦に低い鐘の音が響き渡る。
見張りの衛士は、ただのウサギ一匹に、油断せず警告の合図を送った。
砦そのものが鳴いたかのような音に、のんびりしていた衛士たちの顔つきは変わり、それぞれが持ち場についた。
警告は正しかった。
間もなくウサギの群れが白い波のようになって押し寄せてきて、衛士たちは迎撃のために門の外へ出た。
特別なことではなく、いつもの仕事の時間だと、誰もが思っていた。
リゼアノートもそう思っていた。
ケモノが出たら屋内に退避する決まりだし、あの音が鳴ると遊んでくれる衛士が居なくなるからつまらない。
その程度にしか思っていなかった。
だが、衛士たちの姿が砦の外へ消えてすぐに、異変は増えた。
「カチ、チチチ」
耳の奥で、小さな音がした。
歯を鳴らすような、乾いた音。
「おねえちゃん、何の音?」
妹のティアリスは不安そうにリゼアノートの袖を引いた。
大人たちは気づいていない。
でも、二人には確かに聞こえていた。
複数の耳障りな音。
・
「数が多いな……」
砦の外で白い波と片耳ウサギを睨む。
ケモノにそんなものがあるのかどうか、イェジェットは片耳ウサギの佇まいから、わずかに覚悟めいたものを感じていた。
その感覚は的中していた。
片耳ウサギが先頭となり、大地を這う白い波が前進する。
片耳は一騎打ちを望むようにイェジェットに向けて迫り、イェジェットはそれに応じた。
ここしばらく警戒し続けていた片耳に対して、久々に剣を向けた。
激しい交戦の中、イェジェットの僅かな隙も逃さない氷のように冷たい剣閃が、少しずつ片耳の体力を削っていく。
しかし片耳に一切引く気配はなかった。
喋らない魔獣の感情などわからないが、"引くことは許されない"、"今ここにしか活路はない"。そういった表情や気迫をイェジェットは感じていた。
だが、引かないのならばやることは一つだった。
イェジェットはついに片耳ウサギに致命傷を与えた。
なぜか、笑っているように見えた。
ガクッ
と片耳が膝をついたその瞬間、空が動いた。
影が音もなく降ってくる。
白い片耳ウサギは、大地に倒れる事も許されず、コウモリの黒い翼に包まれた。
「コウモリだ!息引種!気を乱すな!」
イェジェットは一瞬空へ視線を送る。
コウモリの息引種は、戦闘力など大したものではないが、身体や心が弱った者を嗅ぎ分け、命を刈り取る戦場の死神だ。
つけ入る隙を与えてはならないと、警告を味方に向けて発した。
機を狙った捕食を皮切りに、貪欲に獲物に食いついていく複数のコウモリの影。
ウサギを獲物として、戦場に黒い傘がいくつも出来上がった。
イェジェットから致命傷を受けた片耳ウサギには、複数の黒い影が張り付いている。
片耳にそれを振りほどく力はもはや残っておらず、意識がなくなるのを待つのみであった。
イェジェットは、これまで幾度も交戦した片耳の無残な最期に若干の憐れみを感じたが、まだ地上にはウサギたちが数え切れないほどいた。
感傷に浸っている場合ではなかった。
地上と上空のケモノを同時に相手にすることは難しいが、高い練度を誇る白影砦の衛士にとって、コウモリの息引種に隙を見せるような者はいなかった。
空のケモノなど居ないも同然だった。
だが、影に包まれる片耳の背後に、小柄な人間の女性のようなフォルムをした新たなウサギが姿を現す。
それから戦場のバランスは崩れ始めた。
逆立った全身を覆う白。
波打つ白い長髪は風と共にあり、尻尾は踊るように揺れる。
異質な雰囲気を放つ長髪のウサギは、黒く包まれた片耳ウサギを、赤い目で見下すように歩み寄った。
「あいつはなんだ……」
イェジェットは見たことのないウサギの進化体に警戒の視線を送る。
「ぷぅ、ぷぅ……きああぁ!!」
長髪ウサギは叫び声を上げるとイェジェットに突撃した。
先の片耳よりパワーは劣るが迷いのない速さがあった。
受けたその爪から感じたのは、若さだ。
イェジェットは白く鋭い爪を弾き、逆に長髪ウサギめがけて反撃したが、驚きから少し剣が遅れた。
見てから反射神経で避けられた。
それは一瞬の攻防であったが、イェジェットは相手の力を理解し、何が起きたのかも理解した。
新たな魔獣。
群れのボスがすげかわった。
だがその認識は一瞬にして甘かったとわからされた。
退避した長髪ウサギの隣に、同じ個体が立っていた。
今のが二体……だがやれないことはない。
イェジェットの心には、まだ余裕があった。
コウモリが、まだかまだかと煽るように宙を舞い、集中力を削いでくる戦場で、他の衛士に負担を強いる訳にはいかない。
一人倒れれば負の連鎖が始まる。
イェジェットは自分への負担は棚に上げ、長髪ウサギたちに対して、挑発するように水纏いの威圧を強めた。
「ぷいぷい」
「ぷぅ」
イェジェットは動じることがない長髪ウサギの態度を不気味に思う。
それよりも気になった。
距離があるとはいえ視線が合わない。
長髪は少し上を見ている。
なぜだ。
と後ろを振り向き、その視線の先を確認すると、イェジェットの背筋に冷たいものが走った。
砦の壁の上に同じのが立っている。
「ぷぅぅい」
嘲笑うように地上を見据え、そいつは砦の内部へと消えた。
砦内には非戦闘員も多くいる。すぐに避難してもらわなければまずい。
あんなものとまともに剣を合わせられる衛士は多くはない。
視線を"二体"の長髪に戻したつもりだった。
だが何の冗談だというのか、長髪はまた増えていた。
数える気など起こらない程いた。
「……中へ!砦へ戻れ!」
一瞬開いた口が塞がらなかったが、すぐに気を取り戻し、イェジェットは声が響かせ、じりじりと兵たちが後退する。
緊急事態だった。
群れのボスの入れ替わりではない。
群れごと魔獣に進化した。
そんな馬鹿げた分析しか出なかった。
撤退以外に選択肢はない。
壁を越えられるのは長髪だけだろう。
ウサギのすべてが砦の壁を越えられるわけではない。
抑えながら撤退し、門を閉めるのだ。
イェジェットは自らが殿軍となり砦内へと戻った。
「撤退だ!格子を落とせ!」
だが、一向に落とし格子は下がらなかった。
門を守っても長髪たちは壁を越える。待ってなどいられなかった。
堅牢さでは劣るが、さらに内側にある両開きの扉で代用した。
砦の内部には既に長髪が複数入り込み、混戦を極めていた。
衛士はイェジェットの指示を待たず、撤退用の馬車は用意され始めていた。
全員が乗れるわけではない馬車だ。
悲鳴と怒号が入り乱れた。
隊列などない。
外と違い見通しは悪い。
壁を越えてくる長髪がどこから現れるかもわからない。
隙間さえあれば屋内であろうとコウモリの息引種は入り込む。
人もウサギも、誰かが倒れるたび、誰かが恐怖に支配されるたび、そこへ黒い影が静かに降りる。
いつのまにか砦に火が上がった。
宵に入ったばかりの空が炎に照らされる。
砦は赤く燃え始め、地上には白い影が駆け巡り、空には黒い群れが舞う。
最悪の光景だった。
イェジェットは多くのケモノを引き受けながらも指示を出し続けていた。
混乱の中でも声を張り上げ、皆の退路を確保しようとしていた。
・
物陰でお母さんは私の手を強く握った。
小さな震えが、伝わってくる。
避難すると言われ、馬車まで行かないといけない。
なのに途中の中庭には複数の髪の長いウサギがいて、衛士さんが必死になっていた。
何かを探すようにただ立ってるだけのウサギもいる。
お父さんも、衛士さんたちも、誰もケモノにやられることなんてないはずなのに、倒れて動かない人がいる。
「リゼ、ティアちゃんを連れて馬車へ行きなさい」
いつものおっとりした声じゃなかった。
叱られてるときのような声。
握られた手は離され、お母さんは持っていた短い剣を私に持たせ、代わりに衛士の剣を掴むと、混戦の中庭へ足を踏み入れた。
「あ母さん!」
「ママ……」
呼びかけに返事はなかった。
お母さんの言葉を拒否する選択肢はない。
そういう強制的な態度だった。
けど、私にはすぐに移動できるほどの決断力はなかった。
そばにいたかった。
今、私の手に剣はある。
私も戦うべきか、妹のティアリスを連れて行くべきか。
知らないウサギのケモノと戦うお母さんの背中を、妹と共に見て、私は初めて思った。
――怖い。
ケモノの殺意は、剣の稽古とはまるで違った。
本能だけで動く、逃げ場のない恐怖。
命の奪い合いが行われている空気に全身が包まれた。
でも、恐怖に呑まれてはいけない。
息引種については今しがた聞いた。
冷静でいなければ、怪我など負っていなくても空の黒が降ってくる。
心臓の鼓動は制御できない、でも呼吸はわざと遅くすることはできる。
唾を飲み込み、必死に息を整えた。
それに効果があるのか知らないが、それくらいしかできることはなかった。
妹の手を握り、逃げるしかないのだと決断したその時だった。
お母さんが長髪のウサギに吹き飛ばされた。
その後は一瞬のように感じた。
「ママ!」
「ティア!ダメ!」
手を振りほどき、駆け寄った妹の声が空に響く。
黒い影が落ちた。
お母さんに。
妹に。
「ママ!おねえちゃん!たす……」
私の足はどこへ向かえばいいのか決めかねていて、どうすることもできなかった。
お母さんと妹に覆い被さるコウモリが、見えないはずの目でこちらを向いている。
音を、聞いている。
胸は口から飛び出るのではないかと思うほど跳ねて、動揺など隠しようがなかったけど、呼吸だけはまだ意識化にあった。
逃げればいい。
今なら、逃げられる。
ゆっくり横を抜けるんだ。
でも……
人に被さるコウモリの黒い翼の中で、何が行われてるのかなど知らない。
今足を踏み出せば、まだ助けることができる。
きっとできる。
コウモリと視線を戦わせ、震える手で剣を強く握り引き抜くと、剣は薄く虹色を空間に残した。
でも、そんな希望は許されないというように、お母さんを吹き飛ばした長髪のウサギが、私に気づき当たり前のように殺意を向けてくる。
「ぷぅ」
怖い。
ウサギの足が動き、勢いが増した。
「いやああぁ!」
下がった剣を咄嗟に切り上げ、虹の軌跡を残す。
ギリギリでかわされた剣は空を斬った。
だが空間に残った虹は一瞬の後、遅れてウサギに直撃した。
かわしたはずの攻撃に傷を負い、警戒するようにウサギは後退した。
だけど私に継戦する気力は残っていなかった。
もう剣から虹も出ていない。
私の乱れきった呼吸を読み、コウモリが頭上を舞い、捕食の体勢へと入るのが見えた。
ウサギに切り裂かれるよりは、コウモリの方がお母さんたちと同じだし……そんなことを思った。
「リゼぇぇ!!逃げろぉぉ!!」
お父さんの叫びと共に、コウモリは空中で剣に貫かれ、長髪ウサギも凄まじい剣幕で追い立てられて地に伏せられた。
お母さんと妹に覆いかぶさるコウモリは浅く切り裂かれて落ちた。
お父さんは立ち上がることのないお母さんと妹の前に立ち、頭上のコウモリに煽られながら、長髪ウサギたちに剣を奮っていた。
父のその様子を、手や口が赤く染まった複数の別の長髪ウサギが静かに伺っている。
私は、理解した。
逃げるのが、正しい。
歯を食いしばり、倒れているけどピクりと動くティアリスの脇を抜け、背を向けて、走った。
飛び交う怒号、剣の音、ウサギの叫び、炎の熱、コウモリの声、戦場に渦巻く混沌が背中に刺さる。
私は走った。
涙で目の前が歪む。
なんども目を拭って、撤退用の馬車まで、振り返らず、ただ走った。
乗り込んだ馬車の中で、他の馬車から悲鳴の塊が飛んできた。
こっちに来ないで……
私は震えて縮こまっていただけだった。
・
いつの間にかミケウの孤児院にいた。
乗っていた馬車が住んでいた村で止まり、他の場所でも何度か止まったのは覚えているけど、ここへ来るまでの記憶がほとんどない。
あの時、お母さんも妹も死んではいなかった。
お父さんも勇ましく戦っていた。
だから、きっともうすぐ、迎えに来るはずなのに、何日経っても誰も顔を見せない。
報せも何もない。
孤児院の庭に訓練用の人形が置いてあるのを見つけてからは、ただ人形に向けて、一人で剣を振っていた。
私は何も考えたくなかったし、こうしていれば、いつもなら誰かが声をかけに来てくれる。
お父さんか、お母さんか、衛士さんたちか、暇そうな妹か。
数日経って、願掛けのようにルーティンと化した訓練をしに外に出た。
すると孤児院の門の前で、見たことのある衛士さんが院長のマーニャさんと話をしているのを見つけた。
不安に支配されて、私は家族や砦がどうなったのか聞きに行くことができなかった。
衛士さんが私を見つけて、片手を腹に、片手を腰の後ろに静かにあてて姿勢を正した時、淡い期待が私の胸をかすめた。
けど、衛士さんは私に声をかけに来ることはなく、そのまま深々と一礼して、私の胸の期待を攫い、背中を向けて去っていった。
マーニャさんは衛士さんに一礼し、背を向けたまましばらく動かなかった。
少しするとマーニャさんは振り返り、手は何かを大切そうに包み、ゆっくりと私に近寄ってくる。
マーニャさんは優しいのに、その時だけは、絵本で子どもを連れ去る悪魔のように見えた。
来ないでほしい。
何も言わないでほしい。
勘違いであってほしい。
「お父様は、最後まで皆を守って戦ったそうです。これをあなたに、お父様が大切にしていたそうですよ」
それはティアリスが作った、何の形なのかも分からない歪な形のペンダントトップだった。
私は世界が崩れていくような感覚に襲われた。
・
私は剣を振ることをやめなかった。
何日も経った時、私とは全然違う、かわいくて、大人っぽい女の子に話しかけられた。
「まだ慣れないよね。私はエリナ。14歳です」
「……リゼアノート、8歳です……」
視線をそらす。
「リゼアノートちゃん、かわいい名前ね」
「……」
「見てたよ、剣すごいね?私も少しはできるんだ、貸してみて」
「あ……」
ほとんど強引に模擬剣を取られてしまった。
「えいっ!」
ポスッ……
「どう?」
「……あ、あの、えっと……」
お世辞にも上手いとは言えなかった。
「ダメかぁ、見せてみて?」
「はい……」
スバンッ!
「わあ!やっぱりすごい!きっと才能があるんだよ」
「……」
褒められてるのに、うつむいてしまう。
「私ね、もうここを卒業するの。みんなのおかげなんだよ」
笑顔で言われる。
「ねぇ、良かったらおねえさんに付き合ってよ」
「えっ、あの……」
私は引っ張っていかれて雪灯院の仕事を色々体験させられた。
「こうやって剥くと早いよ」
「シワを伸ばしてから干すといいね」
「ここで結べる?そうそう上手いんだねぇ」
手を動かして、体を動かして、頭を使っていると、悪い考えから離れることができた。
「洗ってあげるね〜」
お風呂にも入って体を洗ってくれた。
私も洗わさせられた。
でもそれは、やったことがあることで、思い出してしまって、涙が出てきた。
「いいんだよ、泣きたいときはいっぱい泣こうね」
何にも知らないはずなのに、全然知らない人のはずなのに、優しく慰めてくれた。
「じゃあ今日はおねえさんのお部屋で一緒に寝ようか?」
連れてこられた部屋は、良い匂いがして、整頓されてて、女の子らしいかわいい置物の中に、なんかよくわからないけど文字の書いてある平べったい石とか欠けた壺とかが置いてあった。
「なんですかこれ?」
「変でしょ?あはは。私古い物が好きでね、そういうの調べるところで働くんだ。リゼアノートちゃんも何か好きなものが見つかると良いね?剣かな?かっこよかったもんね」
好きだけど、わからない。
放しちゃいけない気がするだけなんだ。
少なくともこの石に興味はない。
枕の上に置いてある花柄のブタの方が好きだ。
「これ?かわいいでしょ?」
「うん、かわいい」
それからベッドに入れてもらうと、もっと良い匂いがして、なんか少し悪い気がした。
で、顔の前にブタを置かれた。
「私もはじめは元気がなかったよ、一人だった。ここにいる子はみんな一人、おんなじ。でも一人が集まってみんなになってるの。助け合って、笑い合ってね。わかる?ぶぅ〜」
ブタを顔に押し付けられて、私は顔をくしゃってした。
「元気がなければ誰かが助けてくれる、きっと大丈夫だから。それで余裕ができたら周りにも目を向けてみて、元気がない子がいたら助けてあげて?そしたら相手だけじゃなくて、自分も一人じゃなくなるから。おねえさんもそうやって元気になったんだよ」
おねえさん……
私も、そうだった。
大丈夫だよ、大丈夫だよってポンポンされていたら、すぐ眠たくなってきて、まぶたが落ちるのを我慢できなかった。
エリナさんはすぐ居なくなってしまったけど、それから私は少し自分を取り戻せた。
少しずつ出来ることをやっていった。
エリナさんの言っていた事は本当だった。
相手が大人だろうと子どもだろうと関係なかった。
手を差し伸べれば、笑顔が返ってくる。
それは私の心も少しずつ癒していった。
でもやっぱり、剣だけは放すことはなかった。




