第8話 その勇気は何よりも 1
熱はない。けれど、身体が思うように動かない。
指先一つ動かすのにも、全身に鉛の重りが付いているような感覚。
視界は霞み、思考は霧の中に溶けていく。
昨日、教室で何が起きたのか。
睦月ちゃんがなぜあんなに怒り、なぜ私の頬を叩いたのか 。
論理的な理解はできているはずなのに、心がそれを拒絶していた。
ただ、ずっと痛い。
叩かれた頬の皮膚よりも、胸の奥、心臓が脈打つたびに何かが引き裂かれるような鈍い痛みが私を蝕んでいる。
私は何がしたいんだろう。
私はただ、自分の感情を知りたかっただけなのに。
それなのに、どうして私は、大切だったはずの人たちを失うようなことばかりしているのだろう。
気がついたら私は保健室にいた。お母さんが迎えに来て、何かを話しかけられていた気がする。
けれど、その言葉は鼓膜を滑り落ち、何一つ頭には入ってこなかった。
家に帰り、私はベッドに横たわったまま、沈みゆく夕日を眺めていた。
ガーゼを貼られた頬が熱い。引き裂かれた胸が苦しい。
全部、痛い、苦しい……辛い。
飯田くんとは、友達になりたいと思った。
けれど、彼を前にして友達になりたいと言われると、どうしても、どうしても受け入れられない。
私の思考回路は彼の言葉を拒絶してしまう。
友達という他のみんなと同じ平均的な関係に収まることを、私の中の何かが激しく拒んでいる。
……こんなことになるなら。
最初から、感情なんて知ろうとしなければよかった。
幸せという未知の感情を求めなければ、こんな不幸を知ることもなかった。
こんなに辛いのなら……私は、感情なんて持たない無のままでよかった。
感情なんていらない。
私は……もう……何も望まない。
これ以上は……私が私でなくなってしまう。
「コンコン――」
ノックの音が、静寂を壊した。
「凛? 入るぞ」
その声は、探求の提供者であるお兄ちゃんの声だった。
扉が開かれ、お兄ちゃんが心配そうに中を覗き込む。
「大丈夫か? 学校で何かあったって聞いたけど」
「なにもないよ?」
私は焦点の合わない目で天井を見つめたまま、起伏のない声で答えた。
「何もないって……その、ほっぺたどうした? 誰かに殴られたのか?」
「ううん、階段で転んで、顔から着いちゃっただけ。それだけだよ」
私は起き上がり、兄の顔を見て答えた。
「…………何か、あったんだな」
お兄ちゃんは光のない私の瞳を見て察したようだった。
……私は感情を殺した。
これ以上何も感じたくない。感じる必要もない。
私は人形。ただそこに存在するだけの、思考を止めた物質。
ただ生きて、ただ死んでいくだけの……ただの人形だ。
「何もないよ。私はいつも通りの私に戻るだけ」
「…………」
お兄ちゃんは何も言わず、ただ物悲しげな顔をして、私を強く抱きしめた。
「どうしたの? お兄ちゃん」
「……俺はずっとお前の兄貴だ。それだけは……それだけは忘れないでくれ」
「……もちろん。お兄ちゃんはずっとお兄ちゃんだよ」
私は冷たい声で答えながら、お兄ちゃんの腕の温もりが、私の冷え切った心を微かに、けれど残酷に震わせるのを感じていた。
◇
妙に、晴れ晴れとした気分だった。
昨夜、白川陽毬さんから電話越しに託された言葉。
『黒羽さんを助けてあげて』
その直接的な祈りにも似たお願いが、僕の中の迷いを吹き飛ばしてくれた。
僕は恵まれている。
僕が落ち込んで道を見失うたびに、誰かが僕の背中を、乱暴に、あるいは優しく押してくれる 。
白川さんが僕の心のドアをノックし、隼人が僕を扇動し、一ノ瀬さんが僕を断罪する。
こんなに多くの人たちが、僕というモブを当事者として扱い、正そうとしてくれる。
そんな幸福な場所で、僕一人が自分なんてと卑屈になって、逃げ続けることなんて、許されない。
朝、学校に行くと僕は自分の席に座り、じっと入り口を見つめた。
今日、彼女は来るだろうか。
僕は彼女を理解した。するしかなかった。
感情がないなんて嘘だ。彼女はあんなにも不器用にあんなにも激しく僕を求めてくれていたんだ。
僕は彼女に特別に思われている。僕は彼女に未練を感じている。
……いや、未練なんて言葉じゃ足りない。
僕は、黒羽凛を求めている。これは……まぎれもない事実だ。
扉が開く音がし、教室内がわずかにざわついた。
黒羽さんが入ってきた。
頬に白いガーゼを貼り、その表情は……今までにないほど生気がなかった。
歩き方さえも機械的で、まるで魂をどこかに置き忘れてきた精巧な人形のようだった。
「…………」
一目見て異常だとわかった。彼女の心は限界を超えて壊れかけている。
隼人が真っ先に駆け寄り、心配そうに声をかける。
「おはようリン。昨日は大丈夫だったか?」
黒羽さんは、ゆっくりと首を動かして隼人と目を合わせ、一切の温度がない声で喋った。
「おはよう隼人くん。昨日は心配をかけたね。保健室に連れて行ってくれたんだったね。ありがとう」
……淡々と常識的な言葉を並べているようだった。
……今までも彼女はどこか感情の薄い喋り方だった。
でも……今の彼女の言葉はそれ以上に、本当に機械のような喋り方に、それが普通ではないと感じるには十分過ぎた。
以前のような無機質さとも違う。もっと深い、虚無から聞こえるような喋り方に、背筋がぞっとする感じ。
「……おう。無理、するなよ?」
「うん。無理はしないよ。心配してくれて、ありがとう」
笑いもせず、瞬きもせず、彼女は自分の席に着き、何事もなかったように隼人の言葉に返し、本を開いた。
「……じゃあな」
隼人は少しつらそうな顔をして……チラリと僕の方を見た。
「…………」
僕は事の重大さを改めて理解した。
僕は僕のために色々考えて行動していた。
しかし、僕のその行動が、一人の人生を壊そうとしている。
……いや、この考え方はよくない。
僕だって、いろんな目に合ってきた。それでも、なんとか前を向こうとして生きてきたんだ。
人から見たら対したことないことかもしれないけど、それでも、自分を幸せにできるかどうかは自分次第なんだ。
……僕に人の人生の責任なんて持てない。
……けど。
たとえ嫌われたとしても……好きな人の人生なら助けてあげないといけないだろう。
妙な空気の中、学校の授業は始まる。
黒羽さんは傍から見てると問題を抱えてるようには見えない。
恙なく授業は進んでいく。
僕は授業を受けながらもどうするべきかを考えていた。
……夏が来る。
窓から青空を覗いてみれば、天まで伸びる入道雲がそそり立っている。
突き刺すような日差しは見ただけで熱さを感じさせる。
しかし、伸びる影はどこまでも冷たく張り付いてくる。
呪いのように、影は僕から離れることはない。




