第6話 知りえた感情 6
飯田くんを拒絶してから数日が経った。
教室の風景は残酷なほどに変わってしまった。
彼は私が枷だったとでも言わんばかりに、白川さんやその友達の陽だまりグループと以前よりも親しくなり始めていた。
休み時間、彼らの席から笑い声が聞こえる。
飯田くんがぎこちなく、でも確かに彼らの輪の中で笑っている。
……これは、私が、望んだ結果だ。
彼が前と同じ様に、教室の片隅で一人寂しく本を読んでいる光景を見るよりもずっといい。
彼は普通を望んでいた。友達と笑い合い平穏に過ごすことを。
私に巻き込まれて困った顔をしているよりも、今のほうが彼にとっては幸せなはずだ。
論理的に考えれば、これは最適解だ。
……だけど、どうしたって胸のつっかえはなくならない。
むしろ……彼が笑っている光景を見るたびに、胸が締め付けられるように痛む。
心臓のあたりに、重い鉛が埋め込まれたみたいだ。
呼吸をするたびに、それがズシリと沈み込む。
「……ねぇ、そろそろ話してくれないの?」
昼休み。パンを齧りながら睦月ちゃんが少し怪訝な表情をして聞いてきた。
「…………」
私は箸を止めた。
話す? 何を?
これは人に話す様な事じゃない。私がただ愚かな事をして、彼を困らせて、自ら関係を壊したというだけのこと。
そんな事を話しても、ただ彼女を幻滅させるだけだ。親友に、私は最低な人間でしたと告白するようなものだ。
「……何もない事は話せないよ」
私は、努めて淡々と言って、弁当の卵焼きに手を伸ばした。味なんてしない。
「…………はぁ」
睦月ちゃんは、わざとらしく大きな溜息をついた。
「リンの性格はわかってたけど、こうなると厄介だねぇ」
ジト目で私を見ながら睦月ちゃんは言った。
「? 私はいつも通りだよ」
「……本気で言ってたら、自分に鈍感すぎ」
睦月ちゃんは、目も合わせずに、パンを齧り独り言の様に言った。
「……?」
私は何も変わってないはずだ。
本を読み、授業を受け、睦月ちゃんと話す。
ただ、胸が騒いで、視界が少し暗く見えるだけで、行動パターンはいつも通りだ。
「ま、いいや。しゃあない、切り替えて楽しいことしよ!」
睦月ちゃんは一人で突然気分を切り替え、パンの袋をくしゃりと丸めた。
「遊びに行くわよ」
「……遊び?」
「そっ。次の休み付き合いなさい。拒否権はないわ」
ずっと気分は晴れない。
けれど、こういうものは時間が解決してくれると、どこかで聞いた気がする。
だから私は、ただ日々が過ぎるのを待つだけだ。
それは今までと変わらない。
何にも感情を抱かず、興味も示さない。飯田くんと出会う前のあの無機質な日々に戻るだけ。
……それだけ。
休日。
睦月ちゃんに呼ばれてきたのは、最近できたばかりの街の新しい大型商業施設だった。
「ほら、リン、これ着てみて」
「こっちのコスメ、似合うんじゃない?」
「このパフェ、期間限定だって!」
私は、あちらこちらに連れ回された。
睦月ちゃんは、まるで私を着せ替え人形か何かだと思っているみたいに、色んな服を着せ、流行のスイーツを食べたり、ゲームセンターで遊んだり。
睦月ちゃんが楽しそうにしているし、私もそれが嫌ではなかったから、きっと楽しかったんだと思う。
……思うのだけれど。
ふとした瞬間に脳裏をよぎる影がある。
この服、飯田君ならどう思うかな。
このスイーツ、飯田君も好きかな。
ここのクレーンゲームの景品、飯田くんと来た時にも見たな。
すべての景色に、彼が浮かんできて、それを剥がすことができない。
「はぁ〜、楽しかった」
昼過ぎ頃。朝から動き回り疲れた私達は、カフェで休憩していた。
「ねぇ次どこいく?」
「睦月ちゃんが行きたい所は大体まわった?」
「ん〜、大体行ったかな〜」
睦月ちゃんはスマホを弄って何かを見ながら答える。
「じゃあ、本屋行ってもいい?」
「いいけど……あのでかい所?」
「うん」
駅前にある大型書店。睦月ちゃんとはたまに行く場所だ。
「別にいいけど……リンってホント本好きだよね。感情がわかんないのに面白いもんなの?」
睦月ちゃんの素朴な疑問。
私はストローの先を見つめながら答えた。
「分からないから知りたいの。そこに綴られた喜怒哀楽は、なぜ発生するのか。いつかそれを理解出来たら、私もーー」
感情を理解できるかもしれない。
そう言おうとしたが、言葉が喉に詰まった。
私はすでに気付いている。
感情が無いなんて嘘だ。
私は、自分にとってそこまで親身になれるものがなかっただけだと。
飯田君と出会って、彼に触れて、彼に拒絶されて。
この胸の痛みこそが、私が求めていた感情そのものなのだと、痛いほど理解してしまっている。
「……まぁとにかく、本を読むのが好きってことなのかな」
私はそう誤魔化した。自分の心を認めるのが怖かったから。
「……まぁいいや。私は色々堪能したし、いいよ〜」
睦月ちゃんの了承を得て、私たちは場所を移動し本屋に向かった。
本屋に到着すると睦月ちゃんは、
「私見たいのあるから、終わったら教えて〜」
と、ファッション誌のコーナーへ足早に去っていく。
「うん」
いつもの事に私は頷いて答えた。
私はいつも通り物語に没頭しようと考えた。文芸書のコーナーへ向かう。
でも、ふと、思いつきで足を変えた。
どうせなら新しいジャンルを、と普段読まない漫画のコーナーに行ってみようと思った。
飯田君がよく読んでいたジャンル。彼が語っていた正体が、そこにあるかもしれないと思ったから。
……彼のことを諦めたというのに、私は何故か彼の存在を探している。
失った今になって、彼に対しての興味がわいてきたのかな。
馬鹿らしいと思いながらも、棚の間を散策していると、うっすら、知っている声が聞こえた。
「――あ、これ、アニメ化するやつだ」
聞き間違えるはずがない。彼の声だ。そしてもう一人、知ってる女子の声が聞こえた。
「――へ〜、面白そう!」
私は、心臓がキュッとなった。
声の方を見ると、本棚の隙間からその姿が見えた。
……飯田くんだ。
そしてその隣には、白川さんがいた。
…………思考が止まった。
思わず本棚の陰に隠れる。
……私は、私の感情がわからない。
彼と合うのは嫌なはずなのに、彼がそこにいたことが、何処か嬉しい。確認ができただけで、安堵している自分がいる。
……だからこそ。
その隣に、私ではない誰かが……白川さんがいることが、堪らなく……悔しかった。
二人の楽しげに本の内容を語る声が聞こえる。
「内気な主人公が、必死になりながら皆を助ける人間の感情描写がリアルなんだ」
「へぇ、飯田くんみたいだね」
「え、そ、そうかな?」
二人は楽しそうに漫画の話をしている。その様子はカップルにしか見えない。
私といた時のような、困った顔や怯えた顔じゃない。
自然で柔らかい笑顔。
それが、白川さんとなら……彼はできるんだ。
私との探究では見られなかった、彼の普通の幸せがそこにあった。
幸せそうな会話が、本棚越しに聞こえてくる。
……こんな会話聞かなければいい。とっとと逃げ出せばいい。
しかし、私の身体は動かない。金縛りにあったみたいに、足が床に張り付いている。
どうしちゃったんだろう。分からない。分からないけど、ただ、目からは涙が出てくる。
ポロポロと、止まることなく、頬を濡らす。
音を立てないように、口元を手で押さえる。
見たくない。でも、足が動かない。
これが、喪失の味。
これが、嫉妬の熱。
私が知りたかった感情は、こんなにも苦くて、痛いものだったなんて。
……知らなければよかった。
「……お客様、大丈夫ですか?」
呆然と立ち尽くして涙を流す私を、店員さんが心配そうに声を掛けた。
ハッとして我に返る。
「……大丈夫、です」
私はその声にようやく呪縛が解け、涙を乱暴に拭った。
私は、逃げるように、その場を後にした。
睦月ちゃんに連絡する余裕もなく、私は泣きながら足早に夜道を歩いた。
街灯が滲む。車のライトが眩しい。
……胸が苦しくなってからずっとずっとこうだ。涙が溢れるときはずっと心が痛い。
なんでこんなに苦しくて悲しい思いをしているんだろう。
彼といる時、こんなに苦しくなかった。悲しくなかった。
こんな思いをするなら、ただの友達でもいいから、彼の言う通りにすればよかった。
そうすれば、きっと今より辛い思いをしなくて済んだんだから。
私の欲が、私を苦しめている。
もっとを求めた罰だ。
苦しさと悲しさに足が止まった。
全身の力が抜けて行く。足が動かない。
私はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。
人目なんて気に出来ないほど、私は顔を覆って泣いた。
ただ、胸の痛みをこらえるように、小さくすすり泣いていた。
道行く人は私を怪奇な目で見るだけで、助けようとはしない。
助けを求めていたわけじゃないけれど、誰かにこの痛みを伝えたかったのかもしれない。
私はもう、自分で自分を制御できなかった……。
「黒羽さん!?」
突如、私を呼ぶ男性の声がした。
私はその声に、目を見開いた。
……飯田くん?
一瞬、期待した。彼が追いかけてきてくれたのかと。
顔を上げると……そこには、隼人くんが心配そうな表情で立っていた。
「……隼人……くん?」
「どこか怪我したのか? 痛むのか!?」
彼はしゃがみこんで私の肩に手を置くとまっすぐ心配してくれた。
こんなみっともない、道端で泣き崩れている私を躊躇なく心配してくれた。
飯田くんの友達。飯田くん君と同じ、陽だまりの住人。
彼の心配する言葉は、私の耳には入ってこなかった。
ただ、その優しさだけが、凍えた心に届いた。
私は……ただ縋りつくように……彼に抱き着いた。
「わっ、く、黒羽さん!?」
隼人くんは驚いていた。
当然だ。私と彼の間にほとんど交流はない。クラスメイトの友達というだけだ。
けれど、彼の優しさに縋りつかなければ……私はどうにかなってしまいそうで……。
この心の穴を何かで埋めなければ押しつぶされてしまいそうで……。
「隼人くん……胸が苦しいの……痛くて……辛くて……寂しいよ……」
静かに彼の胸で、私は胸の奥の言葉を吐き出した。
彼の体温は温かかった。
でも、匂いが違う。心臓の音のリズムが違う。
……これは飯田くんじゃない。
けれど、彼の優しさを頼らずにはいられなかった。
彼の優しさに縋りながら……今抱きしめているのが飯田くんでは無い事が酷く悲しかった。
どこまでも愚かで滑稽な自分の気持ちに嫌気がさした。
それでも、隼人くんは静かに私を受け入れてくれた。




