第6話 知りえた感情 5
電車に揺られている間、僕と白川さんの間には会話がなかった。
車窓を流れる景色が、夕暮れの茜色から群青色の夜へと沈んでいく。
ガラスに映る自分の顔は、幽霊のように青白く、生気がなかった。
地元についても、明るいカフェやファミレスに入る気にはなれなかった。
僕達は駅前から少し離れた人気のない公園へと足を向けた。
街灯がポツンポツンと灯る薄暗い公園。
錆びついたブランコが、風に吹かれてキー、キー、と微かな音を立てている。
僕はベンチに腰を下ろすと、そのまま重力に負けたように項垂れた。両手で頭を抱え、視線を地面に落とす。
一ノ瀬さんの言葉が脳内でリフレインして止まらない。
『あんた……よく平気な顔して遊べるわね』
『リンを悲しませたら許さない』
……僕は、懺悔しなければいけないのだろうか。
黒羽さんを傷つけ、適当な関係を持ってしまったことに、苦しまなければならないのだろうか。
……でも、関係を断ち切ったのは黒羽さんの方だ。もう来ないで、と彼女は言った。
僕はその言葉に従っただけだ。拒絶されたから、離れた。それの何がいけない?
それに……なぜ一ノ瀬さんは、あんなにも感情を剥き出しにして怒っていたんだ?
悲しませたら許さないと言っていた。それであんなに怒るということは……今、黒羽さんは悲しんでいる……?。
僕を嫌いになって、拒絶したのに……なぜ?
確かに、仲の良かった人と絶縁したら、多少は悲しい気分にはなるだろう。でも、彼女は論理的な人だ。自分が選んだ結果なら、前向きに次のステップへ進むべきだ。
……だとすると。
あれは、単に親友を傷つけた男に対する、一ノ瀬さんの個人的な恨みなのだろうか。
いくら考えても、答えは見つからない。思考の泥沼に沈んでいくだけだ。
「……はい、これ」
頭を抱えている僕の視界に、ペットボトルが差し出された。
顔を上げると、白川さんが心配そうな、でも優しい瞳で僕を見下ろしていた。自販機の明かりを背負った彼女は、逆光で表情がよく見えないけれど、その声色は柔らかかった。
「……ありがとう」
僕は、明らかに落ち込んだ声で礼を言い、飲み物を受け取った。
「……睦月ちゃん、すごく怒ってたね」
そう言いながら、白川さんは僕の隣に座った。少し距離を空けて、でも体温を感じられるくらいの距離感で。
僕は、その言葉にドキッとした。責められているような気がしたからだ。彼女もまた、あの一ノ瀬さんの剣幕を見ていた。あんなに怒られるようなことを、飯田君はしたんだ、と軽蔑されたんじゃないかと思ってしまう。
「……そうだね。事実として、僕が黒羽さんを傷つけたんだから……怒るのは、当然だよね」
僕は、視線をペットボトルのラベルに落としたまま、力なく答えた。
「……でも」
白川さんの声が、静かに響く。
「……飯田君を傷つけたのは、黒羽さんだよね?」
その言葉に、僕はハッとして顔を上げた。
彼女は一ノ瀬さんの見方をするでもなく……僕が自分自身ですら自分が悪いと思い込もうとしていたことに対して、異議を唱えてくれた。
「……そうとも、言えるけど」
僕は、苦笑いを浮かべた。
「……まぁ、お互い様、なのかな。僕も、煮え切らない態度をとってたし」
そう言って視線を逸らした。
「……君は、偉いね」
不意に白川さんがそう言った。
そして、彼女の手が、そっと僕の頭に触れた。
「え?」
驚く間もなく、彼女の手のひらが、僕の髪を優しく撫でた。子供をあやすような、慈愛に満ちた手つき。
「な、何を……」
僕は苦しい顔で白川さんを見た。恥ずかしさと、情けなさと、そしてどうしようもない安堵感が入り混じって……胸が詰まる。
白川さんは僕の目を見て微笑んだ。
「いいんだよ。……自分が傷ついた時は、泣いたって」
「……ッ」
「人の事ばっかり考えて、自分が悪かったなんて反省して、苦しむ必要はないよ」
その言葉は、僕の心のダムの、最後の一線を決壊させた。
優しく語りかけてくれる言葉。肯定してくれる声。
耐えていたものが、一気に溢れ出してくる。
僕は、顔をくしゃくしゃにして、涙を流しながら、やり場のない感情を、ただただ独白するように叫んだ。
「……僕だって……僕だって傷つけたくなかった!!!」
喉が張り裂けそうだった。でも、止められなかった。
「けど、仕方ないじゃないか! これ以上、あんな曖昧な関係を続けてたら、もっと傷つけてたかもしれないのに! だから……僕はちゃんとしないとって思ったんだ!」
「……うん」
「だって……! 僕がちゃんとしないと……傷つく人が、いたから!」
僕が、黒羽さんとあんな関係を続けていたら、白川さんも傷つく。一ノ瀬さんだって、不快に思うだろうと、そう思っていた。
……でも、僕は……全員を守ろうとして……全員を傷つけた。
「…………」
白川さんは、少し悲しげな表情をしながら、横から僕を支えるように、強く抱きしめてくれた。
彼女の体温が、震える僕の体を包み込む。
「嫌い合うつもりなんてなかったよ! ただ普通の友達……クラスメイトの関係に戻れれば良かったのに……彼女はそれを拒んだんだ!」
普通でいられないなら、他人になるしかない。そんな極端な選択肢を突きつけたのは、黒羽さんだ。
「どうして、普通の関係になれないの!?」
僕は彼女の肩に額を押し付けて叫んだ。
「僕は……こうならないために、人と関わることを拒んできたのに! モブでいいって……傍観者でいいってそう思ってたのに! ……どうして、こうなっちゃうんだよ!」
平穏が欲しかった。ドラマチックな展開なんていらなかった。ただ、静かに本を読んで、たまに笑い合える、そんな些細な日常が欲しかっただけなのに。
「僕は……僕はただ、普通を望んだだけなのに……平穏を望んだだけなのに!」
どうして……普通の関係になれないんだ。
「……う、うぅ……ああああああああっ!」
座ったまま、白川さんの胸に顔を埋めて、子供のように泣きじゃくった。
白川さんは何も言わずに、ただ僕の背中を一定のリズムで摩り続けてくれた。
大丈夫だよ、ここにいるよと伝えるように。静かに、静かに、宥めてくれた。
……どれくらいの時間が経っただろうか。
夜の公園は静まり返り、遠くで車の走る音だけが聞こえていた。
次第に僕は泣き止み、しゃくりあげる息だけが残った。ゆっくりと体を離し、顔を上げると、目は熱を持って腫れぼったかった。
「……ごめん、白川さん……変な事、言っちゃった……」
冷静になると、羞恥心が一気に押し寄せてくる。支離滅裂だった。何を言っていたのか、自分でもよくわからない。
でも、どこか開き直りに近い、スッキリとした感覚もあった。膿を出し切ったような、虚脱感と爽快感。
「ううん、大丈夫だよ」
ずっと隣で、僕が落ち着くまで傍にいてくれた白川さんは、今もなお、聖母のように優しくそう声をかけてくれた。
「……ありがとう」
傍で、ただくだらない独白を聞いてくれた白川さんに、心から感謝した。
全部感情をぶちまけて、多少はスッキリした。
だからって何かが解決したわけじゃないけど、胸を押しつぶしていた窮屈な気持ちは、少しだけ解放されたような気がした。
……少しの沈黙の後。
白川さんが、夜空を見上げたまま、ポツリと言った。
「……ねぇ、飯田君は……え、えっちなこと……したいの?」
「……え?」
突然の、あまりにも脈絡のない言葉に、僕は驚いて彼女を見た。
白川さんは真剣な顔で、でも少し頬を染めて僕を見ていた。
「だって……私がホテルで迫った時も拒んでたし……黒羽さんのことも拒んでたって言ってたから……」
彼女は、言葉を選びながら続けた。
「あ、否定してるわけじゃないよ? だた、普通の男の子なら、あんな風に迫られたら……しちゃうものだと、思ってたから……」
それは、純粋な疑問だった。なぜ、僕はそこまで頑なに、一線を越えることを拒むのか。
僕は少し考えてから、正直に答えた。
「……そりゃ、僕だって男子だし……そんなことされたら、揺らぐよ……」
「……」
「けど、やっぱり、僕にとっては……ちゃんと互いに好きになってからした方が、きっと幸せだと思うから……そんな、軽率には出来ないと思って……」
「……そっか」
白川さんは、納得したように頷いた。
「じゃあ、興味はあるんだね」
その直球な確認に、僕は顔を赤くして、黙って頷くしかなかった。
「……じゃあ、黒羽さんとの関係になっちゃったのもしょうがないよ」
白川さんは僕の肩に、こてんと頭を預けてきた。
「えっちなことを迫られて、それでもちゃんとした関係を望んで、それを拒んで……えっちなことを否定するのって、男の子にとっては、きっと、とっても大変なんだよね?」
「…………」
肯定してくれる言葉に、僕はただ黙るしかなかった。
それを自分の弱さだと思うから。流されなかったことを強さだと言ってくれる彼女の優しさが、痛くて、心地よい。
「……難しいね。人と人が関わるのって」
白川さんは、空を見上げてつぶやくように言った。
「ただ楽しく仲良くしたいだけなのに、なぜか喧嘩したり、いがみ合ったり。それでも仲直りしてもっと仲良くなったり、疎遠になったり、嫌いになったり……」
「……そうだね」
本当に、そうだ。どうして、ただ普通でいられないんだろう。
「それなりな関係って、いいよね」
白川さんは、夢見るように言った。
「ちょっと喋って、たまに遊んで、それだけで。……いがみ合いもないし、嫌われることもない。凄い楽な関係……それは、とてもいいことだと思う」
それは、僕がずっと望んでいた平穏そのものだ。
白川さんは、目を閉じて、自分の言葉を噛み締めるように飲み込んだ。
「……でも、私は、黒羽さんの気持ちが、ちょっとわかるかも」
不意に、彼女の声色が少しだけ変わった。
白川さんは目を開くと、頭を上げて、優しく笑って僕の目を覗き込んだ。
「……え?」
「だって……私だって、飯田くんと普通の関係になるなんて……もう、出来る気がしないもん」
「………」
ドキリ、とした。
「飯田君は、きららちゃんやエマちゃん、玲央くんや隼人くんとは違うよ」
彼女ははっきりと言った。
「もちろん、皆はとっても大切な友達だけど……飯田くんは、それ以上に、大切な友達だから」
「……」
「私の、弱い所を知っていて……それを受け止めてくれて、救ってくれた」
彼女の手が、僕の手の甲に、そっと重ねられた。
「……私、ずっと怯えてたんだよ? 嫌われたらどうしよう、今は楽しいけど、裏で嫌われてたらと思ったら、怖くて仕方なかった」
あのホテルでの、彼女の震えを思い出す。
「けど、飯田くんがいてくれるから……弱い私を受け入れてくれる人がいるって思うから……救われてるの」
彼女は力を込めて言った。
「だから、皆の前で泣いても、皆私のこと嫌わなかった。体調を崩しても、心配してくれた。……結果論かもしれないけど、それを知れたのは、飯田くんが私の恐怖を取り除いてくれたからなんだよ」
「……僕は、そんな……対したことしてないよ」
僕はいつものように、反射的に否定した。
「ううん。君は大したことをしてるよ」
しかし白川さんは、僕の言葉を遮るように強く否定した。
「誰かからみたら些細なことかもしれないけど、私にとってはとっても大切なことだったんだよ。だから、飯田くんにも、それを否定してほしくない」
真剣な顔で、白川さんは僕を見つめた。その眼差しは強くて、芯があった。
「……ごめん」
僕は観念した。彼女は僕を卑屈にはさせてくれなかった。嫌でも、僕は彼女を救ったのだと思わされた。
「……ありがとう」
僕がそう言うと、白川さんは、また花が咲いたように笑った。
「こちらこそありがと。……だからね」
彼女は、確信を持って言った。
「私にとって飯田くんが特別なように、黒羽さんにとっても、飯田くんは特別だったんだと思う」
「……」
「だから、今更ただのクラスメイトとして見るのは、どうしたって無理なんだよ。……一度近づいたら、留まるか、離れるしかないんだよ、きっと。それが、人と人の距離なのかもしれない」
……沈黙が落ちる。
痛いほどの真実。僕は黒羽さんと離れることを選んだ。
「……飯田くんは私のせいじゃないって言ったけどさ……」
白川さんが、申し訳なさそうに眉を下げた。
「この一件は、全部私のせいだよね」
「……」
その言葉に、もう否定はできなかった。
白川さんが黒羽さんに嫉妬のような感情を抱かなければ。
あの時、部室に飛び込んでこなければ。
黒羽さんと僕は違う結末を迎えていたかもしれない。
そう思ってしまう気持ちは、決してゼロではなかった。
「大丈夫。飯田くんはそんなに深く考えないでいいよ」
僕が沈黙していると、白川さんは僕の手をぎゅっと握った。
「私、飯田くんがいっぱい助けてくれたから、とっても強くなったから、心配しないで」
彼女は、自分に言い聞かせるように力強く言った。
「私が悪いことをした時は、私を悪者にしてよ。飯田くんが傷つくことじゃない」
「……そんなこと、していいのかな」
僕は弱々しく呟いた。
「僕はいつだって自分がしたことの愚かさを自覚してる……。僕が強ければ……ちゃんとしていれば、こんなことにはならなかったと思ってしまう」
「……じゃあ」
白川さんは、少し意地悪そうに、でも愛おしそうに言った。
「私が、事情も知らない飯田くんと黒羽さんの間に、嫉妬心丸出しで入り込んで、感情むき出しで喚かなければ、こんなことにはならなかったと思わない?」
「……」
そんなこと言われて、否定はできなかった。事実、彼女の介入が決定打だったのは事実なのだから。
「そういうことだよ」
白川さんは、にっこりと笑った。
「どれだけ自分を卑下しても、誰が悪いとか、何が悪いなんて、重要じゃないの。起きてしまったことは、変わらないから」
彼女は僕の肩に手を置いて言った。
「だから、頭がいい飯田くんは、何も考えないでいいんだよ」
「……え?」
「誰かに弱みを見せて、助けてもらっちゃえばいいんだ」
「……誰か、僕を助けてくれる人が、いるのかな」
どこまでも自信のない僕は、目の前の白川さんにまっすぐ助けを求めることは、まだできなかった。
「……ふふん、任せなさい!」
白川さんは、勢いよくベンチから立ち上がった。
少し歩くと、くるりと振り返り、両手を腰に当てて、仁王立ちで僕を見下ろした。
逆光の中で、彼女のシルエットが、夜空に浮かび上がる。
それは、頼りない守られるヒロインの姿ではなく、間違いなく、僕を導こうとするヒーローの姿だった。
「今度は、私が飯田くんを助けてあげる番だから!」
彼女は夜の公園に響き渡る声で高らかに宣言した。
その笑顔は、完璧なアイドルの仮面でもなく、泣き虫な素顔でもなく、
僕の大切な友達としての、最高に頼もしい笑顔だった。




