第6話 知りえた感情 3
……終わった。
部室を飛び出した僕は、フラフラになりながら帰路を歩いていた。
足が重い。
まるで、鉛の靴を履いているみたいだ。
……嫌いだと言われる覚悟、してたんじゃなかったのかよ。
黒羽さんに、もう来ないでと言われる可能性は考えていた。
それを受け入れる覚悟もしていたつもりだった。
全ての人に好かれるのは無理だ。
嫌われる覚悟を持たないと。
あの日、ホテルで白川さんに言った偉そうな言葉がブーメランのように突き刺さる。
……自分が、一番できてないじゃないか。
恥ずかしい。
情けない。
僕はショックで視界が滲むのを止められなかった。
家に着く。
「……ただいま」
「おかえり~」
母の声が聞こえる。うるさい返事は帰ってこない。
今日は兄も姉もいないようだ。
いつもなら、静かでいいと思うはずの空間が、今はどうしようもなく空虚に感じられた。
……こんな時は、あの騒がしい二人が恋しい。
僕は、自室のベッドに倒れ込んだ。
天井の木目を数える。
……最近ベッドで考えることばっかりだな。
……考えちゃダメだ。
僕は頭を振った。
……今は考えるより、受け入れる覚悟をすることだ。
分かっていたことだ。
黒羽さんとの関係はいつか終わるものだった。
探究が終わればそれまで。普通を拒否されたならそれまで。
「……あ〜あ」
大きなため息をつく。
拒絶され黒羽さんとの関係が完全に終わったという事実が、胸に重くのしかかる。
じわりと、また涙が出てくる。
……思い返せば楽しかった。
そりゃそうだ。
僕は思春期男子だ。
美少女にパンツ見せられて、性的に誘われて、触れ合うようなことがあれば喜ばないはずがない。
普通だとか、手順だとか言って否定しながらも、そんな事されたらどうしたって本能は嬉しかった。
それは否定できない事実だ。
……でも。
僕の脳裏に浮かぶのは、あの刺激的な探究の記憶だけじゃない。
……やっぱり、1番楽しかったのは、あの放課後デートだ。
ゲームセンターでぬいぐるみを抱きしめて喜んでいた彼女の顔。
ファストフード店でストローをくわえながら僕の話を聞いてくれた彼女の顔。
いつもの探究の一貫だったかもしれないけど、あれは普通のデートみたいで本当に楽しかった。
……思い返すと、惜しい事をしたな。
なんて、失ってから今更思う。
もう少し彼女に向き合っても良かったんじゃないだろうか。
彼女の探究にもっと寄り添ってあげれば違う結末があったんじゃないか。
そう思う事が……なんか嫌だ。
こんな決断をした自分がバカみたいで、女々しくて。
僕は、色んな感情を受け入れながら、この悲しみを、一つ一つ、噛み締めるように受け入れなければいけない。
◇
翌日。
僕は重い体を引きずって学校へ向かった。
教室に入れば当然黒羽さんはいる。
……でも、僕の席は彼女と離れているし、普段から教室ではほとんど絡まない。
……目を合わせないようにしよう。
僕はそそくさと自分の席に着いた。
これでいい。
こうして避けていれば、自ずとこの痛みも落ち着くだろう。
そう思って鞄から取り出し本を開こうとした時だった。
ガラッ、と、教室の扉が開く音がした。
「おはよ~!」
明るい声。顔を上げると、そこには白川さんが立っていた。
いつものように完璧な笑顔で。
でも、どこか今までよりも肩の力が抜けているような軽い様子にも見えた。
「あ! ヒマリ~!」
すぐに天沢さんが駆け寄って抱きつく。
「うん、元気になったよ! 心配かけて、ごめんね!」
それをきっかけに、いつもの陽だまりメンバーが集まる。
「よかった~! マジで心配したんだから~!」
いつものメンバーが、白川さんの元に集まってワイワイと話し始める。
……陽だまりが復活した。
僕はその光景を遠巻きに見ながら心から安堵した。
……よかった。
……白川さん、元気になったんだ。
僕の手紙が役に立ったのかどうかはわからないけど、彼女が笑っているならそれでいい。
そう思って、視線を外そうとした時。白川さんと目が合った。
「!」
彼女は僕に気づくとパッと表情を輝かせた。
そして、ためらうことなく、嬉しそうに僕の方へやってきた。
「おはよう、飯田くん」
彼女は僕の机の前に立って挨拶してくれた。
「おはよう、白川さん。……元気になった?」
「うん。お陰様で」
彼女はにっこりと笑った。
そして、少しだけ声を震わせた。
「……ありがとね。飯田くん」
「え?」
「本当に……ありがとう」
彼女の瞳が潤んでいく。
我慢していたのか段々と声が上擦り、次第に喋りながら目から大粒の涙が溢れてきた。
「し、白川さん!?」
僕は、あまりにも唐突な事に慌てて立ち上がった。
……なんで!? なんで泣いてるの!?
周りの生徒たちもざわつき始める。
「ごめ……なさい……」
白川さんは、顔を両手で覆った。
「……泣くつもりは……なかったのに……」
僕は突然泣き出した彼女に、その場でワタワタするしかなかった。
「おい! 飯田! なに陽毬泣かしてん……のか!?」
一部始終を見ていた玲央くんは本当に僕は泣かしたのか疑問を持ちながら、
しかし、一部始終を見てたためか疑問形で詰め寄ってきた。
「い、いや、僕は何も……!」
否定しようとするが、言葉が詰まる。
そもそも、彼女が学校に来なかった理由も、元を正せば僕との一件だし。
……今、泣かしてる事実も、間違いじゃないかもしれない……。
「ごめっ…………ちがっ……くて……」
白川さんが泣きじゃくりながら、否定しようとするが言葉にならない。
「ヒマリ大丈夫!? い、飯田くん何かしたの!?」
天沢さんも訳が分からなさそうにしながら、僕を睨んだ。
……まずい。
このままじゃ、僕は白川さんを泣かせた悪人として吊し上げられる。
それ以上に、白川さんが変な噂を立てられて傷つくかもしれない。
「えっと……あ、そ、そうだ!」
僕は思い出したように、机の上に置いてあった文庫本を手に取った。
そして、そのページに挟んであったあれを抜き取る。
「白川さん、こ、これ!」
僕はわざと大きな声で言った。
「あの……プレゼント、勝手に開けちゃったけど……これ、受け取ったよ!」
僕は白川さんからもらったおしゃれな栞を見せた。
「え……?」
白川さんが、涙に濡れた顔で、驚いて僕を見る。
皆は当然、それを疑問の表情で見た。
僕は一気にまくし立てるように説明した。
「……部室に落ちてて……勝手に開けるのも悪いかと思ったけど、僕宛てだったから……僕がもらっていいのかなと思って使わせてもらってるよ! 自分じゃあんまりこういうの買わないけど、すごいオシャレで可愛い感じで――」
真実は少し違う。本当は黒羽さんが僕に渡してくれたんだ。でも、慌てていた僕は、都合よく真実を誤魔化した。
「――だから……えっと……実は割と仲良くて……だから……僕もなんで白川さんが泣いてるのかわからなくて……それで……」
結局何が言いたいのかわからなくなりかけていると、
「……飯田、くん……」
白川さんのその瞳から不安の色が消え、代わりに温かい光が宿る。
そして。
「――ありがとう!!」
白川さんは再び突然、泣きながら僕に飛びついた。
「うわっ!?」
ドン、と衝撃が走り、彼女の腕が、僕の背中に回される。
「!?」
教室中が静まり返った気がした。
玲央くも、天沢さんも、美波さんも口を開けて固まっている。
しかし、1番驚いたのは間違いなく僕だろう。
「ありがとう……飯田くん……! 本当に……ありがとう!」
白川さんは、感情が爆発した様に、涙を流しながらも、強く、強く、僕を抱きしめた。
その温かさが、震えが、僕の胸に直接伝わってくる。
「……い、いえ、どういたしまして……?」
僕は、抱きつかれたまま両手を広げて固まり、そう言うのが精一杯だった。
……よくわからないけど。
僕のあの手紙は、彼女の心を救えたと言う事なのだろうか。
彼女の心からのありがとうが、僕の空っぽだった心に満ちていく。
あんなに落ち込んでいた僕の心は、彼女のその温かい感謝の気持ちで、幾分か救われた気がした。
教室はざわざわと騒然としていた。
天沢さん達もまだ状況が飲み込めず呆然としている。
でも、白川さんの顔が、泣き顔から満面の笑顔に変わったのを見て、とりあえず敵意は引っ込めたようだった。
僕は白川さんから解放され、へなへなと椅子に座り込んだ。
心臓が痛い。
でも悪い痛みじゃない。
……しかし、ふと視線を感じた。
教室の反対側。
…………そこには、黒羽さんがいた。
彼女は、本を開くこともせずじっと、こちらを見ていた。
その表情は、いつもの無表情。
でも、その瞳は僕と白川さんの抱擁を一部始終見ていたはずだ。
「…………」
彼女は、僕と目が合うと、
すっ、と視線を逸らした。
そして何事もなかったかのように、カバンから本を取り出し、読み始めた。
「……」
胸がチクリと痛んだ。
少し救われた僕の心に、また小さな棘が刺さる。
僕はその痛みから逃げるように、視線を自分の机に戻した。
僕たちの関係は、救済と、喪失と、誤解を孕んで、また複雑に、絡み合い始めていた。
◇
昼休み、白川さんは弁当を手に、
「飯田くん、一緒に二人でご飯食べない?」
堂々とクラスでそんなお誘いをしてきた。
「え……は、はい」
断る理由などなく、僕達は屋上へと足を運んだ。
……7月に入った屋上は熱く、しかし優しい風が冷たく吹いていた。
日陰の場所を探り、座れそうな縁石に座り、僕たちは弁当を食べていた。
「…………手紙、ありがとね」
白川さんは呟くように言った。……どうやら僕の手紙は読んでくれたようだ。
「……僕の方こそありがとう……プレゼントまでくれて……嬉しかった……」
素直な感謝の気持ちを伝えつつ、
「それと……あの時はごめん……不甲斐ない場面をみせてしまって……」
「…………ねぇ、飯田くん」
「……先にはっきりさせたいんだけど……黒羽さんとは付き合ってないの?」
「…………うん」
「じゃあ……それはあの手紙に書いてあったことと関係があるの?」
「うん」
「…………それは……私が聞いてもいい話なの?」
「……もしかしたら白川さんを傷つけるかもしれない。けど……これは白川さんには知っておいて欲しい事なんだ……どうして僕が……付き合ってもないのに黒羽さんとあんなことをしていたのか……」
「…………」
白川さんは少し考える様子を見せた。
そして、僕の目を見て答えた。
「聞かせて」
その目に迷いはなかった。
「…………僕は文芸部をやめたんだ」
「……え?」
僕は黒羽さんとの関係を話した。
具体的なことは言ってないけど、黒羽さんが感情を求めている事、その方法がえっちなことだということ。僕が恋を教えようとしていたこと。それがすれ違っていたこと。
そして、その途中で白川さんとああなったこと。僕がどう感じていたのか、どうして文芸部をやめることになったのかを話した。
「……そうだったんだ」
弁当を食べ終え、話し終えた僕達は、厚くなった入道雲を見上げていた。
「…………じゃあ……やっぱり……私は……二人の邪魔をしちゃったんだね」
白川さんはそんな結論を出そうとしていた。
しかし、僕は否定した。
「! そ、そんなことないよ!」
そんなことない。白川さんと出会えたことは、間違いなく僕の人生にとってプラスな出来事だから。
「ううん……そんなことある。私がそこに入らなければ……きっと飯田くんが黒羽さんと中互いすることなんてなかった。それは間違いないよ」
「そんなことない! 僕は……白川さんと仲良くなれてよかったと思ってるんだ! だから……そんなこと絶対にない!」
「……ありがと。ごめん、意地悪な言い方したね。私も、飯田くんと出会えてよかったと思ってる」
「そんな事……こちらこそ……その……ありがとう」
「……じゃあ、あの時は、その……探求っていう名目で、抱き合って……き、キスしてたの?」
白川さんは少し照れながら遠慮気味に聞いてきた。
「え!? し、してないよ!? 急に引っ張られて床に倒されて……首元抑えられて……に,逃げれなかっただけで……」
ワタワタと、僕は言い訳のように説明した。
「……でも、満更でもなかったんじゃない?」
「……えっと……その……」
思い出される、黒羽さんの間近で少しうっとりした顔。
それを思い出してしまえば、思わず言い淀んでしまう。
「……そりゃそっか〜。黒羽さん美人だし、あんな子に迫られたら断れないよね」
僕の反応を見て、白川さんは突如納得したように言った。
その口調は軽く、仕方なさを含んでいた気がする。
僕の狼狽えはもはや答えでしかない。
「……で、でも……空っぽだった僕に意味をくれたのは白川さんです」
僕は言い訳みたいな、でも真実を伝えた。
「え?」
「何の意味も持ってなくて、何の価値も無かった僕を……価値ある物にしてくれたのは、間違いなく白川さんです。互いの秘密を共有して、白川さんとこうして仲良くなれた。白川さんの友達とだって少しは仲良くなれた。それは間違いなく僕にとって意味のある事だった。
だから……僕はそれを大切にしたかったんだ……。だから……曖昧で、何が起こるかわからない、黒羽さんとの関係を……ハッキリさせたかったんだ」
それが、黒羽さんと仲違いになった理由。
「……だとしたら……嬉しいかも」
白川さんは、床を見ながら、静かに笑ってそう言った。
そう思ってくれれば、僕だって嬉しい。
「……あ、プレゼント、もらってくれてありがとう」
突如白川さんは思い出したように言うのだった。
「こ、こちらこそありがとう! すごくオシャレで素敵だった!」
「ホント? 一日中探して見つけたから、喜んでもらえたならよかった!」
「そうなんだ……わざわざ僕のためにありがとう」
「助けてくれたお礼だもん。それぐらいどうって事ないよ」
白川さんは優しい笑顔で笑ってそう言ってくれた。
……その優しさは、僕の心を温かくしてくれる。
……どうあがいても、この人には、心が惹かれていく。
「……そっか、そうだったんだね」
白川さんは思い返すように再び空を仰ぎ見て呟いた。
何かを納得したような、あるいは何かを決意したような響きがあった。
彼女は残っていた水筒のお茶を飲み干すと、コトン、と置いた。
そして真っ直ぐに僕を見た。
先ほどまでのおどおどした様子はない。
そこには、一度傷つき、そして立ち直ろうとする少女の、凛とした強さがあった。
「……飯田くん……さ」
改まったように白川さんは切り出した。
「もう一度……私とデートしてくれない?」
その言葉に時が止まった。風の音も、周囲の雑音も、すべてが遠のいていく。 ただ僕の心臓だけが大きく高鳴る音がした。
それはかつて失敗した約束のリベンジ。
そして新しい関係を構築するためのもののように思えた。
僕は……観察者としての自分を脱ぎ捨てる覚悟を決めた。
「……うん、喜んで」
僕の答えに白川さんは花が咲くように笑った。 それは今まで見たどの笑顔よりも、眩しく、美しいものだった。




