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第6話 知りえた感情 2

 翌朝。

 私は昨日よりも少しだけ楽な気持ちで学校に向かっていた。

 昨日の夜のお兄ちゃんとの会話で、私の中のモヤモヤの正体が、少しだけわかった気がしたから。

 ……好きは友達の延長線上。

 頭の中でその言葉を繰り返す。

 私は焦りすぎていた。

 いきなり結果を求めていた。

 だから飯田くんは拒絶したんだ。

 彼が求めていたのは手順だったんだ。

 ……今日は普通に話そう。

 ただの友達として。


 教室に入る。

 いつものように睦月ちゃんと挨拶を交わす。

「おはよ、リン。……なんかスッキリした顔してんじゃん」

「……そう?」

「うん。昨日とは大違い」

 睦月ちゃんはニヤリと笑った。

 私たちはいつものように、他愛のない話をした。

 教室のドアが開き、飯田くんが入ってきた。

 いつも通りの少し猫背な歩き方。

 彼、私のことなど気にも留めずに自分の席に着いた。

 目も合わない。

 挨拶もない。

「…………」

 私はそんな彼の姿を、横目でじっと追っていた。

 普段なら特別彼のことが気になるわけじゃない。

 サンプルとして観察することはあっても、こんな風に目で追うことなんてなかった。

 でも、今は。

 彼が教科書を出す手つきも。

 窓の外を眺める、その横顔も。

 すべてが、気になって、仕方がない。



 授業中。

 先生の声が遠くで聞こえる。

 私はノートの隅に意味のない図形を描きながら考えていた。

 ……どうやって仲直りしよう。

 ただ混乱してどうしていいかわからなくて出た言葉だった。

 でも飯田くんはそれを真に受けてしまった。

 ……訂正しなきゃ

 でも、どうやって?

 ……えっちなことはダメ。

 彼がはっきりとそう言った。

 だから、私の身体を使った作戦は封印だ。

 ……じゃあ、どうすれば?

 ……普通に話す?

 ……ごめんねって言う?

 ……それとも、何かプレゼント?

 色々な作戦をシミュレーションしてみる。

 でもどれもしっくりこない。

 彼がどう反応するか予測できない。

 感情のデータが、不足している。

 ……まあいいか

 私は、ペンを置いた。

 ……部室に行けば会える。

 彼はきっと来る。

 彼も本が好きだから。

 文芸部は彼の居場所だから。

 そこで顔を合わせれば自然と話せるはずだ。

 そう、楽観的に考えていた。


 放課後。

 私はチャイムと同時に席を立ち、一目散に部室へと向かった。

 いつもの席に座り、いつものように本を開く。


 ……私が本を好きな理由。

 そこには感情の移り変わりが大げさに書かれているからだ。

 私が感じられない、感情の動き。

 愛、憎しみ、嫉妬、渇望、絶望。

 それらを文字という記号で見事に表現している。

 私はそれに憧れのようなものを抱いている。

 だからこそ、兄の劣情を見た時に思わず興奮し、自分もその経験をしたいと思ったのだ。

 ……でも、人はいろんな感情を秘めている。

 私には飯田くんが何を考えているのかわからない。

 教室で男子たちはえっちな話を普通にしている。

 男子がえっちなことをしたいと思っているのは、様々なデータを見れば明らかだ。

 なのに、彼は全く興味を示さない。

 正確には興味はあるようだがそれには順序が必要だと言う。

 少女漫画だって読んだ。恋愛映画だって見たことある。

 キュンキュンするという現象は、知識としては理解した。

 でも、私自身にその経験はなく、実感として理解できない。

 だからこそ、私は強い感情を抱く瞬間に恋焦がれている。

 それが劣情であることは、紛れもない事実だ。


 ……遅いな。


 時計をちらりと見た。

 放課後になって、もう20分が経つ。

 いつもならこのぐらいの時間には来ているはずなのに、姿を現さない。

 ……もしかして、こない?

 ふと、そんな疑問が頭をよぎる。

 少し不安になってきたその時。

 ガラガラ……。

 部室の扉が、静かに開いた。

「……」

 飯田くんだ。彼が入ってきた。

 私は一気に緊張した。

 心臓がドクンと大きく跳ねる。

「……おはよう、黒羽さん」

 彼が小さく挨拶をした。

「……」

 何も言えなかった。

 声が出ない。

 思わず視線を本に戻してしまった。

 ……あれ?

 ……どうして言葉が出ないの?

 彼と目を合わせられない。いつもみたいに声を掛けれない。

 ただ、聞きたいだけなのに。

 ……結局私達の関係は何なのだろうと。

 ……ただのクラスメイトで、ただの部員だと宣言された

 じゃあ、何を確認すればいい?

 ただのクラスメイトとただの部員は何を話せばいい?

 天気の話? 授業の話?

 そんなの、私が彼としたい話じゃない。

 どうしたらいいのかわからなくて、私は本を睨みつけていた。

「……その本、面白い?」

 不意に彼から声をかけられた。

 ビクッ、と、肩が震える。

「……うん」

 私は顔を上げずにそう返すのが精一杯だった。

「……どんな話なの?」

「……」

 困ってしまった。

 考え事をしていて今日読んだ内容なんて全然頭に入っていない。

 それよりも、今私は彼とどう会話していいのか全くわからなかった。

 普通に話したいのに。

 普通が、私にはわからない。

「……今、集中してるから」

 私は自分でもよくわからないことを言った。

 彼の言葉を拒否していた。

 全く集中などしていないのに。

 彼を遠ざけるような、冷たい言葉を吐いてしまった。

「……ごめん」

 彼は小さく謝った。

 ちらりと見ると、彼はひどく悲しそうな顔をしていた。

 傷ついた顔だった。

 彼は本に向き直る。

 でも、その目が文字の上を滑っているだけで、泳いでいるのは明らかだった。

 ……なんで。

 ……私は、何をしてるの?

 私は私が分からない。

 私はどうしたいの。

 私はただ、飯田くんと探究する相手ではなくとも、ただ、仲良くなりたかっただけなのに。

 どうして彼を傷つけるようなことをしてしまうんだろう。

 しばらくすると、飯田くんは本を閉じて机に突っ伏した。

 最初は寝ているのかわからなかったが、少し経つと静かな規則正しい寝息が聞こえてきた。

 私は本を閉じ席を立った。

 忍び足で恐る恐る彼のもとに近づく。

 彼は腕を枕に側頭部を付けて横を向いて寝ていた。

 その寝顔は以前にも見たことがある。

 彼が珍しく先に部室に来ていた時だ。

 あの時は白川さんが邪魔をしてきた。

 なぜかあの人は私に突っかかってくる。

 何もしていないのになぜだろう。

 いがみ合いたいわけじゃないけど、どうやら彼女は私が気に入らないらしい。

 だけどどうやら飯田くんとは仲がいいみたいだ。

 ……飯田くん

 私は至近距離で彼の寝顔を見つめた。

 無防備な顔。

(……意外と、モテるのかな)

 ふとそんなことを考えた。

 親しい友人もあまりおらず、女子と接触してる所をほとんど見ていない。

 彼は陰キャと呼ばれる部類かもしれない。

 かといって業務連絡などは誰にでも普通に出来るし、変な偏見も持っていない。

 私にも普通に接してくれた。

 だから、彼に迫ってもいいと思った。

 男子なら迫ればだれでもその気になると思ったから。

 私はここで今まで飯田くんとしてきたことを思い出す。

 机の上での誘惑。

 映画館での接触。

 放課後デート。

 ……あの時ゲームセンターでぬいぐるみを取ってくれた時。

 ファストフード店で、笑い合った時。

 ……とても、心地よい感じが、した

 あれが、友達としての好きだったんだ。

 あれが、兄の言う延長線上の始まりだったんだ。

 なのに、私はそれを壊してしまった。

「………」

 じわりと、視界が滲んだ。

 覗き込んでいた飯田くんの頬に私の顔から、一筋の雫がぽたり、と、垂れた。

「……あれ?」

 私は、自分の目元に触れた。

 濡れている。

 ……泣いてる?

 なんで泣いてるんだろう。

 痛くもないのに。

 自分が泣いてる理由が、分からない。

「……う〜ん」

 涙が頬に落ちた刺激で、飯田くんが小さく唸った。

 身じろぎをする。

 目を覚ますかもしれない。

 ……バレちゃいけない。

 私はとっさにそう思った。

 こんな、訳のわからない涙を彼に見られたら、また困らせてしまう。

 私は慌てて自分の席に戻り、カバンに本を突っ込んだ。

 そして逃げるように部室を飛び出した。

 廊下を早足で歩く。

 涙が止まらない。

 袖で乱暴に拭う。

 ……なんで。

 ……なんで、私は泣いてるの?)m

 私は帰り道を歩きながら、ずっと葛藤した。

 探究が終わったから?

 いいサンプルを失ったから?

 ……違う。

 そんな、理由じゃない。

「……あ」

 駅の改札の前で、私は立ち止まった。

 胸の奥が痛い。

 昨日兄に相談した時よりも、もっと鋭く、深く痛い。

 ……そっか。

 私は気づいた。

 私が泣いている理由。

 胸が痛い理由。

 私は飯田くんを失ったことが、泣くほどショックだったんだ。

 探究とか興味とかそんな理屈じゃなくて。

 ただ、飯田くんという、一人の大切な人と、もう二度と笑い合えないかもしれないという事実が。

 どうしようもなく悲しかったんだ。

 雑踏の中で、私は一人立ち尽くす。

 夕焼けが滲んで、世界がオレンジ色に溶けていく。

 私の初恋は、始まる前に終わってしまったのかもしれない。



 翌朝。

 私は、自分の感情を持て余していた。

 昨日の涙の理由。

「飯田くんを失ったことがショックだった」という結論。

 そこまではわかった。

 でも、その先がわからない。

 ……どうしたらいいの?

 教室の隅で睦月ちゃんと話をしていても、心はここにあらずだ。

 飯田君が教室に入ってくる。

 いつもなら、気にも留めない彼の姿を、今は、目で追ってしまう。

 彼と目が合う。でもすぐに逸らされる。

 挨拶もない。

 すれ違っても空気のように扱われる。

 ……拒絶、されている。

 その事実が胸の奥を鋭く刺す。



 授業中、私はノートの隅に思考の断片を書き殴っていた。

 飯田君の拒絶の意味。

 彼が私との探究を拒んだ理由。

 ……僕は黒羽さんを友達として大事にしたい。

 彼はそう言った。

 でも、本当にそれだけだろうか?

 もし私との関係が彼にとって邪魔なのだとしたら?

 私は、思考の検索範囲を広げた。

 そして、一つの可能性に行き当たった。

 白川陽毬。

 彼女は私を敵視している。

 あの平手打ち、あの涙。

 嫌だという感情的な拒絶。

 あれは明らかに異常な反応だった。

 なぜ、彼女はそこまで私を嫌うのか?

 論理的に考えれば、答えは一つしかない。


 ……嫉妬。


 彼女は飯田くんのことが好きなのだ。

 だから私と飯田くんが近づくのを許せなかったのだ。

 そして、飯田くんもまた彼女のことを気にしている。

 だからこそ、私との探究を拒み友達という安全な距離に逃げ込んだのだ。

(……私は、邪魔な存在)

 その結論に至った瞬間、私の胸の奥に、冷たくて重い塊が生まれた。

 白川さんは、明るくて、元気で、感情豊かで。

 私とは正反対の、人間らしい女の子だ。

 飯田君にとっても、彼女の方が、ずっと魅力的だろう。

 私のような、感情の薄い、機能不全の人間よりも。


 ……あわよくばなんて、今思えばないとわかっていても、馬鹿な発言をした。

 私は私が満足できれば、ほかに人がいたってかまわない。

 なんなら、一緒に快楽の向こうへいけるのなら、人数が多いに越したことはないだろう。

 でもそれは普通の考えではない。私は、私の感覚は普通じゃない。

 だから……きっと、それは叶わない。

 飯田くんが白川さんに惹かれている以上、私は、彼との関係の進めることは難しい。

 ……人のことは、こんなにもわかるのに。

 ……自分のことだけが、全くわからない。

 私は、深い落胆の中に沈んでいった。



 放課後。

 私はいつものように文芸部室にいた。

 本を開いているが、文字は一つも頭に入ってこない。

 ……自分は、どうしたい?

 自分の感情を探究したいのは変わらない。

 でも今の優先順位は、飯田くんとの関係性をどうにかすることが最優先だ。

 どうしたらいい?

 どうしたら、また飯田くんと普通に接することができる?

 答えは見つからない。

 ただ、時間だけが過ぎていく。

 またも、静かな空間で私は一人。

 ……来るはずがない

 そう思っていた。


 ガラガラ……。

 扉が開く音がした。

 心臓が、大きく跳ねる。

「……」

 飯田くんだった。

 彼が入ってきた。

 私の思考回路がフリーズする。

 言葉が出ない。

 動くこともできない。

 反応することもできない。

 まるで、見えない鎖で縛られたかのように、彼に対して向き合えない。

 彼も気まずそうに自分の席に着く。


 沈黙。息が詰まるような重い空気。

「……ねぇ、黒羽さん」

 彼が声をかけてきた。

 震えるような弱々しい声。

「……」

 私は動けなかった。

 彼を直視することもできず、視線を本に落とす。

「……無視しないでよ」

 彼の悲痛な訴えが胸に刺さる。

 ごめんなさい。無視したいわけじゃないの。

 ただ、どう接すればいいのか、わからなくて。

 申し訳ない気持ちが溢れてくる。

 でも、私はどうしようもないぐらい、頭の中がいっぱいだった。

「屋上でああは言ったけど……僕は黒羽さんのこと嫌いになったわけじゃない」

 彼の言葉が続く。

「だから…無視されたりするのは普通に傷つくっていうか……普通のクラスメイトや部員どうしだとしたら、もう少し普通に軽い会話ぐらいしてもいいと思うんだけど……」


 …………普通。


 また、その言葉だ。

 彼は私に普通を求めている。

 でも、私はもう、普通には戻れない。

 一度知ってしまった熱を、なかったことになんてできない。

 ……でも、彼との関係を続けるなら、それを受け容れる他ない。

「……黒羽さんが、今の僕のことどう思ってるのかも聞きたいんだ。無視するってことは……嫌いになったってこと?」


 …………そんなわけがない。


 私は、あなたが……。


 でも、彼の震える声に私は耐えられなかった。

 自分でもわからない。

 彼との関係を修復したいと思いながらも、彼のその言葉を私は呑み込めなかった。

「……無理」

 私の口から出たのは拒絶の言葉だった。

 頭で考えていることなど何の意味もなく言葉が勝手に出てきた。

「……あの時、私の気持ちはちゃんと答えた。……飯田くんとは、普通の関係にはなれないって」

「じゃあ、どうして! どうして、こうして、同じ部室に、来るの!?」

 彼が叫んだ。

「……」

 その答えは簡単だ。

 あなたに会いたいからだ。

 でも、それと同じくらい、私は普通の関係になることを拒否している。

「嫌いになったのなら、僕にもう来ないでって、言ってよ!」

 彼の悲鳴が部室に響く。

「僕は……僕はもう、この空気に耐えられないんだ!」

 ……彼は、私の拒絶を求めた。

 それもそうだ。

 こんな嫌な空気、誰だって耐えられない。

 私だってそんな空気を作りたいわけじゃない。

 けれど、私の身体は、私の思考通りには動いてくれない。

 ……彼のことを考えたら、私の考えや、私の思惑は彼の平穏を崩すものでしかない。

 彼は白川さんに惹かれている。

 白川さんも彼の魅力に気が付いている。


 ……私は?


 ……私は、彼をどう思ってる?


 ……私は彼に不誠実だ。


 彼を利用しようとしているばかりで。

 だったら。

 ……私が彼を少しでも大切だと思うなら。

 とる行動は一つしかない。

 私は顔を上げた。

 震える膝に力を込め、彼の目をまっすぐに見つめた。

「……わかった」

 私は告げた。


「――もう、ここには来ないで」


 震えずに、そう言えただろうか。


 彼は、衝撃を受けた表情をした。

 しばらくフラフラし、どこかおぼつかない様子で目があちらこちらに泳いでいた。


 ……否定して。


 どこかで、そんな事を思ったかもしれない。

 彼に、そんなこと言わないでと否定してほしかったのかもしれない。

 しかし、彼は小さく言った。

「……わかった」

 彼はうつろな目でそう告げた。

「……色々ごめん、黒羽さん」

 衝撃的な痛みを感じた気がした。

 彼のその言葉に、私は頭が真っ白になった。

 彼は、フラフラになりながら、部室を出て行った。

 扉が閉まる。

 ガラガラという無機質な扉の音が、私たちの終わりの合図だった。

 私は、その背中を見送って、やりきれない感情に包まれた。


「……っ……ううっ……」


 手に持った本をギュッと胸で抱きしめ、身をかがめて蹲った。


「……うあぁ……あああああ……」


 私は静かに嗚咽しながら涙を流した。

 私はなんて馬鹿なんだろう。

 感情が薄いだとかそんなこと全くなかった。

 私は喜びの感情を求めていた。

 嬉しいとか、楽しいとか、興奮するだとか。

 でも、今一番強く感じているのは、酷い喪失感だけだった。

 悲しくて、つらくて、心が痛い。

 私は感情がなかったわけじゃない。ただ、そんな感情を抱くほど、誰にも興味を抱いていなかっただけだ。

 こんな悲しみを味わうぐらいなら、感情なんて知らなければよかった。


 静かにすすり泣く私を、優しく慰めてくれる人は、誰もいなかった。


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