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第6話 知りえた感情 1

 私は自分のことを感情がないと定義していた。

 そんなことを人前で口にしていたのは、今となっては恥ずかしいほどに、私は感情的だ。


 あの日、突如飯田くんに屋上に呼び出された。

 普段受け身な彼が自分から私を呼び出すなんて初めてのことだ。

 私は胸の奥にワクワクにも似た小さな期待を秘めていただろう。

 ……新しい探究の提案だろうか?

 ……それとも、ついに私の求めに応じてくれるのだろうか?

 しかし、彼は私が思いもしない言葉を告げた。

『もう、黒羽さんの探究には付き合えない』

 そんなことを言われるとは全く思わなかった。

 彼は今まで恥ずかしさを誤魔化すために、拒否してきていたが、ハッキリとそんなことを言ったことなどなかったからだ。


『僕は黒羽さんを、友達として大事にしたい』

 彼は普通の関係になりたいと答えた。

 私にその考えはなかった。

 彼は私の感情の探究のために仲良くなった相手だから。

 友達にはなれない。

 友達とは性的なことはしない。

 私はセフレのような、身体だけの関係に興味はない。

 私が求めているのは、強く、互いを求め合う、強い、強い感情の昂り。

 そのための相手なのに、ただの友達にはなれない。

 だから……私は彼を拒んだ。

 そしたら、彼は、私とただのクラスメイトに戻ることを選んだ。

『……僕たちの関係は……これで、終わりだね』

 仕方ない。

 利害関係が一致しなかったんだ。それだけに過ぎない。

 仕方ない、次の他の相手をどうにか探すしかない。

 私は自分の感情を知りたいから。



 ……そう、思っていたはずなのに。





「……ねぇ、リンってば」

 その声に我に返る。

 放課後。私は睦月ちゃんと教室に残って遊んでいた。

「……あ、ごめん。なに?」

「なに、じゃないし。……何、ぼーっとしてんの」

 睦月ちゃんはスマホから顔を上げ、ジトっとした目で私を見ていた。

「別に」

 私は短く答える。

 しかし私の様子が変なことを睦月ちゃんには悟られたようだった。

「……飯田くんのこと?」

「……そうなのかな」

 睦月ちゃんは呆れたようにため息をついた。

「この前屋上に呼ばれてからへんよ」

「そう、かな?」

 私は、自分でも気づいていなかった。ここ数日私が変だったなんて。

「……何言われたの」

 睦月ちゃんはスマホを机に置き、話を聞くモードに入った。

 私は隠すことでもないので簡潔に答えた。

「……探究はもうできないって。……普通の友達ならいいって」

「……はぁ?」

 睦月ちゃんはご立腹な様子で眉をひそめた。

「なにそれ……手出しといて?」

「私としても惜しい相手だった」

 私はどこか他人事のように言った。

「……飯田君はいいサンプルだったから。……でも仕方ない。他の相手を探すしかない」

「…………それ本気で言ってる?」

 睦月ちゃんが低い声で聞いた。

「?」

 私は首を傾げる。

「本気だけど」

 迷うことなく答えた。

「……そんな簡単に飯田君との関係区切りつけれんの?」

「? 拒まれたなら、仕方ない。……それだけ」

「……だったら」

 睦月ちゃんは私の顔をじっと覗き込んだ。

「……何、浮かない顔して考え事してんの?」

「…………」

 私は自分の顔に手を当てた。

「辛そうな顔して、ボーッとして。……傷付いてんじゃないの?」

「私が……?」

「他に誰もいないよ」

「……そんなこと……ない」

 私は否定した。

 傷つく?

 私が?

 感情が薄い私が?

「……そ。なら、いいけど」

 睦月ちゃんはそれ以上追及しなかった。

「じゃ、かえろ〜」

 彼女はカバンを掴むとさっさと立ち上がった。



 家に帰ってきた私は、リビングのソファで、膝を抱えて、座り込んだ。

 クッションをぎゅっと抱きしめる。

 ……私は辛い?

 ……傷ついた?

 今まで誰に何を言われても何も思ったことなんてない。

 兄がえっちな本を隠しているのを見てもなんともとしか思わなかったし、

 クラスで遠巻きに噂話をされても何も感じなかった。

 ……私は傷付いてるの? 飯田くんに拒まれただけで?

『……じゃあ、これからは、ただのクラスメイトだね』

 その言葉が、強く思い出される。

 それと同時に、思考力が低下していくのがわかる。

 胸の奥が重い。鉛を飲み込んだみたいに。

 ……これは傷付いてるの?

 わからない。

 探究のために他人の感情を分析してきたのに、自分の感情だけがブラックボックスみたいに解析不能だ。

 ガチャリ。

 玄関のドアが開く音がした。

「ただいま〜」

 聞き慣れた気の抜けた声。お兄ちゃんが帰ってきた。

「……!」

 私は弾かれたように立ち上がった。

 ……お兄ちゃん。

 ……お兄ちゃんなら、わかるかもしれない。

 お兄ちゃんは、私に感情を教えてくれた人だから。


 私は慌てて玄関へと走った。

「お兄ちゃん!」

「うをぉ!?」

 玄関で靴を脱ぎかけていた兄が、私の勢いにのけぞった。

「な、なんだよ凛。……びっくりするだろ」

「相談があるの」

 私はお帰りも言わずに必死な様子で言った。

「は? 相談?」

「うん……緊急事態なの」

 私は兄の返事も待たず、脱ぎかけだった兄の腕を力任せに引っ張った。

「ちょ、まてって! 靴 靴が!」

 兄の片方のスニーカーが、綺麗な放物線を描いて、宙を舞い玄関に無造作に転がる。

「うわあああ!?」

 バランスを崩し、なんとか態勢を立て直すと、そのまま、私に引きずられる。

「引っ張るな!自分で歩くから!」

「ダメ。今すぐ来て」

「わかったから! 離せって!」

 私は兄の抗議など耳に入らなかった。

 なりふり構っていられなかった。

 この胸のモヤモヤの正体を、この痛みの理由を、今すぐ誰かに解明してもらわなければ、私が私じゃなくなってしまう気がしたから。

 私は兄を引きずりながら、自分の部屋へと連れ込みバタンとドアを閉めた。

「……で? 何があったんだよ」

 兄は、乱れた服を直し息を切らせながら私を見た。

 私はクッションを抱きしめたまま、兄を見上げて言った。

「……私……壊れちゃったかも」

 そう告げた私に、兄は眉をひそめて尋ねた。

「……な、何かあったのか!?」

「……うん」

「身体痛いのか? 大丈夫か!?」

 兄は迫真の顔で私の両肩を掴んだ。

 その心配そうな顔は何か違う物を指してるような気がした。

 物理的な怪我とか病気とか。

 でも私が感じている痛みは、そういうものじゃない。

「……胸がすっごく痛いの」

 私は、クッションごと胸を抑えて苦しそうに告げた。

「飯田くんの言葉が、ずっと、ずっと、そこに引っ掛かってる感じがするの」

「……あ、そう言う?」

 兄の顔から緊張が解けた。

「身体に害はないのか?」

「うん。身体は元気。怪我とかはしてないよ」

「……なんだ、良かった……って、良くないな」

 兄は一瞬、一人で慌てて、それから落ち着きを取り戻した。

「……飯田って誰だ?」





 私は兄にこれまでの経緯を掻い摘んで説明した。

 感情を知るための探究のこと。

 飯田くんという男の子のこと。

 彼に普通の友達に戻ろうと言われて私がそれを拒否したこと。

 そして、彼が私との関係をクラスメイトに戻したこと。

 話を聞いた兄はなるほどと納得したように頷いた。

 そして、私に問いかけた。

「飯田ってやつの事を考えるとどう言う気持ちだ?」

「……辛くて苦しい」

 私は正直に答えた。

「……これは私を拒んだと言う、裏切りへの怒りの気持ちなの?」

 私が求めていた探究を、彼が一方的に終わらせたことへの論理的な怒り。

 そう解釈するのが、一番合理的だと思った。

 でも、兄は首を横に振った。

「……まぁ、結論を急ぐな。逆を言えば、仲良かったときみたいになりたいんだろ?」

「……うん」

 それは否定できなかった。

 あの、ゲームセンターでの時間。ファストフード店での会話。

 あの時間は心地よかった。

「それってさ……好きなんだろ?」

「……好き?」

 私はその単語を反芻した。

「好きって、あの……劣情の先に訪れる、無条件に好意を抱く覚醒状態?」

「いや、そんなんじゃないって」

 兄は顔を引きつらせた。

「……お前が言う劣情は、好きになった後に、あるもんだ」

「……?」

 私は首を傾げた。

「でも、お兄ちゃんのえっちな本は、みんな、突然無理やり女性の胸を――」

「わ〜! おま、何言ってんだ!」

 兄は、慌てて私の口を塞ごうとした。

「? 違うの?」

「お前は……そう言う事言うのは、やめなさい……」

 兄は、頭を抱えて、独り言のように呟いた。

「……俺は、大いに、お前に変な所を見せちまった事を、深く反省してる……」

 兄は今だに、私に彼女との性行為を見られた事を気にしているらしい。

「と、とにかく!」

 兄は気を取り直して、私に向き直った。

「好きって感情は、何も、恋愛や男女間に限らない。お前睦月ちゃんの事好きだろ?」

「好きとかじゃない、友達」

「でも、仲良くしたいだろ? 学校の休み時間一緒にいたいとか、遊びに行きたいとか」

「うん」

「そう言うのも好きって言うんだよ」

 兄は、諭すように言った。

「一緒にいて楽しいとか、気が楽だとか、もっと喋ってたいなーって感覚は、必ずしも恋というわけじゃない。そういう感情を抱いた時点で、人を好きになってんだ」

「……じゃあ、私は睦月ちゃんの事好きなんだ」

「そうだ。友達だって、もっと一緒にいたい、もっとお喋りしたいって、思うだろ? このまま永遠に話してたいとか、思う事だってある」

「……うん」

「その感じで異性と仲良くなった時、恋の好きって感情がその先の延長線上にあるんだ。ずっと喋っていたい、ずっと遊んでいたい、ずっと一緒にいたい。ずっとずっと……触れ合いたい……そういう思いが強くなると、恋の好きが芽生えるんだよ」

「……」

「それをお互いが強くそう思う事で2人はようやく……結ばれるんだ。心も身体もな」

「……そっか」

 私は、ようやく理解した。

「じゃあ、えっちな事は最後なんだ……」

 彼はこの延長線上のプロセスを、私と一緒に踏みたかったのだ。

 探究という名目で、いきなり結果だけを求めようとした私とは決定的に違っていた。

「……飯田君が言いたかったのは、そういう事なのかな……」

「……飯田がどんなやつか知らないが……お前、最初、何したんだ?」

 兄が、恐る恐る聞いてきた。

「? 彼をパンツで誘惑した」

「おまっ……」

 兄は絶句した。

「それで、手出してこなかったのか?」

「うん。そういう事は最後だからって断られた」

「……そいつすげぇな。盛りのついた高校生男児のくせに」

 兄は、感心したように唸った。

「まぁでも、そっか。良いやつみたいだしとりあえず良かったわ」

「うん」

 私は胸の痛みが、少しだけ和らぐのを感じた。

 痛みの正体は怒りじゃなかった。

 それは手順を飛ばしてしまったことへの後悔と、彼ともっとその延長線上を歩きたかったという未練だったんだ。

「ありがとう、お兄ちゃん。少しだけわかった気がする」

「そうか? ならこんな恥ずかしい話した甲斐があったな」

 兄は照れくさそうに立ち上がり、扉の方へと歩いて行く。

「いいか? 恋は今まで以上に厄介だぞ」

 兄は、背中越しに言った。

「何かあったらすぐ聞けよ。じゃあな」

 それだけを言い残し、兄は部屋を去っていった。



 部屋に静寂が戻る。

 私は再びベッドの上で思考を回した。

 兄の言葉を自分の中で噛み砕く。

 ……好きは友達の延長線上。

 ……えっちなことは最後。

 ……飯田くんは、私と一から手順を進めたかった。

 私は飯田くんとどうなりたいんだろう?


 ……そもそもこの探究の始まりは、ある日、兄が彼女を連れて帰ってきた日。

 兄は家に私がいるのに気付いていなかったのか、部屋で何やらいかがわしい声が聞こえ始めた。

 私は好奇心に駆られ、こっそりと足音を忍ばせ、兄の部屋の扉を開けた。

 そこには……兄と彼女が制服や下着を脱ぎ散らかし、裸で肌を密着させ、互いを深く求め合う光景が広がっていた。

 二人は互いに夢中で、扉の隙間から覗く私に事など気づいていないようだった。

 お兄ちゃんはいつも優しくて、賢くて、私に色々な事を教えてくれた。

 そんなお兄ちゃんが……本能を剥き出しにしたかのように、彼女の胸を強く揉みしだき、強く激しく抱き合っていた。


 私にとってそれは衝撃だったに違いない。

 それから、私はあんなに尊敬できる兄があんなに感情剥き出しになる行為に興味を抱いた。


 そして私は飯田くんをターゲットに探究を始めた。

 ……最初はそうだった。飯田くんと、あんな風に感情剥き出しで、求め合う事がしたかった。

 ……でも確かに今は少しその気持ちは変わってきているかもしれない。

 確かに、彼と求め合う事がしたい気持ちはある。

 けれど、彼と放課後ゲームセンターで遊んだ時のように喜びを感じたい。ファストフード店で他愛のない話をしたい。

 彼が私に向けてくれる、あの困ったような、でも優しい笑顔をもっと見たい。

 ……これは確かに、睦月ちゃんと遊んだ時とはまた違う感覚だ。

 なんだかあったかくて、心地よくて、楽しいだけじゃない感覚があったような気がする。

 ……私は、飯田くんと仲良くなりたいんだ。

 それは探究の対象としての興味ではない。

 睦月ちゃんと同じような、いや、それ以上に、自分の中の大切な存在という枠に、彼が入っていることを、私は理解した。

 ……もう、探究にこだわるのはやめよう。

 ただの友達として飯田くんと話そう。

 私は決意を決めた。

 胸の痛みはまだ消えない。

 私が彼を大切に思うからこそ感じる、愛おしい痛みなのだと受け入れることができた。


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