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千里眼と、廃国の声

 朝が来た。

 廃国の空は薄い灰色だった。太陽らしき光源はあるが、地球のそれより白く、温度が低かった。律は夜明けと同時に目を覚ました。正確には、眠れていなかった。

 広場を見渡した。

 二十三人が思い思いの場所で眠っている。大河が入口近くで壁に背を預けたまま寝ていた。番をしようとして落ちたのだろう。このはは火の傍で膝を抱えたまま眠っていた。強がりの姿勢のまま意識を手放した形だ。

 誠だけが起きていた。

「眠れなかったか」と律が言った。

「少し寝た」と誠が言った。「律は」

「問題ない」

 誠が律を見た。何かを言いかけて、やめた。

 律は広場の北を見た。夜の間に倒した魔物の死骸がある。腐敗が早かった。すでに輪郭が崩れかけていた。この世界の魔物の生態が地球の生き物とは根本的に違う可能性がある。

 観察すべき点が多すぎた。

「玲司を探しに行く」律は言った。「お前は残れ」

「一人で行くのか」

「二人で動く理由がない」

「いや、ある」誠が立ち上がった。「律が一人でいる時に何かあったら困る」

 律は誠を見た。

「俺の心配をするな」

「してない」誠が笑った。「律が一人でいると、余計なことを全部一人で抱えるだろうと思って」

 律は返す言葉がなかった。

 正確だったからだ。


 廃国の奥へ向かいながら、律は昨夜の条件術式の感触を反芻していた。

 使えた。最低限だが、確かに機能した。今日はもう少し複雑な条件を試したい。たとえば——対象が特定の行動を取る直前、ではなく、特定の状況が成立した瞬間に発動する条件。相手の意思ではなく、状況そのものをトリガーにできれば——

「律」誠が小声で言った。「あそこ」

 路地の突き当たり、崩れた石造りの建物。入口に人影があった。

 立っていた。こちらを見ていた。

 御堂玲司だった。


 玲司は律たちを見ても驚いた様子がなかった。

 当然だ、と律は思った。こちらが来ることを知っていた。あるいは来る可能性を計算していた。

「探しに来た」律は言った。

「わかってた」玲司が答えた。

 声は静かだった。感情の起伏が薄い。律と似たタイプだが、質が違う。律のドライさは感情を処理した結果だが、玲司のそれは最初から感情の優先度が低い印象だった。

「昨夜、広場に来なかった」

「来る理由がなかった」

「仲間がいる」

「仲間と判断するのは早い」玲司が律を見た。「神崎、お前もそう思ってるだろ」

 律は答えなかった。

 否定できなかった。

「天職は何だ」誠が聞いた。誠らしくない直球だった。玲司への警戒が声に滲んでいた。

「千里眼」玲司が答えた。「空間を超えて情報を収集できる。遠くで何が起きているか、誰が何を話しているか、把握できる」

 沈黙が落ちた。

 律は玲司の言葉の意味を一秒で展開した。空間を超えて情報を収集できる。つまり——昨夜の戦闘も見ていた。律の条件術式が発動した瞬間も、把握していた。

「昨夜の戦闘を見ていたか」律は言った。

「見てた」

「俺の能力も」

「見てた」

 玲司が律を見た。値踏みではなかった。計算だった。

「面白い能力だと思った。条件を設定して、相手に踏ませる。頭を使う能力だ」

「お世辞はいらない」

「お世辞じゃない」玲司が言った。「ただの観察だ。神崎、お前と俺は似てる」

「似ていない」

「そうか」玲司が少し笑った。笑い方が奏に似ていると律は思った。感情のない笑い方だった。「まあいい。一つ情報を渡す」

「対価は」

「今は要らない。後で請求する」

 律は玲司を見た。

 信用できない。だが情報は欲しい。この二つが同時に成立する相手だと律は判断した。

「聞く」

「この廃国の北東に集落がある」玲司が言った。「人間の集落だ。住民が二十人ほどいる。昨夜、そこの住民の一部が何かを魔物に渡していた」

 誠が息を呑んだ。

「渡していたのは情報だ」玲司が続けた。「転移者の位置と人数。つまり——昨夜お前たちを襲った魔物は、偶然来たんじゃない」

 律は黙っていた。

 想定の範囲内だった。だがこうして言語化されると、重さが違った。

「その集落に行くつもりか」律は言った。

「情報がある場所に行くのは当然だ」

「一人で行くのか」

「お前たちと行く方が効率がいい場合もある」玲司が律を見た。「どうする、神崎」


 広場に戻ると、大河が起きていた。

 律から状況を聞いて、大河は玲司を見た。玲司は大河の視線を受けて表情を変えなかった。

「信用できるのか」大河が律に聞いた。律に、だった。玲々に直接聞かなかった。

「わからない」律は正直に言った。「ただ情報は今のところ筋が通っている」

「筋が通ってるのと信用できるのは別だろ」

「そうだ。だから監視しながら動く」

 大河が玲司を見た。玲司は涼しい顔をしていた。

「俺が見張る」大河が言った。「何かあったら俺が止める」

「頼む」律は言った。

 玲司が大河を見た。「物騒だな」

「そっちが物騒なことをしなければ問題ない」大河が笑った。温度のない笑い方だった。大河にしては珍しかった。


 北東の集落へ向かう道中、このはが律の隣に並んだ。

「なんで私も連れてくの」

「炎術は使い勝手がいい」

「それだけ?」

「それだけだ」

 このはが少し黙った。

「あの千里眼のやつ、信用してるの」

「していない」

「なのになんで連れてくの」

「使える情報を持っている。使えない人間は連れていかない」

 このはが律を横目で見た。「冷たいね」

「合理的だ」

「同じでしょ」

 律は答えなかった。

 少し前を歩く玲司の背中を見た。千里眼。空間を超えて情報を収集できる能力。それは同時に——律たちの会話も、筒抜けの可能性があるということだ。

 律は声を落とした。

「このは」

「何」

「今から俺が言うことだけ聞け。玲司には聞こえていると思え」

 このはが一瞬固まった。それから、小さく頷いた。

「わかった」

 声が変わっていた。さっきまでの刺々しさが薄れて、真剣な声だった。追い詰められた時のこのははこういう顔をするのか、と律は思った。

「集落で何かあった時、俺の指示より先に動くな。いいな」

「……わかった」

 それだけだった。

 律は前を向いた。


 集落は廃国の北東、崩れた城壁の内側にあった。

 石造りの粗末な家が十数軒、寄り集まるように建っていた。住民の姿はすぐに見えた。老人、中年、若い女性。武器を持っている者はいなかった。

 律たちが近づくと、住民たちが固まった。警戒の目だった。敵意ではなく、恐怖に近い。

 一人の老人が前に出た。白髪で、背が曲がっていた。目だけが鋭かった。

「転移者か」老人が言った。言語が通じた。天職の力かもしれなかった。

「そうだ」律が答えた。「敵意はない。情報が欲しい」

「情報」老人が律を見た。「対価は」

「話による」

 老人が律を長い間見た。それから、集落の奥を指した。「入れ」


 老人の名前はガルドといった。

 集落の中で一番大きな家に律たちを通した。中は薄暗く、石のテーブルと椅子があった。

「転移者が来るのは初めてじゃない」ガルドが言った。

 誠が息を呑んだ。律は表情を変えなかった。

「何年前だ」律は言った。

「三年前。十五人だった。全員、一ヶ月以内に死んだ」

 沈黙が落ちた。

「なぜ死んだ」

「帰ろうとしたからだ」ガルドが律を見た。「この廃国で帰ろうとする者は死ぬ。それがこの世界の理だ」

「理由は」

「わからん。ただそういうことが起きる」

 律はガルドを見た。

 嘘をついている様子はない。ただし全てを話しているわけでもない。

「一つ聞く」律は言った。「昨夜、俺たちの位置を魔物に流したのは誰だ」

 集落の空気が変わった。

 ガルドが律を見た。表情が動かなかった。それが答えだった。

「知っているな」律は続けた。「責めに来たわけじゃない。理由が知りたい」

 長い沈黙の後、ガルドが口を開いた。

「生きるためだ」老人の声が低くなった。「魔物に情報を渡す代わりに、この集落は見逃してもらっている。転移者が来るたびに、そうしてきた」

 誠が何か言いかけた。律が手で制した。

「わかった」律は言った。

「怒らないのか」誠が律を見た。

「怒る理由がない」律はガルドを見た。「追い詰められた人間が生き残るために動いた。それだけだ」

 ガルドが律を見た。老人の目に、微かに何かが揺れた。

「お前は変わった転移者だな」

「よく言われる」


 集落を出る時、一人の若い女性が律たちの前に現れた。

 二十代前半。灰色のローブ、短く切った黒髪、警戒心の強い目。集落の住民とは雰囲気が違った。

「エレナ」ガルドが言った。「余計なことを——」

「この人たちは違う」女性——エレナが言った。ガルドではなく律を見ていた。「昨夜の魔物を全滅させた。一人の怪我人も出さずに。三年前の転移者たちとは違う」

 律はエレナを見た。

「お前も昨夜の戦闘を見ていたのか」

「この廃国で生き残るために、見なければならないものは全部見る」エレナが律を見た。「一つ教えることがある。対価は後で決める」

「情報の値段を後で決めるのは不利だぞ、お前が」

「あなたたちが損をする情報は渡さない」エレナが真っすぐ律を見た。「信用しろとは言わない。ただ聞け」

 律は三秒考えた。

「聞く」

 エレナが一歩近づいた。声を落とした。

「帰還の祭壇のことを、あなたたちはまだ何も知らない。そしてそれを知った時——おそらく全員の目的が変わる」

 律は答えなかった。

 エレナの目に嘘はなかった。確信があった。この世界に生きてきた人間だけが持てる確信だった。

「また来る」律は言った。

「待っている」エレナが言った。


 帰り道、誰も口を開かなかった。

 広場に近づいた頃、大河が口を開いた。

「情報を流してた住民を、どうするつもりだ」

「どうもしない」律は言った。

「は?」大河が律を見た。「でも俺たちの位置を——」

「追い詰められた人間が生き残るために動いた。同じ立場なら同じことをする人間はいる」律は前を向いたまま言った。「裁く理由がない。ただし次は流させない方法を考える」

 大河が黙った。

 しばらく歩いてから、大河が言った。

「お前って、怒らないのか。普通怒るだろ、あんな話聞いたら」

「怒っても状況は変わらない」

「そうだけど」大河が律を見た。「怒る気持ちは本物だろ。それを無視するのか」

 律は答えなかった。

 無視しているわけではなかった。ただ怒りを優先する理由がなかった。怒りは使いどころを選べば武器になるが、今は違う。

「律」誠が小声で言った。「エレナって人、信用できると思う」

「根拠は」

「なんとなく」

「根拠になっていない」

「でも律も同じこと思ってるんじゃないかな」誠が笑った。「表情で分かる」

 律は誠を見た。

「俺の表情で何がわかる」

「何も変わってないけど、いつもより少し考えてる顔してる」

 律は返す言葉がなかった。

 正確だったからだ。


 広場に戻った時、玲司が律の隣に並んだ。

「エレナという女、面白い」玲司が言った。

「聞いていたのか」

「千里眼だ。聞こうと思えば何でも聞こえる」玲司が律を見た。「帰還の祭壇のことを知っている。それだけで価値がある」

「お前はその情報を最初から持っていたか」

 玲司が少し間を置いた。

「一部は」

 律は玲司を見た。

「対価の請求、早めに来るな」

「状況次第だ」玲司が笑った。「神崎、一つだけ言っておく」

「何だ」

「俺はお前たちを裏切るつもりはない。今のところは」

「今のところは、か」

「正直だろ」

 律は答えなかった。

 玲司の正直さが、一番信用できない部分だと律は思った。


 夜、火の前で律は一人条件術式の練習をしていた。

 小石に条件を設定する。解除する。また設定する。単純な繰り返しだった。だが条件の精度が少しずつ上がっていく感覚があった。

 このはが隣に来て座った。

「何してるの」

「練習だ」

「地味ね」

「強くなるのに派手な方法はない」

 このはが少し黙った。「ねえ」

「何だ」

「さっき、玲司に聞こえてるって言ってたじゃない」

「ああ」

「あれ、本当に聞こえてたの」

「わからない。ただそう仮定して動く方が安全だ」

 このはが律を見た。「用心深いね」

「生き残るために必要なことをしているだけだ」

「……そう」このはが前を向いた。「私さ、さっきガルドって老人の話聞いた時、すごく腹が立ったんだけど」

「知ってる」

「知ってる?」

「顔に出てた」

 このはが少し黙った。「律は腹立たなかったの」

「立った」

 このはが律を見た。

「立ったけど、今は使いどころじゃない」律は小石を転がした。「お前の怒りも、使いどころがある。今じゃないだけだ」

 このはが律を見続けた。何か言いかけて、やめた。

 しばらくして、小さな声で言った。

「あんた、変なやつだね」

「大河にも言われた」

「大河と私は違う意味で言ってる」

「どう違う」

 このはが視線を逸らした。「……別に」

 律は答えなかった。

 火が爆ぜた。廃国の夜が深くなっていった。


第四話 了

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