それぞれの夜明け
三日目の朝、廃国に雨が降った。
音がおかしかった。地球の雨より粒が細かく、降り方が均一すぎた。まるで誰かが計算して降らせているような雨だった。律はそれが気になったが、今は保留した。気になることが多すぎて、全部に対処していたら動けなくなる。
広場の屋根代わりになる廃墟を見つけたのは大河だった。
崩れた建物の一角、石造りの天井が奇跡的に残っている一画。二十三人が押し込めばギリギリ雨を凌げる広さだった。
「狭いけど我慢してくれ」大河が言った。「雨が止んだら広い場所を探す」
誰も文句を言わなかった。言える空気でもなかったが、それ以上に大河の言い方が文句を言わせない質を持っていた。命令ではなく、当然のことを当然のように言う声だった。
律は建物の端で壁に背を預けた。雨を見ながら考えていた。
昨日のエレナの言葉。帰還の祭壇のことを知った時、全員の目的が変わる。その意味をまだ律は掴めていなかった。変わるということは、今持っている前提が崩れるということだ。帰れると思っていた前提が、崩れる。
どう崩れる。
大河が律の隣に来て、壁に背を預けた。
しばらく雨を見ていた。
「なあ、神崎」
「律でいい」
「じゃあ律。一個聞いていいか」
「内容による」
「お前、怖くないのか」大河が言った。「この状況が、じゃなくて——お前自身のことが」
律は大河を見た。
「どういう意味だ」
「お前って感情で動かないじゃないか。全部計算して、損得で判断して。そういう生き方って、疲れないのかなって」
律は少し考えた。
「疲れを感じる余裕がない」
「それが答えか」
「今はそれだけだ」
大河が律を見た。責める目ではなかった。心配する目でもなかった。ただ、見ていた。
「俺さ」大河が言った。「中学の時、チームのやつを見捨てたことがある」
律は黙って聞いた。
「試合中に怪我したやつがいて、でも俺が助けに行ったらチームが負ける状況だった。俺は勝ちを選んだ」
「それで」
「勝った。でもそいつとはそれから口聞いてない」大河が雨を見た。「勝ちを選んだのは正しかったと今でも思う。でも後悔もしてる。その二つが同時にある」
律は大河を見た。
「なんでその話をする」
「お前が同じ状況になった時、どうするか気になって」大河が律を見た。「お前は迷わず勝ちを選ぶだろ。でもその後に何も残らないのかなって」
律は答えなかった。
何も残らないかどうか、律にはわからなかった。まだそういう選択をしたことがなかった。正確には——した結果が、今の自分を作っているのかもしれなかった。
「お前は正直なやつだな」律は言った。
「そうか?」
「自分の後悔を話せる人間は少ない」
大河が少し笑った。「お前に言われると変な感じがするな。褒めてるのかけなしてるのかわからない」
「褒めている」
「そっか」大河が前を向いた。「律、一個だけ言っておく」
「何だ」
「お前の戦い方、俺は信用する。頭で考えて、先を読んで、仲間を動かす。俺にはできないことだ」大河が律を見た。「だから俺はお前の盾になる。お前が考えている間、前は俺が守る」
律は大河を見た。
返す言葉が見つからなかった。計算ではなく、ただそういう言葉が出てこなかった。
「……わかった」律は言った。
「それだけか」大河が笑った。
「それだけだ」
大河が笑い続けた。律には笑いどころがわからなかった。
雨の中、このはは建物の端で一人座っていた。
律とは反対側の端だった。膝を抱えて、雨を見ていた。近づく者がいなかった。このはの周囲には近づきにくい空気があった。本人が意図して作っているのか、自然にそうなるのかは律にはわからなかった。
誠が律の隣に来た。
「このは、昨日からずっとああいう感じだな」誠が言った。
「ああ」
「話しかけた方がいいかな」
「やめておけ」
「なんで」
「あいつは一人でいたい時に話しかけられると余計に閉じる」律は言った。「放っておくのが正解だ」
誠が律を見た。「なんでわかるの」
「見ていればわかる」
「律ってさ」誠が少し考えてから言った。「人のことよく見てるよな。見てないふりして、全部見てる」
律は答えなかった。
「昨日も、このはが怒ってるの気づいてたし。大河が番をしようとして寝落ちしてたのも気づいてた。俺が眠れてないのも」
「それが何だ」
「別に」誠が笑った。「ただ、律ってちゃんと見てるんだなって思って。冷たそうに見えて、全然冷たくないじゃないかって」
「冷たい」
「冷たくない」誠が断言した。「冷たい人間は他人をそんなに見ない」
律は誠を見た。
誠はいつもこうだ。律のどんな言葉も跳ね返さず、すり抜けて、核心に触れてくる。防ぎようがない。
「お前は」律は言った。「人の本質を見抜くのが得意だな」
「そう?」
「能力と関係があるのかもしれない。無効化師。あらゆるものを打ち消す。お前自身も、相手の鎧を打ち消して中を見る」
誠が少し黙った。「そういう考え方、したことなかった」
「ただの推測だ」
「でも面白い推測だと思う」誠が律を見た。「律って、たまにそういうこと言うよな」
「そういうこと」
「なんていうか——冷たいと思ってたら急に温かいやつ」
律は返す言葉がなかった。
雨が少し強くなった。
昼頃、このはが律の近くに来た。
隣には座らなかった。律から少し離れた位置に立って、雨を見ていた。
しばらく沈黙が続いた。
「ねえ」このはが言った。
「何だ」
「雨って嫌いじゃない?」
律は少し考えた。「嫌いではない」
「なんで」
「音がうるさくないから。静かに考えられる」
このはが少し間を置いた。「私は嫌い」
「理由は」
「視界が悪くなる。どこに何がいるかわからなくなる」
律はこのはを見た。このはは律を見なかった。雨を見たままだった。
「臆病なのか」律は言った。
このはが律を見た。
「は?」
「視界が悪いと不安になる。それは臆病とは言わない、正常な警戒心だ。ただお前の場合、正常な範囲より反応が強い気がする」
このはの目が細くなった。「何が言いたいの」
「別に」律は前を向いた。「ただ観察した」
「余計なお世話」
「そうだな」
沈黙が戻った。
しばらくして、このはが小さな声で言った。
「守れなかった時、視界が悪かった」
律は動かなかった。
「暗くて、雨が降ってて、どこにいるかわからなくて」このはの声が低くなった。「だから嫌い。雨が」
律は何も言わなかった。
何か言うべき言葉を探したが、見つからなかった。見つかったとしても、言葉にする意味がない気がした。
律はただ、このはの隣に座った。
少し近づいた。このはが避けなかった。
雨を、二人で見た。
それだけだった。
玲司は建物の奥の一角に一人でいた。
壁に文字を書いていた。この世界で見た情報を整理しているようだった。律が近づくと、玲司は手を止めなかった。
「見ていいのか」律は言った。
「構わない」
律は壁を見た。
廃国の地図だった。昨日一日で収集した情報をもとに描かれた地図は、律が想定していたより精度が高かった。集落の位置、魔物が出現した場所、廃国の主要な構造物の配置。
「一日でこれだけ集めたのか」
「千里眼は便利だ」玲司が言った。「動かなくても情報が来る」
「疲れないのか」
「情報を集めることは疲れない」玲司が律を見た。「解釈することは疲れる」
「解釈」
「集めた情報が何を意味するか考えること。それが一番消耗する」玲司が壁に視線を戻した。「神崎、お前も同じじゃないか」
律は答えなかった。
否定できなかった。
「一つ聞く」律は言った。「お前は何のためにここにいる」
「生き残るため」
「それだけか」
「それだけだ」玲司が律を見た。「お前は違うのか」
律は少し考えた。
「今はそれだけだ」
「今は、か」玲司が笑った。「面白い言い方だな」
「お前こそ、さっき同じ言い方をした。今のところは裏切らないと言った」
「そうだな」玲司が認めた。「俺たちは似てる」
「似ていない」律は言った。「目的が違う」
「今のところはな」
律は玲司を見た。
この男は何かを知っている。全部は話さない。でも嘘もつかない。一番扱いにくい種類の人間だった。
「玲司」律は言った。「お前が石板で見た数字、四十だったな」
玲司が動きを止めた。一瞬だけ。それから元に戻った。
「千里眼は万能じゃない」玲司が言った。「見えないものもある」
「答えになっていない」
「意図的に答えていない」玲司が律を見た。「神崎、情報には順番がある。今お前に渡す情報じゃない」
律は玲司を見た。
「いつ渡す」
「お前が正しい問いを立てた時だ」
律は答えなかった。
正しい問い。まだ律には、何を問うべきかがわかっていなかった。
夜、雨が止んだ。
火を焚いて、クラスメイトが集まった。大河が状況を簡単にまとめた。エレナという廃国の住民と接触したこと。帰還の祭壇に関する情報があること。明日以降、もう少し廃国の探索を進めること。
クラスメイトたちが聞いていた。不安の顔、納得の顔、疑問の顔。いろいろあった。
律は輪の外から見ていた。
誠が輪の中に入って、怖がっているクラスメイトの隣に座っていた。言葉ではなく、ただ傍にいることで安心させていた。
大河が一人ひとりの顔を見ながら話していた。全員に届けようとする話し方だった。
このはが輪の端で腕を組んで、でも輪の中には入っていた。昨日は外にいた。
玲司は相変わらず輪の外にいた。律と同じ場所から、別の目で全員を見ていた。
律は玲司を一秒見た。玲司が律を見た。何も言わなかった。
律は視線を火に戻した。
四十人のうち、まだ十七人が合流できていない。明日以降、探す必要がある。廃国の構造はまだほとんど把握できていない。エレナから得られる情報がある。玲司が持っている情報がある。魔物の穏健派と強硬派の存在がある。帰還の祭壇の謎がある。
やることが多すぎた。
ただ——
律は火を見ながら、今日一日を振り返った。
大河が盾になると言った。誠が律を正確に見ていた。このはが雨の話をした。玲司が解釈に疲れると言った。
それぞれが、それぞれの形でここにいた。
計算ではなく、律はそれを——悪くないと思った。
思ってから、少し驚いた。
悪くない。
律の語彙の中で、それは最大級の肯定だった。
第五話 了




