神に供える、最後の味
朝、店に入った瞬間、千代は分かった。
「……今日、ですね」
理由は分からない。
けれど、身体の奥が静かに張り詰めていた。
「そうだ」
お稲荷様は、いつもより言葉が少なかった。
「今日、お主は一つだけ、おはぎを作る」
「一つ……?」
「売るためではない」
「……供えるため?」
「違う」
お稲荷様は、首を振る。
「神に見せるためだ」
厨房の音が、やけに大きく聞こえる。
釜に火を入れ、小豆を入れ、米を洗う。
千代は、途中で一切、迷わなかった。
甘さを決めるときも。
米を寄せるときも。
形を整えるときも。
「……不思議」
「迷いがないな」
「怖くないんです」
千代は、はっきり言った。
「売れなくても、怒られても」
手の中のおはぎは、素朴で、静かだった。
「これが、今日の味です」
「うむ」
お稲荷様は、それ以上言わなかった。
昼、店は開けなかった。
暖簾は、出さない。
「……いいんですか」
「今日は、商売の日ではない」
夕暮れ前、千代は小さな包みを持って、神社へ向かう。
石段を上る足取りは、軽かった。
拝殿の前に立ち、包みを開く。
「……説明は、しません」
そう呟いて、おはぎを供える。
風が、境内を一周した。
「これが、お主の答えだな」
「はい」
千代は、深く頷いた。
「続けたいです」
「どうしてだ」
「……この味を、今日の私が、ちゃんと作れたから」
沈黙。
やがて、お稲荷様が、ふっと息を吐いた。
「それで、十分だ」
その瞬間、境内の空気が、わずかに緩んだ。
「お主は、もう教えることが少ない」
「……え」
「わしは、指導役だ。
弟子が立てば、離れる」
胸が、少し痛んだ。
「……もう、来ないんですか」
「必要な時は、来る」
「……それって」
「神だぞ」
少しだけ、笑った。
夜、店に戻ると、電話が鳴った。
商店街の代表からだった。
「千代乃屋さん、再開発の件だが……
残ってもらいたい」
千代は、深く息を吸う。
「……はい」
電話を切った後、しばらく動けなかった。
「おめでとう」
お稲荷様が言う。
「……ありがとうございます」
「感謝はいらん」
「……じゃあ」
「続けろ」
それだけだった。
閉店後、千代は、今日作った最後の一つを思い出す。
神に供えた、最後の味。
けれど。
「……最後じゃない」
明日も、作る。
明後日も。
売れる日も、売れない日も。
「そうだ」
お稲荷様は、暖簾に手をかけた。
「神に供えたのは、終わりではない」
風が、すっと抜ける。
「始まりだ」




