5「〇」
「そうたー。遅刻するわよ~。」
朝一番に聞こえてきたのは、母さんの声だった。
いつもは時間のかかる朝の朦朧とした時間からの覚醒は、今日に限って瞬間的だった。
「はっ⁉」
ベットから飛び起き、周りを見渡す。昨日までの景色とは決定的に違う。
「俺の部屋だ。」
反射的に右を向く。もちろんそこにはベットはなく、少し黄ばんだ壁がこちらを見つめているだけ。
ほかにも異変は多々ある。入院着ではなく微妙にダサいパジャマを着ているし、左腕は素肌が見えている。昨日までの左腕の痛みはなく、その代わりに、肘にばんそうこうが貼ってある。
いつも通りの景色のはずなのになぜか寂しい。
携帯を確認してみる。
6月1日 7時20分
「夢だったのか。」
あまりその事実を疑わなかった自分がいた。
よく考えてみればわかることだった。あんな美少女はこの世にはいないし、いたとしても俺になんて振り向いてもくれない。それだけでなく、あんなハチャメチャで狂った出来事も俺の人生では一生起きないだろう。
目じりが熱くなる。しかし、
「涙も出ねえのか。俺は。」
涙は出ない。
確かにいろいろ悲しいことはある。もう、千都に会えないのも悲しい。正直今日を楽しみにしていた。こんな感情は久しく感じていなかった。毎日やってくる退屈な毎日に光が差したと思った。
それが嘘だった。ただの幻想だった。それなのに、
「それなのに、なんでこんなにも感情が動かない。」
俺はこんなにも冷めたやつになってしまっていたのか。
「何考えてんだ俺。遅刻しちまう。学校行くぞ学校。」
ふと自分を客観的に見てみれば、馬鹿らしくなってきた。夢のことで一喜一憂するなんて、どこのお姫様だよ。
いつも通り朝の支度をして、家を出た。
「やっぱボコボコじゃねえか。」
自転車が直っていた謎が解けた。やっぱり直ってなんていなかった。走り出すと変な音がしたが、まあ気にしない。
「にしても、リアルな夢だったな。」
夢のくせに腕は超痛かったし、時間も現実と変わらないように感じた。
「ああもう!忘れろ。」
気が付けば、あの夢のことを考えてしまう。このままではだめだ。現実が吞まれてしまう。
当たり前のように、何事もなく学校についた。
少し先に巡流がいた。
「すぐ……」
声をかけようとして、やめた。理由は自分でもわからない。
そのまま一人で教室に向かった。
今日は、昼休みまで誰とも話さなかった。授業も集中できなかったし、飯も食う気になれないので机に突っ伏している。
「おーい。そうたー。大丈夫か?」
「頭でも打ったんでしょ。ほっておいたら治るわよ。」
千堂里琴。巡流の幼馴染の女子だ。自分の気持ちに素直になれない、いわゆるツンデレというやつだ。里琴が巡流のことが好きなのはクラス全員周知の事実であるが、本人はまだばれていないと思っている。基本みんなに対して不愛想だが、俺には一層冷たい気がする。気のせいだよな。
「元気出せー。おりゃ。」
三上桜子。ふわふわした口調や仕草から、ひそかにクラスの男子から支持を得ている不思議ちゃんだ。いまだに桜子が何を考えているのかはクラスの誰もわかっていない。他人に遠慮がなく、誰とでも仲良くできるが、誰とも深く仲良くはない。だが、なぜか俺たちと行動を共にしている。
「ぐはっ。」
今はそんな気分ではないので、無視をしようと思ったが、桜子が横腹を殴ってきた。
「なにすんだ桜子てめえ!」
「なんだぁ。宗たん、元気じゃん。」
椅子から立ち上がって、桜子に向かって吠える。それを見て、笑顔で肩をたたいてくる桜子。
「それでどうしたんだ?朝からそんな様子で、何かあったんだろ?」
「なんもねえよ。ただちょっと変な夢を見ただけだ。」
巡流が心配してくる。こいつは誰かと違って、本当にいい奴だ。心配をかけて申し訳なくなってきた。朝から気を使わせてしまっていただろう。後でジュースでもおごってやろう。
「変な夢?やっぱり頭でも打ったんでしょ。」
「どんな夢だったんだ?」
「あー。えーっと。」
ためらう理由はないはずなのに、なぜか言葉に詰まる。あの不思議な夢の話を共有したい気もするし、話したくない俺も確かにいる。
「なんだよ。言ってくれてもいいじゃないか。別に減るもんじゃないんだし。」
それもそうか。まだ胸の中に突っかかるものはあるが、そう思うことにした。
そして俺は三人に昨日見た夢を詳細に話した。女子人からの若干軽蔑された目が痛かったが、事細かに最後まで話した。
「あなたのそれもここまで来たら限界ね。」
「夢ってそんなに覚えてるものなのか?昨日見た夢も覚えてないぞ。」
皮肉ってくる里琴と、いつも通りの巡流。そこで、いつも騒がしい桜子が黙りこくっていることに俺含む他の三人が気づいた。
「おい、なんで泣いてんだ?」
桜子の瞳には涙が浮かんでいた。いくら変わりっこの桜子でもさすがに訳が分からない。ほかの二人も動揺している。
「だっで、がなじぐでぇ~。」
鼻水でズビズビになっている。里琴からハンカチをもらって涙を拭いているが、止まらない。
「かなしいって何が。」
「だって、一生その子とは会えないかもしれないんだよ?せっかく仲良くなったのに。」
胸を突くような衝撃が走る。
そんなこと考えてもいなかった。毎日同じ夢を、それに前の夢の続きを見られるなんてこと、今まで体験したことがない。夢というのは刹那的なもので、その上自分のコントロール下にないものだ。
そうか。もう会えないのか。
そこから、4人で話したことは何も覚えていない。外面は平然を装えていたと思うが、内心は乱れに乱れていた。三人にはおそらく気づかれていない。多分、いつも通りのたわいもなく、しょうもない話をしていたのだろう。そしてそのまま部活のある、里琴と巡流と別れて帰った。
家に着いても何をする気にもなれなかった。汗だくの制服のまま椅子に座り、天井を見つめているだけ。自室にいる時はほとんどベットの上で過ごしており、椅子に座ることなんてめったにない俺だが、今日はベットに寝転がる気にはなれなかった。
「あれ?」
とんでもないことに気づいた。まずい。まずい。それだけはだめだ。それだけはだめだ。
なぜだ。なぜ、
「顔が思い出せない。」
記憶が薄れている。髪色は?服装は?身長は?……名前は?
「くそ!思い出せ!思い出せ俺!」
頭をたたいてどうにか思い出そうとする。それでも出てこない。机にたたきつけても、出てくるのは鈍い音と、でこの腫れだけ。
「そうだ!」
俺はカバンから乱暴にノートを取り出した。そして右手でシャーペンを握って、ノートに向き合う。授業のメモが書かれているノートだ。だがそんなの気にしない。何も書いていない中途半端なページを開き、そして人間の輪郭をそこに描いた。
幼稚園生が描いたような絵だ。絵なんて最後に描いた日すら覚えていない。しかし、頭の中だけで思い出そうとしても無理だと思ったので、視覚からあの少女の姿を思い出そうとした。
しかし、
「無理だ。」
強く握っていたシャーペンが手から零れ落ちた。
人間のとは思えない、きれいな円の輪郭。その先が何も描けない。
「お前はどんな目をしていた?どんな鼻をしていた?口は?耳は?髪は?」
描いた円に問いかけても、もちろん答えてくれるはずもなく。沈黙の中に聞こえてくるのは、机の上に置いてある時計の秒針が進む音だけ。
「そうたー。お風呂入りなさーい。」
「……」
リビングから、母さんが俺を呼ぶ声が聞こえた。が、答える気になれない。
しかし、ご飯は食べないといけないし、お風呂にも入らないといけない。
世界は俺の気持ちなんて気にせず、進んでいく。どんな気分でも時間になったら学校や仕事に行かないといけない。自分の気分で動く人は、社会不適合者というレッテルを貼られ、丸い世界の端に追いやられていく。そんな世界が俺は嫌いだ。
しかし、それでもそれに従って生きてきた。それに不満を言っても世界は変わらないからだ。まだ16歳だが、世界はそんなに優しくないと、とっくに気づいている。誰もその事実を教えてくれないが、生きていると分かってくる。
ただ今は、今だけはその世界の摂理に従いたくなかった。
——————————————それから三日間、俺は学校に行かなかった。




