2「夢に見たヒロイン」
部屋のドアを開く音が聞こえた。
「早太、もう7時半よ。あんなに楽しみにしていた入学式に遅刻しちゃうなんて、困ったさんね早太は。」
「入学式って何を言ってんだよ。もうすっかり俺は高校生だっつーの。」
「そんなこといって。遅刻して赤っ恥をかいても知らないわよ。」
悲報。母さんがおかしくなってしまった。朝から和手て俺の部屋に入ってきて支離滅裂な言動をして出て行ってしまった。無視して寝ようと思ったが、目が覚めてしまった。そろそろ起きるか。そう思ってスマホを見た。
4月1日 7:37
「はぁ⁉」
寝起きで目がまだ開ききっていないから見間違えたのだろう。
4月1日 7:37
目をこすってみたが変わらなかった。
何が起こっているんだ?腕をつねったら痛かったが、肘の傷は無くなっている。
「どうゆうことだ?昨日は5月30日だったので、今日が4月なわけはない。」
待て待て待て。4月1日は入学式の日だ。入学式はたしか8時半からだったので、本当に今日が入学式だとすれば、遅刻する。早く着替えないと。
悲報。俺はおかしくなってしまったのか?
これは夢なのか?それとも昨日までが夢でこれが現実なのか?
疑問は無数に出てくるが、すべて確かめるすべがない。母親に聞いてみたが、「何言ってんだ?」という顔で見られた。やっぱり俺がおかしくなってんのか?
支度を爆速で終わらせて、ドアを勢いよく開ける。
「いってきます!」
「いってらっしゃーい」
大声で言ったら、母さんもリビングから大声で返してきた。
今日は天気がすこぶるいい。雲1つ無い青空だ。このままずっと眺めていたいが、今そんな暇はない。なぜか曲がっておらず、きれいな形を保っている自転車のかごにカバンを入れ自転車をこぎ始める。
状況を整理しよう。と言ってもまったく情報がないので全く分からない。
わかっていることは、まず今日が4月1日だということ。おれは昨日まで確実に学校に行っていたはずなので、これが最も不可解だ。夢だとすれば、変な夢だ。
もしこれが夢だとすれば、なせ俺に記憶があるし意識もあるのだろうか。今までにも寝ているときに夢を見たことは何度もあるけど、こんなにも自分の意識があるのは初めてだ。今まで見てきた夢は意識がない以前に、勝手に始まって勝手に終わっていた。夢とはそういうものだ。自分の意思が介在するものではない。
考えれば考えるだけ、意味が分からない。
まあ考えるだけ無駄か。割り切ってこの世界で生きていくか。どうせあんまり変わらないだろうしな。
「って、こんなのんきにしてる暇なんてないんだった。まじで遅刻しちまう。」
急ごうとし、ペダルを漕ぐスピードを上げた瞬間。
「あ。」
ガシャン。
道の段差にタイヤが引っ掛かって盛大に自転車ごと倒れてしまった。
「痛ってぇ。」
しかも昨日よりも派手にこけてしまった。足が痛んでしばらく立てない。絶妙にダサい自転車は傷だらけになってしまった。
「ついてねぇ最近。昨日こけたばっかだぞ。遅刻確定だな。」
この足じゃ自転車は漕げないし、歩いて行って間に合う距離ではない。もうあきらめてゆっくり行こう。そう思って立ち上がろうとしたが、思ったよりも足が痛くてしりもちをついてしまう。
「大丈夫?」
「へ?」
素っ頓狂な声が出た。
急に声をかけられたからではない。
醜態を見られて恥ずかしくなったからではない。
絶世の美女がそこにいたからだ。
ただそこにいただけじゃない。長い絹のような髪を耳にかけながら、前かがみで俺をのぞき込んでいたのだ。
この子のとてつもなく美しい容姿を説明しようとしたら、新品の鉛筆を使い切ってしまうだろう。
下から見上げてもわかるほどのスタイルの良さ。
すこしウェーブのかかったふんわりとした黒髪。
男にとってはちょうどいいベストな胸のサイズ。
きれいな湾曲を描いたきっぱりとした二重の目。
俺と40センチくらい違う身長のかわいい体格。
かなり距離は離れているが漂ってくる甘い香り。
くるみのようなちいさい口に綺麗な三角形の鼻。
ちょっと開けすぎだと感じられる胸元のボタン。
膝裏まで上げた白い靴下に袖はいわゆる萌え袖。
言い出したらきりがないのでここまでにしておくが、本当にこの世の存在とは思えないほどの美少女だ。そんな美少女がこの俺に話しかけてきたのだ。
「だ、大丈夫だよ。このくらい。」
かっこ悪い姿を見せるのは嫌なので、作り笑いを浮かべて必死に虚勢を張る。本当は立てないほど足が痛いし、手の擦り傷もひりひりしている。
「嘘じゃん。だって……」
少女が言葉に詰まって、どうしたのかと思っていると、少女の手が伸びてきて。
「泣くほど痛かったの?私が見たのは君が転んだあとだったから、どんなこけ方をしたのかは見てないけど、相当大きな音が鳴ったわよ。」
少女の白くて細い手が俺の目じりをなぞってきたのだ。
意味が分からなかった。自分が泣いている理由が分からないという何とも陳腐な状況に陥っているのだ。確かに傷は痛いが、もちろん泣くほどではない。そもそも高校生にもなって涙を流すなど、そうとうなことがないとあり得ない。
しかし、目じりが熱いのは確かだ。それを目の前の美少女がぬぐってくれたのも事実だし、今は頭をなでられて、慰められている。
「大丈夫大丈夫。怪我はしてるけど、あんま痛くないし。ほらこの通り。」
さすがにこのまま道のど真ん中で、女子になでられ続けるのは恥ずかしい。
自分は平気だと見せるために、ひょいと立って見せた。足に体重がかかった瞬間、とんでもない痛みが襲ってきたが、無理やり笑顔でそれを隠す。
「でもさっき泣いてじゃん。」
「目に虫が入ったんだよ。お前もその制服、曇天高校の新入生だろ?早くいかないと遅刻しちまうぞ。」
さすがに俺にかまっていて、遅刻させてしまうのは申し訳なさすぎる。それに、2人きりの状況がなんだか、気まずくて居づらかった。
「……そうね。君も気をつけなね。」
少女は、納得して振り返って学校の方向に向かって行ってしまった。
正直、入学式の朝に同じ高校の美少女と出会うというシチュエーションは俺の望んだものだった。当然気分は浮かれているし、今にも飛び跳ねて喜びたいくらいだ。
しかし、少女と離れた瞬間、自分の大好きだったアニメが終わってしまったときのような感情になった。このまま一生あの子と関わることなく過ごしていくのだろうか。自分で先に行くよう言ったのに何を言っているのだろう。それでも、せっかく見えた希望の光が消え、この前までのような学校生活を送るようになると考えると、いてもたってもいられなくなった。
まだあの少女の姿は見える。追いかけても追いつかないだろうが、まだ声は届く。
「新井宗太だ!!お前の名前は?」
今までに出したことのないくらいの声量で叫んだ。
いきなり大声を出したので、肺が痛くなる。
頭にも血が上って、立ち眩みがしてきた。構わない。
ここで彼女の名前を聞かないと一生後悔する気がした。
彼女の耳には届いていないかもしれない。構わない。
ここで叫ばなければ、俺は後悔で自分の首を絞めていただろう。
彼女の様子をうかがう。振り向いてくれるだろうか。まず、俺の声は届いただろうか。彼女がこっちを見てくれるのを待つ。そのたった数秒が、今日までの人生のように長い。いまは、手足の痛みなんて全く気にならない。俺の目も体も、だんだん小さくなっていく少女の後ろ姿に釘付けだ。
声は返ってこない。それに、少女の歩みも止まらない。
曲がり角にさしかかる。もうすぐ少女の姿が完全に見えなくなってしまう。
期待してなかったといえば、大嘘になる。だが、よく考えればわかることだった。急に背後から大声で名前を聞いてくる異性なんて不審者にもほどがある。
さすがに高望み過ぎたか。
俺が生きているのは現実世界で、見ていたアニメの世界とは違う。
「何してんだろ俺。」
急に熱が冷めてきた。
これまでの人生でそんなこと気づいていたはずだろう。
「こんなことしてる場合じゃねえ。俺も急がないとな。」
少女から視線を外して、自転車を起こす。多分乗っては行けないだろうから、押して進む。
進行方向は同じなので、まだ少女の姿を見ることはできる。でも直視することが出来ない。地面に視線を落として、学校に向かう。
「遅刻確定か。学校に遅れるなんて、人生で初めてだ。しかも入学式に。」
自分に嘲笑を贈る。だが、なんだか悪い気はしなかった。その理由はまだわからない。
とぼとぼと通学路を歩く。どうせ遅刻するんだ。早くても、遅くても変わらないだろう。
こんな気持ちになったのは初めてだ。俺は自分のミスをこっぴどく嫌う性格だ。常に安全な択を選び、その安全のための行動も欠かさない。電車は常に2本前に乗るし、家を出るのもそうとう時間に余裕を持たせる。授業をさぼることは出来ないし、宿題も忘れたことがない。これはまじめだからではない。俺と、安全で平坦な人生との、切っても切り離せない関係のせいだ。
ゆっくりゆったり歩いていると、校門についた。桜が満開に咲いている。入学式と言えば、桜のイメージがあるが、実際入学式に、満開に咲いていることはほとんどない気がする。
晴天の青空に桜の桃色がよく映える。上を向いてみたら、そこには映画のワンシーンだと錯覚してしまう景色が広がっており、思わず立ち止まってしまった。
ただの校舎までの道が、桜の花道になっている。あの日、理想のシーンを思い浮かべながら、「それ」を待っていた木の下のことを思い出した。
後者に向かう一本道とはすこしそれたところにある一本の桜の木。なぜかわからないが、無性にもう一度そこに行ってみようと思った。
そこには例の少女が立っていた。
そこの桜は、今日見てきたどんな桜よりも美しく咲いていた。太い木の幹から大きく広がった枝に、これでもかというほど花が咲いている。その間からちょこっと見える茶色い枝さえも美しさの一端をきっちり担っている。
そんなきれいな桜さえ、今の俺の目にはただの背景としか映らなかった。
その理由は言うまでもないだろう。
目の前の少女は、さっきの俺と同じように上を向いて桜を見ていた。俺のその姿はおそらく滑稽だっただろうが、その少女の姿はまるで名画のようだった。
「あ。」
こちらが見とれていると、気づかれてしまった。
「また……会ったね。」
「あ、ああ。入学式はどうしたんだ?」
「もう始まってるんじゃない?」
なぜか視線が合わない。俺が目を見ていないのではない。少女がなんだかそわそわしている。
「その……君を待っていたんだよ。」
「……」
予想外な返答に言葉を詰まらせてしまった。俺を待ってた?なんでだろう。
「ねえ君。今からこの木、一緒に登ってみない?」
「……は?なんで?」
素っ頓狂な声が出た。この木ってこの桜の木のことだよな?周りにこれ以外、木は生えてないし。
「この学校にある木でこの木が一番高かったんだよ。だいたい8メートル弱ぐらいかな?君の身長なら、てっぺんに行ったらちょうど10メートルくらいだね。ダメかい?」
会話が成り立っていない。俺は登る理由を聞いたのだ。
なかなかいかれた奴に目をつけられてしまったのかもしれない。
もしこの木に登ったとして落ちたら大けがでは済まないだろうし、学校の先生に見つかったら処罰は免れないだろう。足もまだ痛いし。それに俺は。
「他をあたってくれ。」
そう言って振り返り入学式をやってる体育館の方に歩き出した。
俺は正しい答えを出した。俺は正しい答えを出したはずだ。
そうだろう?だって、入学早々停学処分とかになったら、親にも迷惑がかかる。俺自身も停学なんて嫌だし、怪我をするかもしれない。そもそも、あんなきれいな桜の木に足をかけて登るなんて俺の良心が痛む。
なのに。なのになんで俺は今後悔しているんだ。
この悔しさはなんだ。この胸のざわつきはなんだ。なんでこうも足が進まない。なんで。
いいのかこのまま入学式に向かって。
だめだ。いや、ダメではない。その判断は正しい。だって、先生にも怒られなし、親にも迷惑はかけない。おまけに怪我をする心配もないし、この足のケガが悪化する心配もない。
でも、それでは何も変わらない。おれの嫌ったあの日常と何も変わらない。何も特別なことはなく、ただ普通に生きて多分普通に死んでいく。
それを誰よりも忌み嫌っていたのはおまえじゃないのか新井宗太。
そう考えた瞬間、立ち止まって、すべての歯が砕けるほど歯を食いしばった。顎が痛い。でもまだ足りない。まだ、足は動いてくれない。
俺は全力で自分の頬を殴った。何度も何度も殴った。右腕では右頬しか殴ることが出来ないので、右頬だけがはれ上がっていく。
動け俺の足。動け俺の体。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
気が付けば、あの桜の木に向かって走っていた。どうなるかなんて知らない。木から落ちて死んでしまうかもしれない。でも、このまま生き続けるよりは全然ましだ。
あの子がどんな反応をしているかなんて見ている余裕はなかった。しかし、視界の端っこで少女の上がった口角が見えた気がした。




