第8話 台所に立つ俺を、恵子は何年ぶりに見たんだろう
第8話 台所に立つ俺を、恵子は何年ぶりに見たんだろう
小説投稿サイトに文章を打ち込んだ翌朝、俺はパソコンの画面を閉じた。窓の外から蝉の声が聞こえ、朝から強い日差しがカーテンの隙間を白く照らしている。退職した男が一日中家にいて、妻が家事をしている横でテレビを見たり、パソコンをいじったりしていたら、離婚したいと思っている妻にとっては、それだけでも息が詰まるのではないかと思った。
そう考えたら、じっと家にいるのが急に申し訳なくなった。俺は薄いグレーのTシャツと紺色のハーフパンツに着替え、財布をポケットへ入れて、玄関に置いてあった自転車を引っ張り出した。タイヤに空気が少し足りない気がしたので、空気入れを探していると、物置の隅から古い虫よけスプレーが出てきた。
「こんなの、いつ買ったんだ?」
俺は笑いながら腕に吹きつけ、自転車にまたがった。ペダルを踏むと、朝の熱い空気が顔に当たり、すぐに額へ汗がにじんだ。それでも、家の中にいるよりは気分がよかった。少なくとも、恵子が掃除機をかけている横で俺が何もせず新聞を読んでいる、という光景だけは避けられる。
向かったのは、近所の業務用スーパーだった。店内へ入った途端、冷房の冷たい風が汗ばんだ腕に当たり、背中がぞくっとした。野菜売り場には、大きなジャガイモがごろごろ並び、ニンジンは太く、玉ねぎも一個一個がずっしりしている。きゅうりを手に取ると、驚くほど太くて表面には小さな棘が残っていた。
「こんなでかいきゅうり、何に使うんだよ」
独り言を言いながらも、俺は三本カゴへ入れた。茄子も艶がよく、ネギは青い部分まで元気そうだった。大根を持ち上げると腕に重みが伝わり、俺は思わず「重っ」と声を出した。ニンニクとショウガ、もやし、みょうが、紫蘇、それからめかぶまで買ったところで、カゴがかなりいっぱいになった。
肉売り場の前で、俺はまた立ち止まった。そこで初めて、妻が肉と魚のどちらを好んで食べるのか、自分が知らないことに気づいた。牛肉は好きだったような気がするし、豚肉も生姜焼きにしていたから食べるはずだが、魚だってよく食卓に並んでいた。俺はしばらく考えた末、牛肉、豚肉、そして鰺の干物をカゴへ入れた。
「肉と魚、両方買っとけばいいか」
それで解決したつもりになったが、すぐに自分で苦笑した。恵子の好きなものを知らないから、全部買うしかないのだ。四十年近く一緒に暮らして、子どもたちの好き嫌いならすぐに答えられる。翔太はカレーが好きで、真奈美は魚より肉が好きだった。なのに恵子について聞かれたら、俺は「何でも食べるんじゃないか」としか答えられない。
会計を済ませ、自転車の前かごに買い物袋を入れると、前輪が少し沈んだ。太陽はすっかり高くなり、アスファルトから熱気が上がっている。家へ戻るころにはTシャツの背中が汗で張りつき、首筋を流れた汗が襟の中へ入り込んだ。俺は玄関で靴を脱ぐと、買ってきたものを台所へ運んだ。
「いっぱい買ってきたのね」
恵子が冷蔵庫の前で呆れたような顔をした。俺は袋からジャガイモやニンジンを出しながら、冷蔵庫の中を覗いたが、どこへ何を入れればいいのか分からない。野菜室を開けて、とりあえず入るものを詰めようとしたところで、恵子の視線が背中に刺さった。
「入れ方が違ったら、直してくれ」
「……分かったわ」
俺はそれだけ言って、野菜を一つずつ入れていった。きゅうり、茄子、ネギ、大根、もやし。買い物袋から取り出すたびに、恵子が「あ、それはそこ」「これは冷蔵庫ね」と教えてくれる。そのやり取りが妙に新鮮だった。俺は今まで、冷蔵庫の中に何が入っているのかさえ、ほとんど気にしていなかった。
買ったものを片付け終えると、俺は台所の流しを見た。ステンレスの流しには朝使った茶碗が一つ残っていて、水滴がところどころ乾いて白く跡になっている。俺は腕まくりをした。恵子がこちらを見ているのが分かったが、もう引き返す気にはならなかった。
「台所、借りるよ」
「何するの?」
「昼飯を作る」
「あなたが?」
「俺が」
言ったものの、何を作るのかは決めていなかった。暑い日に煮物を作るのは、台所に立つだけでもしんどいだろう。だったら、冷たくてさっぱりしたものがいい。俺は昨日買った大きなきゅうりと茄子を取り出し、まな板の上へ並べた。
包丁を握ると、きゅうりの青い匂いが鼻に上がってきた。茄子を薄く切り、きゅうりも同じように切る。みょうがを刻むと、独特の爽やかな香りが広がり、しょうがをすりおろすと鼻の奥がつんとした。俺は額の汗をTシャツの袖で拭ったが、拭いたそばからまた汗が流れ、鼻先から顎へ一滴落ちた。
「暑いな、これ」
「だから夏は台所に立つのが嫌なのよ」
恵子が言った。俺は手を止めた。今までなら「エアコンつければいいだろ」と答えていたかもしれない。しかし、火を使っているわけでもないのに、顔が汗だらけになる。包丁を握る手もじっとりしてくる。その状態で朝昼晩の食事を作るのだから、確かに楽な仕事ではない。
「……こんなに大変だったんだな」
俺は恵子のほうを向いた。
「ありがとう」
恵子は返事をしなかった。少しだけ顔を伏せ、エプロンの端を指でつまんでいる。耳がほんのり赤くなっているように見えたので、俺はそれ以上何も言わなかった。ずるいよな、と自分でも思った。今までちゃんと向き合わず、離婚届を出されてから「ありがとう」なんて言っているのだから。
俺は切った茄子ときゅうりを大きなボウルへ入れ、みょうが、しょうが、めかぶを加えた。そこへだし汁を入れて、塩と醤油で味を調える。最後に刻んだ紫蘇を散らすと、緑と紫が混ざって見た目にも涼しげだった。山形の「だし」に似たものになったが、本物を作ったことがない俺には、それで十分だった。
「これ、何?」
「俺にもよく分からん」
「分からないの?」
「山形のだしみたいなやつ」
恵子が小さく笑った。俺はボウルにラップをかけ、冷蔵庫へ入れた。味がなじむまで少し冷やしたほうがいいらしい。料理の本を見ながら作ったわけでもないので自信はなかったが、茄子ときゅうりの匂いにみょうがと紫蘇の香りが混ざり、冷蔵庫へ入れる前から少し食欲が出てきた。
炊飯器を開けると、ご飯はちゃんと炊いてあった。白い湯気がふわっと上がり、炊きたての米の甘い匂いが鼻に入った。俺はしゃもじで軽くほぐしてから、冷蔵庫を覗いた。買ってきた鰺の干物が目に入り、これを焼こうと思った。
「昼、まだ食べてないよな?」
「うん」
「一緒に食べよう」
恵子は少し驚いた顔をしたが、何も言わなかった。俺はグリルに鰺の干物を並べ、火をつけた。しばらくすると、魚の脂が焼ける香ばしい匂いが台所いっぱいに広がった。俺はその匂いに腹が鳴り、思わず腹を押さえた。
「腹減ったな」
「ふふっ」
「何だよ」
「あなた、昔から魚を焼く匂いがするとお腹を空かせてたでしょう」
俺は一瞬、返事ができなかった。恵子は覚えていた。俺が忘れていたことを、恵子は覚えている。そう思ったら、胸の奥が少しだけ詰まった。
味噌汁は豆腐とネギにした。だしの取り方なんて知らないから、顆粒のだしの素を鍋に入れる。湯気と一緒に味噌の香りが立ち上り、ネギの青い匂いが混ざった。俺は味見をしてから、少しだけ味噌を足した。
「よし、できた」
食卓には、ご飯、豆腐とネギの味噌汁、鰺の干物、そして冷蔵庫で冷やしておいた茄子ときゅうりのだしを並べた。冷たいだしからは、みょうがと紫蘇の香りがして、暑さで重かった口の中がすっとするようだった。俺は冷蔵庫からビールを二本出し、恵子の前にも一本置いた。
「飲む?」
「昼から?」
「退職したんだからいいだろ」
「そうね」
俺たちは缶を軽く合わせた。プシュッという音がして、冷たいビールの泡が少しだけ指についた。俺は箸を取り、ご飯を一口食べてから、冷たい茄子ときゅうりを口に入れた。みょうがの香りとしょうがの辛みが広がり、汗ばんだ体にちょうどよかった。
「うまいな、これ」
「うん」
「味、大丈夫か?」
「大丈夫。おいしいわよ」
その一言を聞いて、俺は鰺の身を箸でほぐした。骨を一本ずつ外しながら、昔の食卓を思い出す。俺はずっと、家族に飯を食わせてきたと思っていた。でも実際には、飯を作り、買い物をし、冷蔵庫を管理し、暑い台所に立ってきたのは恵子だった。
そのとき、恵子が味噌汁の椀を置き、こちらを見ないまま小さな声で言った。
「台所に立ってるあなたを見たのは、何年ぶりだろう?」
俺は箸を止めた。何年ぶりなのか、俺には分からなかった。十年なのか、二十年なのか、それとも結婚してからほとんどなかったのか。俺が「昔から俺も家事をしてきた」と思っていた家庭での自分と、恵子が見ていた俺は、まったく違う人間だったのかもしれない。
「……そんなに、立ってなかったか?」
やっとそれだけ言うと、恵子は答えず、鰺の身を箸で小さくほぐした。俺も何も言わなかった。冷たいだしの汁が舌に残り、味噌汁からは湯気が上がり、窓の外では蝉が鳴き続けている。そのいつもの夏の昼食の中で、俺は初めて、自分が思っていた「夫」と、恵子が見ていた「夫」が違っていたのだと気づき始めていた。




