第9話 妻の服を、俺は何も知らなかった
第9話 妻の服を、俺は何も知らなかった
翌朝、俺は昨日買ったばかりの白いTシャツに着替えた。ワークマンで買った氷激冷感というやつで、肌に触れた瞬間、ひやっとした感触が広がって、汗ばんだ背中まで少し楽になる。鏡を見ると、六十七歳の腹が少し出た男が、妙に若作りしているようにも見えたが、昨日まで着ていたくたびれたポロシャツよりは気分がいい。洗面所から戻ると、恵子も白いTシャツを着ていた。俺が選んだものと同じシリーズだったが、恵子は袖を何度か引っ張って、肩のあたりを気にしている。
「どうだ? 涼しいか?」
「うん。思ったより涼しいわね」
「だろ? 俺たち、なかなか似合ってるじゃないか」
そう言って笑うと、恵子も小さく笑った。昨日までなら、こんなことを言えば「何言ってるの」と呆れられて終わっていたかもしれないが、今日は少しだけ空気が違った。俺は台所の冷蔵庫を開け、昨日買った桃を一つ取り出した。冷気が腕に当たり、桃の甘い匂いが鼻に入る。まな板の上で包丁を入れると、柔らかな果肉から果汁がじわっと流れ、俺はそれを見て、なぜか嬉しくなった。
「桃、食べるか?」
「朝から?」
「朝だからいいんだろ。ほら、半分こだ」
「じゃあ、もらおうかな」
桃を二つに切って皿に並べると、恵子は小さくかじった。果汁が唇についたので、ティッシュを取って拭いている。その仕草を見ながら、俺はふと思った。俺は妻が桃を好きなのかどうかさえ知らなかった。四十年近く一緒に暮らしてきたのに、食卓に並んでいるものを「家族が食べるもの」としか考えてこなかったのだ。誰が何を好きで、何が苦手で、どんな服を着たいのか、そんなことを知ろうとしたことがなかった。
その日の昼前、俺は新聞を畳んで、玄関に置いてあったチラシを手に取った。すぐ近所に新しくワークマンができたらしく、大きく「オープン記念」と書かれている。昨日、二人で買い物へ行ったことを思い出すと、胸のあたりがむずむずした。たった一緒に洋服を買っただけなのに、何年もしていなかったことを一つ取り戻したような気がしたからだ。俺はチラシを持ったまま、台所で麦茶を作っている恵子に声をかけた。
「なあ、ちょっとだけ一緒に買い物に行かないか」
恵子は麦茶の入ったポットを冷蔵庫にしまいながら、こちらを見た。
「どこへ?」
「昨日のワークマン。近所だしさ。俺、もう一枚くらい欲しくなって」
「昨日買ったばかりじゃない」
「まあ、そうなんだけど……」
言い訳をしながら、俺は頭をかいた。退職したばかりで、妻に離婚届を突きつけられた男が、なぜTシャツを買いに誘っているのか、自分でもよく分からない。ただ、昨日一緒に店内を歩いた時間が、思った以上に心地よかった。仕事をしていた頃は、休日に買い物へ行っても、俺は車の中で待っていることが多かった。恵子が「ちょっと見てくる」と言えば、「早くしろよ」と言ってスマートフォンを眺めていた。今になって、その時間を自分から取り戻したいと思うのだから、人間というのは勝手なものだ。
「別にいいけど」
恵子がそう言ったので、俺は慌てて財布をポケットに入れた。玄関で靴を履きながら、昨日までなら「買い物なんて一人で行けばいいだろ」と言っていた自分を思い出した。外へ出ると、八月の太陽が照りつけて、アスファルトから熱気が上がっている。恵子は日傘を開き、俺はその横を歩いた。ほんの数分の道なのに、妙に背筋が伸びた。
店に入ると、冷房の風が汗ばんだ首筋に当たって気持ちよかった。作業着や靴が並んでいる奥に、普段着らしいTシャツもずらりと並んでいる。俺は白い氷激冷感のTシャツを手に取って、昨日と同じものを見つけると、思わず笑った。値札を見ると、思っていたよりずっと安い。これなら二枚買っても財布にそれほど響かない。
「これ、どうだ?」
「昨日と同じじゃない」
「色違いがあるぞ。黒もある」
「私は白でいいわ」
「じゃあ俺も白にする」
「なんで同じにするのよ」
「せっかく一緒に来たんだからいいだろ」
恵子は呆れたように笑ったが、口元が少し上がっていた。俺はその顔を見て、なんだか昔に戻ったような気がした。結局、綿百パーセントのTシャツも二枚ずつ買い、氷激冷感のものも二枚ずつ買った。レジへ向かう途中、キッズサイズの服が並んでいるのを見つけ、翔太たちが小さかった頃のことを思い出した。あの頃は家族四人分の服を買うだけで大荷物だったのに、今は俺と恵子の二人分だけで済む。そう考えると、店内に流れる冷房の音まで少し違って聞こえた。
帰り道、恵子が買い物袋を持って歩いていた。俺は手を伸ばしたが、恵子は「大丈夫」と言った。それでも俺は半分持つことにした。袋の中で新しいTシャツが擦れる音がして、洗いたての布のような匂いがした。何でもない買い物なのに、俺はその袋を妙に大事そうに持っていた。
「自分の洋服買ったの、何年ぶりだろう?」
恵子が何気なく言った。
俺は足を止めそうになった。昨日までなら、その言葉を聞いても「へえ」で終わっていたかもしれない。だが今は、その一言が胸の奥に引っかかった。自分の服を何年も買っていないということは、もしかしたら、恵子は自分のことを後回しにして暮らしてきたということなのだろうか。俺は自分の服については、会社へ着ていくもの、休日に着るもの、古くなったら買い替えるものと考えていたが、恵子の服については「いつもの服」としか見ていなかった。
「……何年くらい買ってなかったんだ?」
「覚えてないわ」
「そんなにか」
「だって、子どもたちの服を買うでしょう。それからあなたのシャツも買うでしょう。自分のものは、まだ着られるからいいかなって」
恵子は笑っていたが、その笑顔を俺はまともに見られなかった。家に帰ると、玄関の横には恵子の古いスニーカーが置かれていた。靴のかかとはすり減り、紐の先が少しほつれている。俺はそれを見て、今まで何度その靴の横を通り過ぎたのだろうと思った。俺の革靴は何足もあるのに、妻は古いスニーカーを履き続けていた。
「……俺、本当に何にも知らないな」
「何が?」
「いや、なんでもない」
そう答えたものの、なんでもないわけではなかった。俺は妻に離婚したい理由を聞くのが怖くて、金のことばかり考えていた。退職金がどうなる、年金分割はどうなる、家を売ることになるのか、老後の生活費は足りるのか。もちろん、それらは現実に考えなければならない問題だ。でも、その前に考えるべきことがある。俺は恵子が何を望んでいるのか、それを聞くことから逃げている。
夕方、冷蔵庫から昨日買ったシャインマスカットを取り出した。粒を一つ口に入れると、皮がぱりっと弾けて、甘い果汁が広がった。俺はもう一粒つまんで、向かいに座っている恵子の皿へ置いた。恵子はそれを見て、少しだけ首を傾げた。
「食べないのか?」
「食べるわよ」
「うまいな」
「うん。おいしい」
その「おいしい」が、俺には妙に嬉しかった。離婚届を突きつけられてから、俺は何度も過去を振り返っている。あのときこうしていれば、あの言葉を聞いていれば、もっと家事をしていればと考えてばかりだ。それでも、昨日の買い物も、今日の桃も、シャインマスカットも、俺が台所に立ったことも、全部まだ間に合うかもしれないという気持ちを少しだけ残してくれていた。
だから、つい調子に乗った。俺はテーブルの上の葡萄の皿を眺めながら、頭の中に浮かんだことを、そのまま口にしてしまった。今までなら「旅行は金がかかる」「そんな暇はない」と先に計算していたはずなのに、その日は先に言葉が出た。
「なあ……秋になったら、京都に行かないか?」
恵子の手が止まった。つまもうとしていたシャインマスカットが、皿の上でころりと転がる。俺は自分で言ってから、急に心臓が速くなった。京都は、結婚三十周年の頃に恵子が行きたいと言っていた場所だ。俺はそのとき、「子どもたちが大きくなってからな」と言ったきり、何年もその約束を放っていた。
「京都……?」
「ああ。昔、行きたいって言ってただろ」
「覚えてたの?」
「……今になって思い出した」
恵子は答えなかった。窓の外では蝉が鳴き、冷蔵庫のモーターが低く唸っている。テーブルの上には、まだ食べかけのシャインマスカットが残っていた。俺はその一粒を指で転がしながら、恵子の答えを待った。まだ返事はない。それでも、俺は初めて、離婚届の向こう側にいる妻ではなく、目の前にいる一人の女として恵子を見ようとしていた。




