第10話 ラジオ体操に行かないか
第10話 ラジオ体操に行かないか
京都の話をしてから数日、俺と恵子の間には、妙な空気が流れていた。離婚届はまだテーブルの引き出しに入ったままだが、恵子はそれを取り出そうとはしなかったし、俺も触れなかった。朝食のときには味噌汁をすすりながら天気の話をし、昼には冷蔵庫に入れておいた桃を二人で食べ、夕方になると「暑かったな」と言い合う。それだけのことなのに、以前なら一言も交わさずテレビを見ていた時間が、少しずつ変わってきているように感じていた。そんなある朝、俺は新聞をめくりながら、恵子が最近少し早起きしていることに気づいた。五時半を過ぎると洗濯機が回り、六時前には台所から水の音がする。俺はそれを聞きながら、何か理由があるのだろうと思った。
その日は朝から雲が少なく、窓を開けると蝉の声が一気に家の中へ飛び込んできた。俺は昨日買った白い氷激冷感のTシャツと短パンを着て、冷蔵庫から麦茶を取り出した。コップに注ぐと氷がカランと鳴り、喉を通る冷たさが気持ちいい。退職してからというもの、起きる時間も寝る時間も決めていなかったが、体を動かさないせいか、朝から肩や腰が妙に重い。新聞を畳んだ俺は、向かいでトーストをかじっている恵子を見て、ふと思いついた。
「なあ、明日の朝、ラジオ体操に行かないか?」
恵子はトーストを持ったまま、目を丸くした。
「ラジオ体操?」
「ああ。近所の大きな公園で、毎朝六時半にやってるらしいぞ」
「誰から聞いたの?」
「散歩してる近所のおじさん。昨日、ゴミを出したときに教えてくれた」
恵子はしばらく黙っていた。バターを塗ったトーストの端から、焼けたパンくずがテーブルに落ちている。恵子はそれを指先で集め、皿の端に寄せた。その何気ない動きを見ながら、俺は返事を急かさないようにした。昔の俺なら「どうせ暇なんだから行こう」と決めてしまっただろうが、今は違う。恵子が行きたいかどうかを聞くことくらいはできる。
「……いいわよ」
「本当か?」
「うん。久しぶりに行ってみようかな」
翌朝、俺は五時四十五分に目を覚ました。いつもなら二度寝するところだが、今日は違った。顔を洗って、歯を磨き、白いTシャツと紺色のジャージを着ると、鏡の前で髪を手で押さえた。寝癖が一本だけ立っていて、何度撫でても戻ってくるので、最後は諦めた。台所へ行くと、恵子はもう起きていて、冷たい麦茶を二つの水筒に入れていた。
「早いな」
「あなたこそ」
「俺はラジオ体操に行くからな」
「誘ったの、あなたでしょう」
恵子が笑ったので、俺も笑った。玄関を出ると、朝の空気は昼間よりずっと涼しかった。アスファルトにはまだ夜の湿気が残り、植え込みからは土と草の匂いがする。蝉はすでに鳴いていたが、昼間ほど耳をふさぎたくなる音ではない。俺は歩きながら、恵子の歩幅に合わせた。昔なら先に歩いていただろうが、今日は隣を歩いた。
公園が近づくにつれて、人の姿が増えていった。犬を連れた人、ジョギングをする若い男性、杖をついたおばあさん、それから眠そうな顔をした子どもたちまでいる。広い芝生の前にはラジオを置いた台があり、近所の人たちが次々に集まっていた。俺は最初、せいぜい三十人くらいだろうと思っていたが、見渡してみると、とてもそんな人数ではない。子どもも大人も年寄りも、どんどん増えていく。気づけば二百人くらいいるように見えた。
「すごい人数だな」
「昔からよ」
「昔から?」
「子どもたちが小さい頃、毎朝ここに来てたの」
俺は思わず恵子の顔を見た。恵子は前を向いたまま、芝生の向こうを見ていた。小学生くらいの子どもが母親の手を引いて走っている。少し離れた場所では、ランドセルを背負った男の子が友達とふざけていた。その光景を見ているうちに、俺の頭の中にも小さかった翔太と真奈美の姿が浮かんできた。俺はその頃、朝早く出勤するために家を出ていたから、二人がどんな朝を過ごしていたのか知らない。
「毎日来てたのか?」
「うん。夏休みなんか、ほとんど毎日」
「俺、知らなかった」
「あなたは会社だったもの」
恵子は責めるようには言わなかった。ただ、事実を言っただけだった。それがかえって俺の胸に引っかかった。俺は家族のために働いていたつもりだったが、その家族が毎朝どこで何をしていたのか、ほとんど知らない。公園の端にあるベンチには、昔の町内会の掲示板が立っていて、色褪せた紙の端が風でぱたぱた揺れていた。俺はそれを見ながら、四十年近く同じ町に住んでいるのに、こんな場所のことさえ知らなかった自分に気づいた。
やがてラジオから音楽が流れ始めた。おなじみの声が聞こえると、周囲の人たちが一斉に腕を上げた。俺も慌てて両腕を上げたが、肩が思ったより上がらない。隣を見ると、恵子は慣れた動きで腕を回している。俺は見よう見まねで体を横に曲げたが、腰のあたりが「ピキッ」と鳴ったような気がした。
「痛っ」
「大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫。ちょっと体が錆びてるだけだ」
「無理しないでよ」
「ラジオ体操で無理する六十七歳って、どうなんだよ」
恵子が吹き出した。俺も笑った。体を動かしているうちに、額に汗がにじんできた。朝の風が汗を含んだ首筋を撫でると、思った以上に気持ちがよかった。最後の深呼吸を終えると、周囲から小さな拍手が起こった。たった十分ほどの体操なのに、家でテレビを見ているよりずっと体が軽くなっていた。
体操が終わると、恵子のところへ一人の女性が近づいてきた。五十代くらいだろうか。薄いピンクのスポーツウェアを着て、首にはタオルを巻いている。俺は水筒の蓋を開けながら、その女性と恵子が昔から知り合いらしいことに気づいた。二人は少し立ち話をしていたが、女性が俺のほうを見て笑った。
「旦那さん?」
「そう」
「まあ、珍しい。今まで見たことなかったわ」
恵子は少し困ったように笑った。俺は頭を下げた。
「最近、定年しまして」
「あら、それならちょうどいいじゃない。スポーツジム、一緒に行かない?」
女性は楽しそうに言った。恵子は一瞬、視線を下げた。俺はその表情を見逃さなかった。女性は近所のレディーススポーツジムの話を始め、ヨガや水中歩行、ストレッチの教室まであると説明してくれた。月会費は六千円だという。俺なら「六千円くらいならいいじゃないか」と言ってしまいそうだったが、恵子は黙って水筒の蓋を閉めていた。
「昔、誘われたのよ」
恵子がぽつりと言った。
「ここで知り合った人に、何度か」
「そうだったのか」
「でも、月六千円でしょう。子どもたちにもお金がかかったし、あなたの会社の付き合いもあったし……。自分のために毎月六千円って、なんとなく使えなくて」
恵子は笑ったが、目は公園の端に向いていた。俺は何も言えなかった。月六千円なら、俺は会社帰りに飲んだビールや昼飯で簡単に使っていた。退職前には付き合いでゴルフにも行ったし、会社の同僚との飲み会にも参加した。恵子が六千円を惜しんでいた頃、俺は自分の楽しみにいくら使っていたのだろうと思うと、喉の奥が詰まるようだった。
「……行きたかったのか?」
「うん」
「じゃあ、今から行けばいいじゃないか」
恵子は俺を見た。何か言おうとしたが、すぐには言葉が出てこなかった。俺は慌てて続けた。
「月六千円だろ。俺が出すって言ってるんじゃない。恵子が自分のお金で払ってもいいし、家計から出したっていい。今まで我慢した分まで、全部取り戻せとは言わないけどさ」
「……あなた、本当に変わったわね」
「そうか?」
「少なくとも、昔のあなたなら『六千円も払って何するんだ』って言ったと思う」
俺は頭を掻いた。確かに言っていたと思う。いや、たぶん言っていた。俺は恵子のためにお金を稼いでいるつもりだったのに、そのお金を恵子自身が使おうとすると、もったいないと思っていた。今考えると、それは家族のお金を守っていたというより、家族の中で俺だけが使い道を決めていたということなのかもしれない。
帰り道、俺たちは公園の売店で冷たい牛乳を買った。恵子は小さな紙パックを両手で持ち、俺は腰に手を当てて一気に飲んだ。朝の運動の後だったので、牛乳の甘さが妙にうまかった。公園の木陰では、さっきの子どもたちがまだ走り回っていて、遠くから母親の「そろそろ帰るわよ」という声が聞こえている。俺はその声を聞きながら、翔太と真奈美が小さかった頃、恵子もここで同じように子どもたちを呼んでいたのだろうと思った。
「恵子」
「なに?」
「明日も来るか?」
「ラジオ体操?」
「ああ」
「どうして?」
俺は少し考えた。健康のためだと言えば簡単だが、それだけではない。公園に来れば、恵子がどんな時間を過ごしてきたのか、少しずつ知ることができる気がした。今まで俺が知らなかった妻の人生を、全部聞き出すのではなく、一緒に歩きながら少しずつ見つけていきたい。
「……俺、恵子がここで見てきたものを、もう少し知りたいんだ」
恵子はすぐには答えなかった。それでも、歩く速度を少しだけ落として、俺の隣に並んだ。朝の公園から戻る道には、濡れた土の匂いと蝉の声が残っていた。俺はその横顔を見ながら、離婚届を取り消してくれとはまだ言えなかったが、せめて今日みたいな朝を、もう一度一緒に過ごしたいと思った。




