第11話 逆プロポーズされた妻から離婚届を差し出されるなんて思っていなかった――俺の人生最大の誤算
第11話 逆プロポーズされた妻から離婚届を差し出されるなんて思っていなかった――俺の人生最大の誤算
ラジオ体操から帰った朝、俺は冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出し、コップに二杯注いだ。氷を入れると、カランという音が静かな台所に響き、汗ばんだ首筋を朝の風が撫でていった。俺は白い氷激冷感のTシャツの裾で額を拭いながら、向かいで牛乳を飲んでいる恵子を見た。昨日までなら、こんなふうに妻と朝から並んで飲み物を飲むことさえ、特別なことだとは思わなかっただろう。けれど今は、同じテーブルに座っていることそのものが、妙にありがたく感じられた。
「明日も行くか?」
「ラジオ体操?」
「そう。俺、あれ結構いいと思うんだ。肩も少し軽くなった」
「昨日まで運動なんてしなかったのに」
「退職したんだから、これからは健康にも気をつけないとな」
恵子は笑って、コップの縁を指でなぞった。その仕草を見ながら、俺は何となく胸の奥を探った。ラジオ体操、買い物、料理、京都の話。ここ数日、俺は恵子と今までしてこなかったことを少しずつ始めている。けれど、それで離婚届を出そうとしていた恵子の気持ちが変わったのかどうかは、まだ何も分からない。俺はそれが気になっていたが、聞くのが怖くて、冷たい麦茶を一口飲んだ。
昼前、俺は居間のテーブルで退職金の資料を広げていた。ファイナンシャルプランナーの真壁さんに作ってもらった老後資金の表には、夫婦二人で暮らすことを前提にした数字が並んでいる。家の修繕費、食費、医療費、個人年金、預金残高、そして年金分割をした場合の試算まで書き込まれている。紙の端には俺が鉛筆で何度も計算した跡があり、消しゴムのカスが小さな山になっていた。数字を眺めているうちに、俺はふと、ここに書かれている「夫婦二人」という文字が、以前とは違う意味を持っていることに気づいた。
「これ、どうするんだろうな」
俺が独り言のように呟くと、台所から恵子の声が返ってきた。
「何が?」
「老後の生活設計。真壁さんに作ってもらったやつ」
「まだ気にしてるの?」
「ああ。だって、俺の人生設計、全部二人で暮らす前提なんだぞ」
恵子は台所から出てきて、テーブルの向かいに座った。エプロンのポケットには小さな洗濯ばさみが一つ入っていて、本人も気づいていないらしい。俺はそれを見つけて、昔からこういうものをポケットに入れたまま家の中を歩いていたなと思った。そんな小さなことまで、今になって一つ一つ目に入ってくる。
「私だって、ずっと二人で暮らすと思ってたわよ」
「じゃあ、なんで……」
そこまで言って、俺は口を閉じた。恵子の表情が少し硬くなったからだ。俺はこれまで何度も、「なぜ離婚したいんだ」と聞こうとして、そのたびに言葉を飲み込んできた。理由を聞けば、取り返しのつかないことまで言われる気がした。俺が知らない四十年分の不満が、一気に自分へ返ってくるような気がして、怖かった。
昼食には、昨日の残りの山形のだしを冷蔵庫から出した。冷えた茄子ときゅうりに、みょうがと紫蘇の香りが混ざっていて、食欲のない日でも箸が進む。俺は炊飯器を開け、少し残っていたご飯を茶碗によそった。湯気の立たないご飯を見ていると、昨日一緒に食べたアジの干物の骨が皿の端に残っていたことを思い出した。俺は骨を片付けながら、こういう普通の昼飯を、恵子とあと何回食べられるのだろうと思った。
「なあ、恵子」
「なに?」
「俺、逆プロポーズされたんだよな」
恵子が箸を止めた。俺も箸を置いた。若い頃のことを思い出すと、今でも少し笑ってしまう。俺たちが付き合っていた頃、俺は仕事ばかりで、結婚についても「そのうち」としか考えていなかった。ところがある夜、恵子のほうから「私と結婚する気あるの?」と聞かれたのだ。
「覚えてるか?」
「何を?」
「俺たちが結婚するとき。お前から言っただろ」
「……そうだったわね」
「俺、あのときびっくりしたんだぞ。まさかお前から言われると思わなかった」
恵子は少し笑った。俺も笑ったが、その笑顔はすぐに消えた。俺はあのとき、恵子が自分と一緒に生きたいと思ってくれたことを、当然のように受け取っていたのだろう。逆プロポーズされるほど求められていた男が、四十年後には妻から離婚届を差し出されている。人生というのは、どこで計算を間違えるのか分からない。
「俺の人生最大の誤算だよ」
「何が?」
「お前がずっと俺と一緒にいたいと思ってると思い込んでた」
恵子は何も言わなかった。窓の外では風に揺れた木の葉が擦れ合っている。冷房の風で、テーブルの上のティッシュが一枚だけふわっと浮いた。俺はそれを押さえながら、恵子の顔を見た。怒っているわけではない。ただ、何かを言うかどうか迷っているように見えた。
「……よっぽどだったんだろうな」
俺は自分でも驚くほど小さな声で言った。恵子の肩がわずかに動いた。俺は続けようとしたが、喉の奥で言葉が引っかかった。四十年近く一緒にいた妻が、自分の人生をやり直すために離婚届まで用意したのだ。そこまでしなければならないほど、俺は何かを見落としていたのだろう。
「すまん」
恵子が顔を上げた。俺は目を逸らさなかった。
「何に対して謝ってるのか、俺にも全部は分からない。でも、お前がここまで来るまで、俺は何も気づかなかった。それだけは分かる」
「秀夫さん……」
「言い訳はしない。俺は仕事をして、給料を家に入れて、それで家族を守ってると思ってた。でも、それだけじゃ足りなかったんだな」
言葉にすると、胸の奥に詰まっていたものが少しずつ形になった。俺は会社で問題が起きたとき、必ず原因を探した。誰が悪いかではなく、どこで手順が間違ったのか、何が足りなかったのか、どうすれば同じことが起きないのかを考えた。なのに自分の家庭の問題だけは、「恵子が離婚したいと言い出した」という結果だけを見て、原因から逃げていた。
「俺さ、離婚届を見たとき、退職金がどうなるとか年金がどうなるとか、そんなことばっかり考えた」
「……うん」
「情けないよな。一番大事なことを聞くのが怖くて、金の計算ばっかりしてた」
恵子はしばらく黙っていた。やがて箸を置き、湯呑みを両手で包んだ。冷房の効いた部屋で、湯呑みの中のお茶から立つわずかな香りが鼻に届く。恵子はその湯気を見つめながら、ゆっくり口を開いた。
「私も、あなたに話すのが怖かったのよ」
「俺が怖かったのか?」
「怒ると思ったから」
俺は返す言葉がなかった。思い返せば、俺は大声を出したことがある。自分では怒鳴ったつもりがなくても、恵子からすれば十分に怖かったのかもしれない。俺は湯呑みを持ったまま、指先に伝わる温かさを確かめた。
「……もう怒鳴らない」
「約束できる?」
「できる」
「じゃあ、少しずつ話す」
その言葉を聞いて、俺は深く息を吐いた。離婚届がなくなったわけではない。恵子が離婚をやめたと言ったわけでもない。それでも、初めて妻の口から「話す」という言葉を聞いた。俺はそれだけで、今日の昼飯の冷めかけたご飯まで少しうまく感じた。
食後、俺は食器を流しに運んだ。以前なら、そのままソファへ座ってテレビをつけていただろうが、今日はスポンジを手に取った。皿に残った油をこすると、洗剤の柑橘系の匂いが広がる。蛇口から流れる水が手首に当たり、冷たかった。背後から恵子が俺を見ている気配がしたが、俺は振り返らなかった。
「それ、私がやるわ」
「いいよ」
「珍しいわね」
「ラジオ体操より、こっちのほうが運動になるかもしれない」
恵子が笑った。俺も笑った。皿を洗い終えて水を止めると、台所が急に静かになった。俺は濡れた手をタオルで拭きながら、これから先どうなるのかは分からないと思った。それでも、もう「なかったこと」にしようとは思わなかった。
四十年近く一緒に暮らした妻から離婚届を差し出されたことは、俺の人生最大の誤算だった。だが、もしかすると本当に取り返しのつかない誤算だったのは、妻がいつまでも俺の隣にいると思い込んで、何もしなかったことなのかもしれない。俺は洗った皿を食器棚へ戻しながら、明日の朝も六時半に公園へ行こうと決めた。離婚届を取り下げてもらうためではない。まずは、恵子が何を考えていたのかを、逃げずに聞くためだった。




