第12話 俺がおまえにできることは――40年間、毎月3万円の妻のためのインデックス投資だった
第12話 俺がおまえにできることは――40年間、毎月3万円の妻のためのインデックス投資だった
俺は通帳や古い書類を広げたまま、ダイニングテーブルから動けなくなっていた。窓の外では蝉が鳴き続け、冷房の風でテーブルの端に置いた給与明細のコピーがかすかにめくれている。湯飲みに入れた麦茶はすっかりぬるくなっていたが、俺はそれにも気づかず、四十年前の記録を指でなぞっていた。
毎月三万円。四十年間、俺はその金を妻のために積み立ててきた。合計すれば元本だけで一千四百四十万円になるし、長い時間をかけて運用してきたから、実際の評価額はそれを上回っている。会社から給料をもらうたびに、先に三万円を取り分けていたのは、俺に万が一のことがあったとき、恵子が遺族年金だけで暮らしていくのは厳しいだろうと思っていたからだ。
若い頃の俺には、それが愛情の形だと思っていた。旅行に連れていくより、ブランドのバッグを買うより、毎月三万円を黙って積み立てておけば、いつか妻の生活を守る金になると考えていた。通帳の残高が増えていくのを見るたびに、「これで恵子は大丈夫だ」と胸の中で確認していたのだから、俺としてはちゃんと妻のことを考えていたつもりだった。
「俺は……これで十分だと思ってたんだよな」
声に出してみると、部屋の中に妙に乾いた声が残った。俺は眼鏡を外してシャツの裾でレンズを拭き、それからまた書類に目を落とした。三万円を積み立てるために、会社の飲み会を一回断ったこともあるし、新しいゴルフクラブを買うのを我慢したこともある。
けれど、恵子が欲しかったものは、そこにはなかったのかもしれない。俺は「将来のため」と言いながら、将来になったら妻と一緒に何をするのかを考えていなかった。金を貯めれば家族を守れると思っていたが、家族と一緒に過ごす時間まで積み立ててくれるわけではない。
俺は投資の資料を一枚ずつ重ね、テーブルの隅へ寄せた。台所からは、昨日作った味噌汁を温め直した匂いがしている。冷蔵庫を開けると、先日買った桃が二つ並んでいて、一つは少し柔らかくなっていた。
「恵子、桃食べるか?」
台所から返事はなかった。俺は桃を一つ取り出し、包丁で皮をむいた。薄い皮が長くつながって落ちていくのを見ながら、俺はふと、恵子が昔から桃を食べるとき、少し硬めのものを好んでいたことを思い出した。
そんなことを、今まで忘れていた。いや、忘れていたというより、覚えておく必要がないと思っていたのかもしれない。俺は妻の好みを知っているつもりだったが、肉が好きなのか魚が好きなのかさえ、最近になって初めて考えたくらいだ。
俺は桃を皿に置き、椅子に座った。目の前には、四十年間積み立ててきた金額を示す書類がある。その隣には、先日スーパーで買ってきた桃が一切れだけ残っている。
「三万円を四十年……か」
電卓を叩くと、数字が画面に並んだ。元本は一千四百四十万円。仮に年利三パーセントで長期間運用できていれば、約二千三百万円になる計算だし、五パーセントなら四千万円を超える可能性もある。もちろん投資だから将来の金額は保証されないし、相場次第で増えたり減ったりする。
それでも、俺は四十年間、毎月欠かさず三万円を出してきた。雨の日も、給料が少なかった月も、子どもの学費が重なった時期も、家のローンが苦しかった時期も、それだけは続けた。会社を辞めた今になって、その積み重ねが目の前にあると、俺は妙な気持ちになった。
「俺は、お前が一人になったときのことばっかり考えてたんだな」
恵子が台所で食器を洗う音が聞こえた。水がシンクに当たる音が一定の間隔で続いている。俺はその音を聞きながら、四十年前の自分を思い出した。
結婚したばかりの頃、俺は恵子に「俺に何かあっても困らないようにするからな」と言ったことがある。恵子は笑って、「そんな縁起でもないこと言わないでよ」と返していた。そのとき俺は、妻が笑ったことだけを覚えていた。
今なら、その言葉の裏側にあったものが少し分かる気がする。恵子は俺が死んだ後の生活より、俺と生きている間の生活を考えていたのではないだろうか。俺はそこを取り違えていたのかもしれない。
「ほんとうにすまん」
俺は台所にいる恵子に向かって言った。水の音が一瞬止まり、また静かに流れ始める。
「お前の欲しいものは、違ったんだろうな」
返事はなかった。俺も急かさなかった。
俺は椅子の背にもたれ、天井を見上げた。四十年間、毎月三万円を積み立ててきたことは、決して無駄ではなかったと思う。恵子のこれからを守るために始めたものなのだから、もし離婚することになったとしても、その金が彼女の暮らしを支えるなら、それでいい。
ただ、俺は初めて気づいた。妻を守るために金を貯めることと、妻と一緒に生きることは、同じではなかったのだ。
「金は……残せても、時間は残せないんだな」
そう呟いた俺の前で、冷蔵庫のモーターが低く唸った。テーブルの上の桃は少しずつ色を変え、夏の午後の光が床に細長く伸びている。
俺は桃をもう一切れ切って、皿を持って台所へ向かった。恵子は振り返り、少し驚いた顔をした。
「これ、食べよう。まだ冷えてる」
恵子は皿を見て、それから俺の顔を見た。俺は何も言わず、二人分の箸を並べた。
四十年間、毎月三万円を積み立ててきた俺に、今できることが何なのかは、まだ分からない。けれど、今日からは金を貯めるだけではなく、目の前にいる妻の顔をちゃんと見ることから始めようと思った。俺は自分の箸を持ち上げ、少しだけ背筋を伸ばした。




