第13話 同じ公園にいても、見えているものは違っていた
第13話 同じ公園にいても、見えているものは違っていた
ラジオ体操に通い始めて、三週間ほど経った。最初の頃は六時半に間に合うように起きるだけで精一杯だったが、今では目覚ましが鳴る前に目が覚めるようになった。夏の朝は早くから蝉が鳴いていて、窓を開けると少し湿った風が入ってくる。俺はワークマンで買った白い氷激冷感のTシャツに黒いジャージを履き、冷蔵庫から麦茶を出してコップ一杯飲んでから、恵子と一緒に公園へ向かうのが習慣になっていた。最初は「健康のため」としか思っていなかったが、何日も通っていると、顔を覚える人が増えてきた。ラジオ体操の前にベンチへ座って靴紐を結んでいると、近くの女性が恵子に笑いかけた。
「いいわねー、恵子さんは。いつも旦那さんと一緒で」
恵子は少し照れたように笑って、「そうね」と答えた。俺は隣で麦茶のペットボトルを持ったまま、何となく頭を下げたが、その言葉が妙に耳に残った。いつも一緒と言われればそうなのだが、俺たちはまだ、同じ方向を見て歩いているだけなのかもしれない。そんなことを考えているうちにラジオから音楽が流れ始め、周囲の人たちが一斉に腕を上げた。
公園には、今では二百人を超える人が集まっている。子どもを連れた若い親もいるが、中心になっているのは俺たちと同じくらいの年齢の人たちで、ラジオ体操が終わると、そのまま太極拳を始めるグループや、四、五人ずつ集まって散歩へ出かけるグループに分かれていく。公園の端では水筒の蓋を開ける音が続き、汗を拭くタオルから洗剤の匂いがしたり、誰かが持ってきた梅干しのおにぎりの匂いが風に混じったりする。みんな、自分の体を少しでも長く動かせるように、できることを続けているのだろう。俺はその光景を眺めながら、退職したら家でテレビでも見て過ごすものだと思っていた自分が、少し恥ずかしくなった。
「すごい人数だな。こんなにいるとは思わなかった」
「昔からよ。あなたが知らなかっただけ」
「そうなのか?」
「子どもたちが小さい頃、私も毎朝ここへ来てたもの」
恵子がそう言ったので、俺は公園を見回した。すると、これまでただの大きな公園だと思っていた場所に、知らない恵子の姿がいくつも重なって見えてきた。翔太がまだ小さかった頃、ここで手をつないで歩いていたのだろう。ベンチで水筒のお茶を飲ませたり、転んだ子どもの膝についた砂を払ったりしていたのかもしれない。俺はその頃、満員電車に揺られて会社へ向かっていた。恵子の一日はここから始まり、俺の一日は駅のホームから始まっていたのだ。
ラジオ体操が終わると、恵子は顔見知りの女性たちと話し始めた。俺は少し離れたところでスポーツドリンクを飲みながら聞いていたが、何人かが色違いのスポーツウエアを着ていることに気づいた。前に恵子が話していたレディースのスポーツジムの名前が、その会話の中から何度も出てくる。どうやら、ここにいる女性たちの中には、そのジムに通っている人がかなり多いらしい。
「今日、ジムの日だから先に行くわね」
「私も午後から。昨日、筋トレしすぎて太ももが痛いのよ」
「六千円でこれだけ楽しめるなら安いわよ」
そんな会話を聞きながら、俺は恵子の横顔を見た。恵子は笑っていたが、その笑顔の奥に、少しだけ昔の表情が戻っているように見えた。そういえば、以前「スポーツジムに誘われたけれど、毎月六千円もするからやめた」と言っていた。俺はそのとき、六千円なら家計を考えれば仕方ないと思っただけだったが、今になって、その六千円が恵子にとって何だったのかを考え始めた。
「みんな、お金持ちよね」
帰り道、恵子がぽつりと言った。俺は自転車を押しながら、少し考えてから答えた。
「専業主婦じゃなかった人たちだからだろう?」
「どういう意味?」
「自分で働いて、自分のお金を持ってたから、六千円くらいなら自分のために使えるんじゃないかって」
恵子はしばらく黙っていた。蝉の声が頭の上から降ってきて、アスファルトからは朝なのに熱が上がっている。俺は何となく気まずくなり、自動販売機で冷たい水を買って恵子に渡した。恵子はペットボトルを両手で持ち、しばらくラベルを眺めてから、小さく笑った。
「あなたと私って、見てるところが違うのね」
「……そうかもしれないな」
その言葉が妙に胸に残った。同じ公園に立って、同じラジオ体操をして、同じ人たちを見ているのに、俺は「二百人も集まっている」「みんな健康に気をつけている」と考えていた。恵子は、昔から知っている人たちの顔を見て、その人たちが着ているスポーツウエアや通っているジムを見て、自分が諦めてきたものを思い出していたのだろう。
家に戻ると、玄関には昨日干した洗濯物が取り込まれないまま、籠の中に山になっていた。俺は靴を脱ぎながら、その洗濯物を見た。以前なら何とも思わなかったはずなのに、今日はタオル一枚の重さまで気になった。俺が会社へ行っている間、恵子はこういうものを一つずつ片づけていたのだろう。俺は籠を持ち上げて、居間まで運んだ。
「これ、俺が畳むよ」
「……できるの?」
「三週間もラジオ体操続けてる男をなめるな」
「関係ないでしょう、それ」
恵子が笑った。俺も笑ったが、タオルを畳む手は真剣だった。四角に揃えたつもりなのに、恵子が畳むより少し歪んでいる。俺はそれを直そうとして、今度はさらに変になった。
「……難しいな、これ」
「だから前にも言ったでしょう」
「うん。今なら少し分かる」
恵子は何も言わなかった。ただ、俺の横に座って、歪んだタオルを一枚だけ取り上げた。二人で並んで洗濯物を畳みながら、俺は公園で聞いた「いつも旦那さんと一緒で」という言葉を思い出していた。俺たちは確かに今、一緒にいる。けれど、同じ場所にいても、見ているものも、感じていることも、四十年間ずっと同じだったわけではない。
俺は畳んだタオルを重ねながら、恵子の横顔を見た。聞きたいことはまだ山ほどある。でも、今度は逃げずに聞いてみようと思った。離婚届を見たときのように、頭の中をパルプンテにしてしまうのではなく、恵子が何を見て、何を感じてきたのかを、自分の目で確かめてみたかった。
「なあ、恵子」
「なに?」
「明日もラジオ体操、一緒に行こうか」
恵子は一瞬だけ手を止め、それから小さく笑った。
「うん。六時半だからね」
「分かってるよ。もう目覚ましより先に起きるんだから」
そう言って、俺は最後のタオルを畳んだ。少し歪んでいたが、今度は直さなかった。




