第7話 まずは、自分のことは自分で
第7話 まずは、自分のことは自分で
翌朝、俺はいつもより早く目が覚めた。会社へ行く必要はないのだから、別に六時に起きる理由なんてないのだが、長年染みついた習慣というのは簡単には抜けないらしい。薄い水色のパジャマのまま布団の中で天井を眺めていると、台所から食器の触れ合う音が聞こえてきた。恵子はもう起きているようだった。
昨夜は結局、離婚の話をほとんどしなかった。俺が買ってきた寿司を二人で食べたが、恵子は穴子を一貫だけ取って、「ありがとう」と言っただけだった。俺もマグロを口に入れながら何か聞こうとしたのだが、「どうして離婚したいんだ」と聞いたら、その答えを聞くのが怖くなって、結局「暑いな」としか言えなかった。情けない話だが、六十七歳にもなって、妻の一言を恐れている。
俺は布団から起き上がり、洗面所へ向かった。鏡を見ると、寝癖で白髪が何本も跳ねていた。顔を洗うと冷たい水が頬を伝い、少しだけ頭がすっきりしたので、電動シェーバーを手に取って髭を剃った。会社員だった頃は毎朝急いでいたから、剃り残しがないか確認する暇もなかったが、今日は顎を撫でながら念入りに仕上げた。
「退職したからって、だらしなくなるのはやめよう」
誰に聞かせるでもなく、俺は鏡に向かって言った。そこでふと、昨日AIに相談した内容を思い出した。離婚したい理由を聞くこと、妻の気持ちを受け止めること、自分が変わること、具体的な行動をすること。言われてみれば簡単そうだが、俺には肝心の「何を変えればいいのか」が分からない。恵子は「何もしなかった」と言ったが、それだけでは俺の頭の中にある問題一覧表には何も書き込めない。
俺は朝食のために台所へ行った。炊飯器を開けると、昨日のご飯が少し残っていたので、茶碗によそって電子レンジで温める。冷蔵庫から納豆を取り出し、卵を一つ割って混ぜようとしたところで、恵子がこちらを見た。いつものように味噌汁を温めているが、その鍋から大根と油揚げの匂いが漂っている。
「自分でやるの?」
「うん。これからは、自分のことは自分でやろうと思って」
「急にどうしたの?」
「いや……急にじゃない。今までがやらなすぎたんだ」
恵子は何も言わず、味噌汁の火を弱めた。俺は納豆をかき混ぜながら、その横顔を見た。離婚したい理由を聞けばいい。今なら聞けるかもしれない。そう思ったのに、口を開くと喉の奥で言葉が止まった。もし「あなたが家にいるだけで嫌なの」と言われたらどうする。もし「もう何をしても遅い」と言われたら、俺はその場で立っていられるだろうか。
「……恵子」
「なに?」
「いや、いい」
「そう」
また逃げた。俺は納豆を混ぜる箸を必要以上に動かした。ぐるぐる、ぐるぐると回しているうちに、納豆の糸が茶碗から伸びて、白いシャツの袖に少し付いた。俺は慌ててティッシュで拭きながら、自分でも呆れてしまった。仕事なら問題点を一つずつ洗い出して、担当者を決めて、期限を設定して、対策を実行する。それなのに、自分の妻が何に苦しんでいるのかさえ聞けない。
朝食を終えると、俺は食器を流しへ運んだ。いつもならそこに置けば恵子が洗ってくれる。しかし今日はスポンジを手に取り、洗剤を一滴だけ垂らした。泡がふわっと立ち、指先に柑橘系の匂いがついた。茶碗、箸、味噌汁の椀、納豆の器を順番に洗い、水で流して水切りかごへ置いていく。
「それ、そこじゃないわ」
恵子が言った。
「え?」
「お椀は、こっち。伏せると乾きにくいから」
「ああ、そうなのか」
俺は言われた通りに置き直した。昔の俺なら、「そんな細かいことどうでもいいだろ」と言っていたかもしれない。けれど今は、そういう細かいことを四十年近く恵子がやってきたのだと思った。食器一枚の置き方にも理由がある。俺は知らなかっただけだ。
その日から、俺は小さな目標を決めた。「自分のことは自分でやる」。大げさな目標ではない。自分の食事を用意する。自分の洗濯物は自分で洗う。トイレが汚れていたら掃除する。飲み終わったコーヒーカップを置きっぱなしにしない。ゴミの日を自分で確認する。退職した亭主が家の中をうろうろして、妻に「あれどこ?」「これやって」と聞くようになったら、よく言われる「ぬれ落ち葉」そのものじゃないか。
「俺は、ぬれ落ち葉にはならんぞ」
俺がそう言うと、恵子が台所から顔を出した。
「何、それ?」
「いや、何でもない」
「また一人で変なこと言ってる」
「退職すると、男は暇なんだよ」
恵子は小さく笑った。その笑顔を見て、俺はそれ以上言わなかった。笑ってくれたことだけで、今日は十分だと思った。
昼になると、俺は自分で昼食を作ることにした。冷蔵庫を見ると、昨日買ったトマトが赤く冷えている。俺はそれを洗って輪切りにし、塩をほんの少し振った。冷たいトマトを一切れ口に入れると、果肉が弾けて酸味が広がり、最後に少しだけ甘さが残った。
「……うまいな」
俺は一人で呟いた。恵子がいつも食卓に出していた味だった。だが、同じトマトなのに、自分で洗って切って皿に並べると、妙に違って感じる。俺は食卓に座り、冷蔵庫の音を聞きながらトマトをもう一切れ食べた。恵子が料理をしていた四十年間、俺はこんなふうに一度も考えたことがなかった。
午後になると、俺は当初の目的を思い出した。ネットカフェで思いついた、小説を書くという話だ。会社員時代なら、そんなことを始めようとしても「時間がない」で終わっていた。しかし今は時間だけはある。俺は自分の部屋の机を片付け、昔使っていたノートパソコンを開いた。机の引き出しには、何年も前の領収書やボールペン、それから子どもたちが小学生だった頃の写真まで入っている。
「こんなの、いつから入ってたんだ?」
写真を一枚取り出すと、海水浴場で撮った家族四人の写真だった。翔太は真っ黒に日焼けしていて、真奈美は黄色い浮き輪を抱えている。恵子は黄色い帽子をかぶり、俺の隣で笑っていた。俺は写真を机の端に立てかけ、それから小説投稿サイトを開いた。
登録画面に名前を入力し、メールアドレスを入れて、パスワードを決める。ペンネームなんて考えていなかったので、しばらく画面を睨んだ末、とりあえず仮の名前を入れた。ジャンルを選ぶところで手が止まり、「現代ドラマ」を選んだ。自分の今の生活がドラマなのかどうかは分からないが、少なくとも会社員時代にはこんな展開を想像したことはなかった。
「鳩が豆鉄砲食らったような顔してるんだろうな、俺」
画面に映った自分の顔を見て、急におかしくなった。白髪頭で、Tシャツに短パン姿。さっきまで離婚届のことで眉間に皺を寄せていた男が、今度は小説投稿サイトの登録画面と睨めっこしている。自分で想像すると妙に滑稽で、俺はとうとう声を出して笑ってしまった。
「はははははっ!」
笑い声が部屋に響いた。自分でも止まらなくなり、腹を抱えてゲラゲラ笑った。何がおかしいのか分からない。ただ、あまりにも想定外の人生になってしまったことが、急に可笑しくなったのだ。六十七歳、定年退職翌日に離婚届を突きつけられ、ネットカフェで一晩過ごし、区民プールで泣き、翌日には小説投稿サイトへ登録している。
ひとしきり笑ったあと、俺は目元を拭った。笑ったせいで涙が少し出ていた。俺はそれを指先で拭い、パソコンの画面へ向き直った。非公開でもいい。誰にも読まれなくてもいい。ただ、この数日間に自分が何を考えたのかだけは、書き留めておきたかった。
「問題が起きたことが問題なんじゃない。問題をどうとらえて、どう対処したかが問題なんだ」
会社員だった頃、部下に何度も言ってきた言葉だ。今度は自分がその言葉を実践する番なのだろう。離婚を回避できるかどうかは、まだ分からない。恵子が何を望んでいるのかも、俺はまだ聞けていない。
それでも、昨日までとは一つだけ違っていた。俺は自分の食器を洗い、自分の洗濯物を洗濯機に入れ、自分で昼飯を作り、そして自分の気持ちを文章にして残そうとしている。大きなことは何もできない。それでも一つずつ、自分でやるしかない。
俺は最初の文章を書き始めた。タイトルはまだ決めていない。画面の向こうに誰かがいるわけでもないのに、キーボードを叩く音が妙に大きく聞こえた。
「まずは、ここからだな」
そう呟いて、俺は一文字目を入力した。




