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第6話 へたれだよな~、俺

第6話 へたれだよな~、俺


 家へ向かう途中、俺は何度も足を止めそうになった。AIに相談して、恵子の話を聞くと決めたはずなのに、いざ家が近づいてくると、胸のあたりがざわついて、足が重くなる。白いポロシャツの背中には夕方になっても汗が残っていて、肩から下げた鞄の中では、さっき買ったパンがつぶれないように紙袋が揺れていた。俺は自分でも呆れて、商店街の角で立ち止まった。


「へたれだよな~、俺」


 六十七歳にもなって、妻と話をするのが怖い。怒鳴られるわけでもない。殴られるわけでもない。ただ、恵子の前に座って、「今まで何を考えていたんだ」と聞かれることが怖い。もし「もう遅い」と言われたらどうする。もし「あなたと一緒に暮らすつもりはない」とはっきり言われたら、俺は何を返せばいい。考えれば考えるほど、家に帰らず、このままどこか遠くへ行ってしまいたくなった。


 だったら、なかったことにできないかと思った。離婚届なんて、悪い夢だったことにして、恵子がいつものように夕飯を作り、俺がテレビを見ながらビールを飲んで、くだらないニュースに文句を言う。そんな昨日までの生活に戻れたら、それでいいじゃないか。俺はそう考えたが、すぐに自分で首を振った。恵子はもう「何もしなかった」と言ったのだ。俺が見なかったことにしたところで、恵子の四十年が消えるわけではない。


「めんどくさいなあ……」


 口から出た言葉に、自分で嫌になった。仕事なら、面倒な案件ほど早く処理するよう部下に言ってきた。ところが自分の人生になると、面倒だから後回しにしたい。俺はそんな自分を笑うしかなく、また歩き始めた。駅前の信号を渡ると、近所の業務用スーパーの大きな看板が見えてきた。


 俺はそこで足を止めた。家に帰る前に、何か買っていこうと思ったのだが、何を買えばいいのか分からない。冷蔵庫の中身なら、恵子のほうがずっと詳しい。俺は店内に入ると、冷房の風が腕に当たり、汗ばんだ肌が一気に冷えた。カートを押しながら青果売り場を歩くと、西瓜が山のように積まれていて、桃から甘い香りが漂っていた。


「……これなら、食べるかな」


 俺は小さめの西瓜を一玉、カートに入れた。それから桃を六個、シャインマスカットを一房、メロンを一個選んだ。シャインマスカットは少し高かったが、退職祝いだと思えばいい。メロンを手に取るとずっしり重く、昔、子どもたちが夏休みに冷蔵庫を何度も開けて、「まだ冷えてない?」と聞いてきたことを思い出した。


 野菜売り場では、真っ赤なトマトが並んでいた。俺は一つ手に取り、表面を指で軽く押してから、四個入りの袋をカートに入れた。恵子は夏になると、冷やしたトマトを輪切りにして、塩を少し振って食卓に出していた。俺は昔、それを見て「トマトなんてそのまま食べればいいだろ」と言ったことがあるが、恵子は笑って「冷やしたほうがおいしいのよ」と答えていた。


「そうだったな……」


 俺はトマトの袋を持ち上げた。あのときの恵子の声が、妙にはっきり耳に残っている。俺は食べるだけだった。恵子は、冷蔵庫に入れて、洗って、切って、皿に盛っていた。たったそれだけのことなのに、その「たったそれだけ」を毎日やっていたのは恵子だった。


 会計を済ませると、レジ袋がずっしり重くなった。西瓜とメロンが重い。桃は傷まないよう上に乗せてもらったが、シャインマスカットの箱まで入っていて、両手がふさがった。スーパーを出ると、まだ夏の熱気が残っていて、俺は額の汗を腕で拭った。さっきまで「帰りたくない」と思っていたのに、果物を買っただけで、少しだけ家へ帰る理由ができたような気がした。


「冷やして、一緒に食べられたらいいんだけどな」


 俺は独り言を言いながら、袋の中を覗いた。西瓜を切って、桃を皿に並べて、シャインマスカットを冷蔵庫で冷やす。メロンは食べ頃を見て、トマトには少し塩を振る。そんなことを考えていると、ふと笑いが出た。離婚届を前にして、俺が考えているのがこんなことだとは、自分でも情けない。


 だが、もう一軒寄りたい場所があった。駅前の魚屋だ。店先には氷の上に鯵や鯖が並び、冷気と魚の匂いが混ざって漂っている。俺はガラスケースを覗き込み、寿司の盛り合わせを見つけた。マグロ、イカ、サーモン、海老、玉子、それから恵子が好きだった穴子が入っている。


「これ、二人分ください」


 店主がパックを取り出してくれた。俺は財布から金を出しながら、妙なことを思った。これまで寿司を買うときも、俺は「家族分」としか考えていなかった。今日は初めて「二人分」と言った。子どもたちはもういない。残っているのは俺と恵子だ。それなのに、その二人の食卓が、今は一番遠い場所にある。


 寿司のパックを大事に鞄へ入れ、俺は家へ向かった。夕方の空には薄い雲が広がり、蝉の声が住宅街の屋根の向こうから聞こえてくる。歩くたびに果物の袋が腕へ食い込み、メロンの角が膝に当たった。汗でポロシャツが肌に張りつき、革靴の中まで少し蒸れてきたが、俺は急がなかった。


 家の前に着くと、玄関脇の植木鉢に水がかかっていた。朝、俺が出ていったときには気づかなかったが、恵子が水をやったのだろう。土は黒く湿っていて、植木鉢の縁には小さな水滴が残っている。俺はそこをしばらく眺めてから、袋を持ち直した。


「……まだ、いつもの家なんだよな」


 そう呟いて、鍵を取り出した。鍵を差し込む手が少し震えた。玄関を開けると、廊下には朝出ていったときと同じスリッパが並んでいた。恵子のスニーカーも下駄箱の横に置かれている。俺は靴を脱ぎ、買ってきたものを台所へ運んだ。


 冷蔵庫を開けると、冷気が顔に当たった。中には作り置きの煮物がタッパーに入っていて、麦茶のポットも残っている。俺は西瓜と桃を野菜室へ入れ、シャインマスカットを棚に置いた。メロンは冷やしすぎないほうがいいのかと思い、しばらく手に持ったまま考えてから、結局冷蔵庫の上に置いた。


「恵子、ただいま」


 返事はなかった。居間を見ると、恵子はソファに座っていた。薄いベージュのブラウスに紺色のスカートを合わせ、膝の上には畳みかけのタオルが置かれている。テレビはついていたが、音量は小さく、画面では夕方のニュースが流れていた。俺は魚屋の寿司をテーブルに置き、業務用スーパーの袋から果物を取り出した。


「……こんなに買って、どうするの?」


「いや……その、冷やして食べたらうまいかなって」


「西瓜まで?」


「ああ。夏だからな」


 恵子は西瓜を見て、それから桃、シャインマスカット、メロン、トマトへ視線を移した。俺は何か言わなければと思ったが、肝心の言葉が出てこない。AIに相談して、「妻の話を聞け」と言われたばかりなのに、本人を前にすると喉が固まったようになる。俺は寿司のパックを少し前へ押した。


「寿司も買ってきた」


「……そう」


「穴子、入ってるぞ」


 恵子の眉がほんの少し動いた。俺はそれだけで、少しだけ息を吐いた。昔から恵子は穴子が好きだった。俺はいつもマグロやサーモンを先に取って、恵子が最後に残った穴子を食べているのを見ていた。その程度のことしか覚えていない自分が、急に恥ずかしくなった。


「一緒に食べないか?」


 俺がそう言うと、恵子はすぐには答えなかった。膝の上のタオルを一枚ずつ重ね直し、角を揃えている。俺はその手元を見ながら、返事を待った。やがて恵子が小さく息を吐き、テレビのリモコンを取った。


「……お寿司、冷蔵庫に入れておくわ」


「そうか」


 それだけだった。それでも俺は、買ってきたものを無駄にしたくないと思った。離婚届の話をするのは怖い。今すぐ「俺は変わる」と宣言するのも怖い。だから今日は、冷蔵庫に果物を入れて、寿司を買って帰るところから始めることにした。


 俺は台所に立ち、包丁を出して西瓜を冷やす準備をした。恵子が隣で食器棚を開ける音がする。まな板に包丁が当たるたび、トン、トンと小さな音が台所に響いた。俺はその音を聞きながら、これまで四十年近く、この台所で恵子が何千回も包丁を使ってきたのだと思った。


「……なあ、恵子」


「なに?」


「今日、俺が買ってきたもの、一緒に食べような」


 恵子は少し黙ってから、こちらを見た。その顔には、朝のような硬さがまだ残っていた。それでも、ほんの少しだけ口元が緩んだように見えた。


「西瓜、冷やしておくわ」


「うん」


 俺はそれ以上言わなかった。離婚届はまだテーブルの引き出しにある。何も解決していない。それでも、冷蔵庫の中には二人で食べるために買ってきた果物が並び、魚屋で買った寿司もある。俺は包丁を洗って水を切り、久しぶりに自分から食卓の準備を始めた。



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