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第5話 離婚しないために俺ができることをAIに相談してみた

第5話 離婚しないために俺ができることをAIに相談してみた


 真壁さんの事務所を出た俺は、そのまま家へ帰る気になれず、駅前の喫茶店に入った。八月の午後は外にいるだけでシャツが背中に張りつき、冷房の効いた店内へ入った瞬間、眼鏡のレンズが白く曇った。窓際の二人掛けの席に座り、アイスコーヒーとナポリタンを注文すると、店員が「少々お待ちください」と笑顔で答えた。俺は汗で湿ったハンカチをテーブルの端に置き、スマートフォンを眺めながら、また金のことを考えていた。


 年金分割をされたらどうなる。家を売ったらいくら残る。個人年金はどうなる。基金はどうなる。頭の中で数字がぐるぐる回り、さっき真壁さんに見せてもらったシミュレーションの数字が、電卓の液晶みたいに何度も浮かんでは消えた。俺は四十年間、こういう問題なら得意だった。会社でトラブルが起きれば、まず事実を集め、原因を調べ、関係者を呼んで、対策を決める。それなのに、今一番大事な問題になると、俺は通帳の残高ばかり気にしている。目の前にいるはずの恵子の顔を思い浮かべるほうが、年金の数字を見るよりずっと怖かった。


「こんな時まで、金のことばっかりかよ」


 自分で言って、俺はアイスコーヒーの氷をストローでかき回した。カラン、カランと乾いた音がする。やがて運ばれてきたナポリタンから、ケチャップと炒めた玉ねぎの匂いが立ち上った。俺はフォークで麺を巻きながら、ふと会社員時代のことを思い出した。


「問題が起きたことが問題なんじゃない。問題をどうとらえて、どう対処したかが問題なんだ」


 昔、部下にそう言ったことがある。納期に間に合わない商品が出たとき、若い社員が青ざめて「どうしましょう」と聞いてきたので、俺はそう答えた。原因を調べればいい。誰が悪いかを探す前に、何が起きたのかを確認する。取引先への連絡が必要ならすぐにする。再発防止まで考える。それが仕事だった。ところが、自分の家庭で同じことが起きた途端、俺は「恵子が離婚したいと言っている」「俺の老後資金が減る」と、自分の都合ばかり考えていた。


 ナポリタンを一口食べると、少し酸っぱいケチャップの味がした。恵子なら、もう少し玉ねぎを炒めて甘みを出すだろうな、と考えてしまい、俺はフォークを止めた。そういえば、俺は恵子のナポリタンの作り方すら知らない。ケチャップをどのくらい入れるのか、塩をいつ振るのか、ピーマンを入れるのか、何一つ知らない。四十年近く食卓を一緒に囲んできたのに、俺は妻の料理を「出てくるもの」として食べていただけだった。


 俺はスマートフォンを持ち上げた。電話帳には真壁さんのほか、会社時代の同僚や昔の友人の名前も入っている。しかし、誰に電話すればいいのか分からない。親に相談できる年齢でもないし、子どもたちに「母さんと離婚しそうだ」などと話せば、二人を巻き込んでしまう。友人に話しても、「うちも似たようなもんだ」と酒を飲んで終わりそうだった。


「じゃあ、誰に聞けばいいんだよ」


 スマートフォンをテーブルに置いたところで、画面にAIの文字が目に入った。これまで仕事で文章を作ったり、分からないことを調べたりするときに使ったことはある。だが、夫婦のことを相談しようと思ったことはなかった。俺は少し迷ってから、アプリを開いた。


 最初の入力欄に、「妻から離婚届を渡された。離婚したくない。俺は何をすればいい?」と打ち込んだ。送信ボタンを押した瞬間、なんだか妙な気分になった。六十七歳にもなった男が、妻との問題をAIに相談している。昔の俺なら「そんなものに相談してどうする」と笑っていたかもしれない。だが、今は笑っている場合ではなかった。


「頼むから、変な説教はするなよ」


 そう呟きながら、俺は画面を見つめた。返事には、まず感情的に離婚届へ署名したり、怒鳴ったりせず、時間を置いて話し合うことが大切だと書かれていた。さらに、妻のこれまでの負担や不満を聞き、自分の正当性を説明するより先に、妻の話を最後まで聞くこと。そして、夫婦問題を専門にするカウンセラーや家族相談士など、第三者へ相談する方法もあると続いていた。


「カウンセラーか……」


 俺はフォークを皿の上に置いた。正直に言えば、そんなものに相談するなんて考えたこともなかった。夫婦喧嘩は夫婦で解決するものだと思っていたし、誰かに家庭の事情を話すなんて、男として格好悪いとも思っていた。それでも画面を読み進めると、離婚を回避したいなら、まず「妻を説得する方法」を探すのではなく、「なぜ妻が離婚を決めるほど追い詰められたのか」を理解する必要がある、と書かれていた。


 俺はそこで手を止めた。恵子は昨日、「何をしたかじゃない。何もしなかったの」と言った。あの言葉が耳の奥に残っている。俺はその意味を、家事をしなかったという話だけだと思っていたが、本当はもっと長い年月の話なのかもしれない。そう考えると、喫茶店の冷房が急に寒く感じられ、俺は腕をさすった。


「俺、恵子の話をちゃんと聞いたことがあったか?」


 答えはすぐに出なかった。俺が何かを話すときは、恵子は聞いていた。会社の愚痴も、上司の悪口も、取引先とのトラブルも、退職金の話も、全部聞いてくれた。では俺は、恵子が何を話していたのか。旅行に行きたい。料理を習いたい。区民プールに行きたい。思い出せるのは、それくらいだった。


 AIの画面をスクロールすると、次に「感謝と謝罪を具体的に伝える」という項目が出てきた。単に「今までありがとう」「悪かった」と言うだけではなく、何に感謝しているのか、何を変えるつもりなのかを自分の言葉で伝えることが必要らしい。さらに、これからの生活についても、家事の分担や夫婦それぞれの時間、場合によっては一時的な別居など、具体的な方法を話し合う必要があると書かれていた。


「別居まであるのかよ」


 俺は思わず声に出した。隣の席の若い男がちらりとこちらを見たので、慌てて声を落とした。別居という言葉だけで、家の中から自分の荷物を段ボールに詰める光景が浮かんだ。押し入れの奥には、結婚した頃に買ったアルバムがある。屋根裏には子どもたちのランドセルも残っている。そんな家を手放すことまで考えなければならないのかと思うと、胃のあたりが重くなった。


 だが、その一方で、俺は少し違うことにも気づいていた。離婚を避けるために俺ができることは、「恵子を説得すること」ではないのかもしれない。俺が変わること。家事をすることだけではなく、恵子の予定を聞き、何をしたいのかを聞き、これからどんな暮らしをしたいのかを一緒に考えることだ。今まで俺は、家族の生活を守るために金を稼いできたつもりだったが、家族と人生を相談したことはほとんどなかった。


 俺はAIの入力欄に、もう一度文字を打ち込んだ。


「妻は、定年したら二人で旅行したかったと言っています。料理も習いたかったそうです。区民プールにも行きたかった。でも、俺は仕事ばかりで、妻が何をしたいのか、ちゃんと聞いてきませんでした。今からでも間に合いますか?」


 送信してから、俺は返事が表示されるまで待った。ナポリタンはすっかり冷め、皿の端にケチャップが乾いている。アイスコーヒーの氷もほとんど溶けて、グラスの外側には水滴が筋になって流れていた。俺はその水滴を指先でなぞりながら、画面に表示された文章をゆっくり読んだ。


 そこには、「間に合うかどうかを決めるのはあなたではなく、奥様です」とあった。そして、だからこそ今できるのは、妻を説得することではなく、まず謝り、話を聞き、変わる意思を行動で示すことだと続いていた。離婚届を出さないよう懇願するだけでは、妻がこれまで積み重ねてきた年月は消えない。これから先の生活をどうするか、一緒に考えるための時間をもらえるかどうかを尋ねることが大切だという。


「……俺が決めることじゃないのか」


 その言葉を口にしたとき、胸の奥にあった何かが少し動いた気がした。会社では、問題が起きれば俺が責任者として判断してきた。家でも、家を買うこと、車を買うこと、子どもの進学、保険、貯金、退職後の生活まで、「俺が考えておく」と言ってきた。けれど、恵子の人生についてだけは、俺が決めていいものではなかった。


 俺はスマートフォンのメモ帳を開いた。そして、これから恵子に聞くことを一つずつ書き始めた。旅行に行きたい場所、習いたい料理、今まで我慢していたこと、これから住みたい場所、俺にしてほしいこと、もうしてほしくないこと。最初は五つだった項目が、気づけば十二個になっていた。


「こんなにあるのかよ……」


 思わず笑ってしまった。俺は四十年間、妻の希望を五つも聞き出していなかったのに、一日考えただけで十二個も質問が出てきた。画面の文字を見ながら、俺はようやく立ち上がった。


 店を出ると、夕方の風が少しだけ熱を和らげていた。駅前のパン屋から焼きたてのバターの匂いが流れてきて、俺の腹が小さく鳴った。俺は店に入り、恵子が好きだったあんパンと、自分用のカレーパンを二つ買った。袋を手に提げながら、俺は家へ向かう道を歩き始めた。


「まずは、話を聞こう」


 離婚届に判を押すかどうかは、まだ決められない。家を売るかどうかも、年金がどうなるかも、今すぐ答えを出す必要はない。それより先に、四十年間隣にいた恵子が、どんな人生を望んでいたのかを聞かなければならない。俺はパンの袋から漂う甘い匂いを嗅ぎながら、久しぶりに家の玄関を自分から開ける覚悟を決めた。



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