第3話 行きたかった区民プール
第3話 行きたかった区民プール
ネットカフェで一晩を明かした翌朝、俺はカーテンを開ける気にもなれず、個室の薄暗い天井を見上げていた。無料の朝食サービスでもらった小さなクロワッサンをかじると、バターの匂いが鼻に抜けたが、口の中は妙に乾いていた。昨夜はほとんど眠れなかったせいで、目の奥が重い。スマートフォンには翔太から「帰ってこないの?」というメッセージが入っていたが、返信する気になれず、そのまま画面を伏せた。俺は六十七歳の男で、昨日まで会社員だった。それが今では、家に帰る場所すら決められない。
本当なら、大声で泣きたかった。床に座り込んで、子どもみたいに「嫌だ」と叫びたかった。俺の全人生を否定されたような気がしたからだ。だが、そんなことをする勇気はなかった。「泣くな」と、子どもの頃から育てられてきたからだ。転んで膝を擦りむいても、親父から「男だろ、泣くな」と言われた。小学校の運動会で転んだときも、歯を食いしばって立ち上がった。会社で上司に理不尽なことで怒鳴られたときも、取引先に頭を下げ続けたときも、目の奥が熱くなっても涙一つこぼさなかった。
俺はパソコンを閉じて、ネットカフェを出た。外へ出ると、八月の朝の熱気がいきなり顔に張りついた。白いワイシャツを着ていたが、昨日から着替えていないので、脇のあたりに汗の湿った感触が残っている。駅前では通勤客が足早に歩いていた。俺はその流れを眺めながら、何十年もこの時間帯に電車へ乗っていたことを思い出した。満員電車の中で他人の鞄が背中に食い込み、誰かの汗の匂いが鼻につき、少しでも手の位置を間違えれば痴漢を疑われる。男だって、毎朝会社へ行く前から戦っていたのだ。
「誰が好き好んで、あんな電車に乗るんだよ」
駅の売店で冷たい麦茶を買い、俺は一気に半分ほど飲んだ。喉を通る冷たさが気持ちよかった。若い頃は、それでも何とも思わなかった。働くのが当たり前で、家族を養うのが男の責任だと思っていたからだ。だが、四十肩になった頃にはシャツを着るだけでも肩が痛み、夜中に寝返りを打つたびに目が覚めた。それでも会社を休まなかった。ホルモンのバランスだって崩れる。何をしても体が重く、朝起きた瞬間から胸のあたりがざわつく日もあった。医者に「少し休んだほうがいい」と言われたこともある。それでも俺は、妻と子どもの顔を思い浮かべて会社へ行った。
「父さんは、家族のために働いてくれたんだよな」
昔、翔太が中学生だった頃に言った言葉を思い出した。あのときは、それだけで十分だった。恵子も「ありがとう」と言ってくれた。俺はそれを家族との契約みたいに考えていた。俺が外で働く。その代わり、恵子が家を守る。それぞれが役割を果たせば、家庭は回る。実際、そうやって何十年も回ってきたのだから、俺は間違っていないと思っていた。
ただし、家事をほとんどしてこなかったことは認める。ゴミ出しと、日曜日のトイレ掃除くらいだ。ゴミ袋を持って玄関を出るとき、「俺も家事をしているぞ」と冗談を言って、恵子に呆れた顔をされたこともある。最近では少しは家事に参加しようと思って、ユーチューブで「男の家事初心者」みたいな動画を見ていた。洗濯物の干し方、トイレ掃除のコツ、風呂場のカビ取りまで、スマートフォンを見ながら勉強した。ところが、俺が洗濯物を畳んでみると、恵子は「ありがとう」と言いながら、俺が畳んだタオルをもう一度畳み直した。
「そこまでやるなら、俺がやった意味ないじゃないか」
そう言ったことがある。恵子は困ったように笑っただけだった。今なら少し分かる。俺が一つの家事を終えたつもりでも、その前後には、洗剤の残量を確認したり、天気予報を見たり、乾いた洗濯物をどこにしまうか決めたり、家族の服の状態を覚えていたりする仕事がある。俺が三割やったと思っていることが、恵子からすれば一割にしか見えないこともあったのだろう。そんな見えない仕事が毎日積み重なっていたのだ。
そこまで考えると、また胸が重くなった。だからこそ、退職した今からは、一緒に楽しめたらと思っていた。仕事がなくなれば時間はある。恵子と旅行をして、料理を習って、たまには区民プールで泳いで、帰りにスーパーで刺身を買って、家でビールでも飲む。そんな生活を勝手に想像していた。ところが、俺が「これから」と思った瞬間に、恵子は「もう終わり」と言った。
「ちゃぶ台返しができる亭主なんて、今や絶滅危惧種だぞ」
俺は自動販売機の前で一人ごちた。昔のドラマなら、夫がちゃぶ台をひっくり返して妻が泣く場面があった。しかし、今そんなことをやったら、たちまち家から追い出されるだろう。今の女性は強い。いや、強くなったというより、我慢する必要がなくなったのかもしれない。俺たち男が取引先や上司との付き合いをして、会社で生き残るために人間関係を調整していたことを、恵子はどこまで知っていたのだろう。もちろん、だから家事をしなくていいという話ではない。それでも、俺だって何でもできたわけじゃない。仕事から帰ってきて、玄関で靴を脱ぐだけで精一杯の日もあった。
俺は駅の案内板を見上げた。そこに「市民プール」の案内があった。子どもの頃から水泳は好きだった。会社員になってからは泳ぐ時間なんてなかったが、定年したら区民プールに行ってみようと、実は前から思っていた。去年、恵子にその話をしたとき、彼女は「水着、まだ入るかしら」と笑っていた。俺は「お前も一緒に来ればいい」と言った。恵子はそのとき、少し嬉しそうにしていた気がする。
「……行ってみるか」
俺は電車を乗り継ぎ、区民プールへ向かった。更衣室でワイシャツを脱ぎ、持ってきた古い水着に着替える。腹が少し出ている。鏡を見ると、肩のあたりに筋肉の名残はあるものの、髪は白くなり、頬も若い頃より落ちていた。ロッカーに服を押し込み、ビニール袋に入れた財布を確認してから、プールサイドへ出た。塩素の匂いが鼻を刺激し、水面には天井の照明が細長く揺れている。子どもたちの笑い声が響き、監視員が「走らないでください」と何度も声を張っていた。
俺はゆっくり水に入った。冷たい水が胸まで上がると、火照った体が少しずつ冷えていく。最初は二十五メートルだけ泳ぐつもりだったが、気づけば五十メートル、百メートルと進んでいた。息を吐くたびに水の中で細かい泡が流れていく。泳いでいる間だけは、離婚届も退職金も年金分割も、何も考えなくて済んだ。ところが、壁に手をついて顔を上げた瞬間、ゴーグルの内側に水が溜まっているのに気づいた。
俺はゴーグルを外した。目の周りを指で拭ったが、水はなかなか止まらなかった。プールの水が入ったのだろう。そう思ってもう一度拭いた。それでも視界がぼやけた。鼻の奥がツンとして、喉がひくっと動いた。周囲には誰も俺を見ていない。子どもたちは浮き輪で遊び、若い父親は娘の泳ぎを見ながら拍手している。俺は水面に顔を向けたまま、何度も瞬きをした。
「……泣くなよ、俺」
そう言った途端、余計に目が熱くなった。水の中だから分からない。誰にも見られない。六十七歳の男が区民プールで泣いていたところで、誰も気にしない。俺はそのまま顔を水につけた。涙なのかプールの水なのか、自分でも分からなくなった。
頭の中に、昔の恵子が浮かんだ。子どもたちが小さかった頃、家族四人で海へ行ったときのことだ。恵子は黄色い帽子をかぶり、砂浜で弁当を広げていた。俺は子どもたちと海へ入って、恵子に「おーい、早く来いよ」と手を振った。恵子は笑っていた。あの頃は、四人でいることが永遠に続くと思っていた。
「喧嘩上等だよ……こっちとら、江戸っ子でぇーーーー!」
プールサイドで小さく叫んだ。監視員がちらりとこちらを見たので、俺は咳払いをして水を飲んだふりをした。情けない。六十七歳にもなって何をやっているんだ。だが、もう一度だけ泳ごうと思った。泳いでいる間は、俺の涙も水に混ざってしまう。
最後の二十五メートルを泳ぎ切り、俺は壁につかまった。天井を見上げると、照明がぼやけて見えた。俺はゴーグルを額に上げ、腕で目元を拭った。ふと、昔読んだ芝居の台詞を思い出した。
「今月今夜のこの月を、俺の涙で曇らせて見せる……って、古すぎるだろ、俺」
自分で言って、自分で笑った。笑った拍子に、また目から何かがこぼれた。今度は拭わなかった。プールの水が肩を包み、塩素の匂いが鼻を刺し、遠くで子どもの笑い声が響いている。俺は壁につかまったまま、しばらく動かなかった。
家に帰れば、離婚届が待っている。恵子はもう、俺のことを待っていないかもしれない。それでも、ここで人生を終わらせるわけにはいかなかった。俺にはまだ、聞いていないことがある。恵子が何を我慢して、何を諦めて、何を望んでいたのか。俺はそれを一つも知らない。
「好きにすればいいって言ったけど……」
俺は水面を見ながら呟いた。
「本当は、俺も好きなように生きたいんじゃない。恵子と一緒に、好きなことをしたかったんだよ」
言葉は水音に紛れて消えた。それでも俺は、もう一度だけプールの端を蹴った。六十七歳の体には少しきつい二十五メートルだったが、今度は途中で止まらなかった。




