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第4話 人生設計の立て直し

第4話 人生設計の立て直し


 区民プールから出た俺は、駅前のベンチに腰を下ろした。濡れた髪から落ちた水が首筋を伝い、持ってきたタオルで何度拭いても、耳の後ろが冷たかった。売店で買った紙パックの牛乳を飲むと、冷たい甘さが喉を通っていくのが妙に気持ちよく、俺は空になったパックを握りつぶした。だが、頭の中には家に置いてきた離婚届が浮かんでいた。離婚を承知したら、俺の生活はどうなるんだろう。これまで考えたこともなかった問題が、急に現実の形を持って目の前に並び始めた。


 俺はベンチから立ち上がり、スマートフォンを取り出した。濡れた指では画面がうまく反応せず、何度か袖口で拭いてから、連絡先を開いた。そこには、四十年近く付き合っているファイナンシャルプランナー、真壁さんの名前が入っている。俺がまだ三十代だった頃から、生命保険や個人年金、住宅ローンの返済計画まで相談してきた人だ。退職した今も、老後の生活設計について相談するつもりでいたが、まさか最初の相談が離婚になるとは思わなかった。俺は親指を画面の上で何度も止めてから、ようやく電話をかけた。


「真壁さん、俺です。秀夫です」


「お久しぶりです。退職、おめでとうございます。昨日でしたよね」


「ああ……それがな、ちょっと相談したいことがあって」


 電話の向こうで、真壁さんの声が少し低くなった。俺は駅前の時計を見上げた。昼を過ぎたばかりなのに、八月の日差しがアスファルトを白く照らし、道路を走る車の屋根から照り返しが顔に当たってくる。濡れた水着を入れたビニール袋から塩素の匂いが漂ってきて、俺は足元に置いたスポーツバッグを少し遠ざけた。こんな話を電話だけでするのも嫌だったので、真壁さんの事務所へ向かうことにした。


 事務所に着くと、真壁さんはいつものように白いワイシャツに紺色のネクタイを締めていた。机の端には昨日の新聞と、飲みかけのペットボトルのお茶が置かれ、パソコンの横には小さな電卓が二台並んでいる。俺が椅子に座ると、真壁さんはコーヒーを勧めてくれたが、俺は冷たい水を頼んだ。喉がまだプールの塩素で乾いているような気がしたからだ。真壁さんは俺の顔をしばらく見て、それから手元のノートを開いた。


「それで、どうされました?」


「恵子から離婚届を渡された」


 真壁さんの手が止まった。驚いた顔をしたものの、すぐにいつもの仕事の表情に戻ったので、俺は少しだけ肩の力を抜いた。長年の付き合いだからこそ、余計なことを言わずに話を聞いてくれるのがありがたかった。俺は昨日から何度も同じことを考えているのに、口に出すと自分でも現実味が増してくるのが分かった。


「昨日、定年退職したばかりなんですよね」


「そうだよ。俺は、これから二人で旅行したり、のんびりしたりするんだと思ってた」


「奥様は、以前からそういう話をされていましたか?」


「……旅行には行きたいって言ってた。料理も習いたいって」


「なるほど」


 真壁さんはそれ以上、夫婦の事情には踏み込まなかった。代わりに、机の引き出しから俺の古い資料を取り出した。そこには、俺が四十年近く積み立ててきた個人年金や基金の資料がファイルされている。表紙の角は擦れて丸くなり、俺の名前の横には、若い頃の自分がボールペンで書いた「老後資金」と赤い線が引かれていた。俺はその文字を指でなぞった。


「これ、毎月一万円の個人年金でしたよね」


「ああ。毎月一万円だ。たいした額じゃないけど、四十年続けてきた」


「十分大きいですよ。継続してきたことが大きいんです」


「二人で使うつもりだったんだ」


 その言葉を口にすると、喉の奥が妙に詰まった。俺は水の入ったコップを持ち上げ、一口飲んだ。冷たい水が喉を通るのに、胸の奥に引っかかったものだけは流れてくれなかった。真壁さんはパソコンを立ち上げ、保存していた俺の老後資金のシミュレーションを開いた。


「まず、離婚した場合を考えてみましょう」


「……年金分割って、やっぱり半分になるのか?」


「制度上、単純に全部の年金が半分になるわけではありません。対象になる部分がありますし、実際の金額は加入期間や記録を確認しないと出せません」


「でも、減るんだろ?」


「はい。今までのお二人の状況からすると、影響は出る可能性が高いです」


 俺は椅子の背もたれに体を預けた。昨日まで、通帳にいくらあるかなんて細かく気にしていなかった。会社を辞めても、毎月決まった年金が入って、個人年金も受け取れて、家はもうすぐローンが終わる。贅沢をしなければ二人で暮らしていけると思っていた。それが「二人で」という言葉を外した途端、計算が全部違って見えた。


「俺の年金、今の見込みだと二十五万円くらいだよな」


「概算ではそのくらいです」


「じゃあ、単純に半分になったら十二万五千円だ。そんな金額じゃ、生活保護以下の暮らしになっちまう」


「秀夫さん、そこは少し落ち着いてください。単純に半分という計算ではありませんから」


「でも、怖い言葉だよな。年金分割って」


 真壁さんは苦笑した。気の毒そうな顔をしながらも、パソコンの数字を一つずつ確認していく。俺は机の上に置かれた電卓を眺めた。昔から真壁さんが使っている電卓で、数字のボタンには長年押された跡がついている。俺も会社員時代、給料やボーナスのたびに同じような計算をしてきたはずなのに、今回は数字が妙に冷たく見えた。


「最近、本当に増えているんですよね。熟年離婚」


「そんなに多いのか?」


「珍しい話ではなくなりました。退職をきっかけに、これからの人生を考え直す方もいます」


「俺の場合は、まさにそれか……」


 真壁さんは画面を切り替えた。現在の家を売却した場合、残った住宅ローンや売却費用を差し引いて、どれくらい手元に残るかを計算する。俺が三十五歳のときに建てた家だった。庭には恵子が植えた紫陽花があり、玄関脇には子どもたちが小学生の頃につけた傷がまだ残っている。階段の手すりには翔太が自転車をぶつけた跡があり、壁紙の一部には真奈美が小さい頃にクレヨンで描いた丸い線がうっすら残っている。数字の上ではただの「不動産」でも、俺にとっては四十年分の生活が詰まった家だった。


「最終的には、家を売って、もう少し小さくて家賃の安いところへ移るという方法もあります」


「家を売るのか」


「必ずではありません。ただ、離婚後に一人で住むのであれば、今の家を維持する費用も考えないといけません」


「でも、高齢者だと賃貸も簡単じゃないんだろ?」


「そうなんです」


 真壁さんは小さく息を吐いた。高齢者の一人暮らしを理由に、保証人や緊急連絡先を求められることもある。家賃だけでなく、管理費や更新料、引っ越し費用まで考えなければならない。俺はそこで初めて、離婚というのは紙一枚を役所に出して終わる話ではないのだと気づいた。


「じゃあ俺は、家を出て、年金を分けて、知らないところで一人暮らしか?」


「そういう選択肢もあります。ただし、今すぐ決める必要はありません」


「恵子は、もう決めてるみたいだけどな」


 真壁さんは黙った。俺も黙った。窓の外では、配送トラックが停まり、運転手が汗を拭きながら段ボール箱を運んでいる。事務所のエアコンは静かに風を送り続けていたが、俺の首筋にはじっとり汗が浮かんでいた。俺は鞄からハンカチを出し、額を拭いた。


「真壁さん」


「はい」


「俺、四十年も準備してきたんだよ」


「分かっています」


「個人年金も一万円ずつ積んだ。基金もやった。家のローンも返した。無駄遣いだって、そんなにしてない。全部、恵子と二人で老後を過ごすためだったんだ」


「はい」


「なのに、二人で使うはずだった金を、一人分として計算し直さなきゃならない」


 声が少し震えた。俺はそれを隠すように水を飲んだ。グラスの底が机に触れて、カチンと乾いた音がした。真壁さんは何も言わず、もう一度画面に目を戻した。


「秀夫さん。一つだけ確認しておきたいんですが」


「何だ?」


「お金の問題と、奥様との問題は、分けて考えたほうがいいと思います」


「……分ける?」


「はい。生活設計は私たちが一緒に考えます。ですが、奥様がなぜ離婚を考えたのかは、秀夫さん自身が向き合わないといけません」


 俺は返事をしなかった。机の上の古いファイルを閉じると、表紙についた小さな埃が舞った。四十年分の数字は、俺がどれだけ真面目に老後を考えてきたかを証明してくれる。だが、そのファイルのどこにも、恵子が何歳になったら何をしたいのか、どこへ行きたいのか、何を習いたいのかという欄はなかった。


「……そうだな」


 俺は小さく答えた。事務所を出ると、外は相変わらず暑かった。コンビニで冷たいお茶とサンドイッチを買い、駅前のベンチで袋を開けると、卵サンドのマヨネーズの匂いが鼻に入った。朝からクロワッサン一個と牛乳しか口にしていなかったので、腹は減っていたはずなのに、最初の一口がなかなか喉を通らなかった。


「俺、金のことばっかり考えてたな」


 卵サンドを半分食べて、俺は紙袋を膝の上に置いた。四十年間、俺は「これだけ貯めれば老後は大丈夫だ」と思っていた。けれど、人生設計の中に「妻とどう生きるか」という項目を入れたことは、一度もなかった。


 駅へ向かいながら、俺はスマートフォンを取り出した。恵子からの新しいメッセージはなかった。画面を閉じようとして、指が止まった。昨日、恵子は言っていた。「今からでも、自分で行けるし、自分で習えるもの」と。俺はその言葉を思い出し、家へ帰る前に、もう一度だけ恵子と話してみようと思った。離婚届に判を押すかどうかを決めるためではない。四十年も一緒にいた妻が、何を望んでいたのかを聞くためだった。



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