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第2話 頭の中がパルプンテ

第2話 頭の中がパルプンテ


 その日のうちに、俺は家を出た。正確には、恵子に追い出されたわけでも、俺が離婚を決意したわけでもない。ただ、あの家に座っていると、テーブルの上に置かれた離婚届が何度も目に入ってきて、頭の中がぐちゃぐちゃになった。昨日まで「退職したら二人で旅行でもするか」なんて言っていた俺が、翌日には離婚届を前にしているのだから、ゲームで言えば頭の中がパルプンテだ。何が起きているのか、正直、把握できなかった。


 昼過ぎ、俺は紺色のポロシャツにベージュのチノパンを履き、財布とスマートフォンと通帳を鞄に突っ込んだ。退職したばかりなのに、会社へ行くときよりも急いでいる気がした。玄関で革靴を履こうとして、ふと下駄箱を見ると、俺の黒い革靴の隣に恵子の古いスニーカーが並んでいた。靴底には昨日の雨でついた泥が少し残っている。いつもなら「ちゃんと拭いておけよ」と思っただろうが、その日は妙にその泥が気になった。


「……俺、何やってんだ?」


 誰も答えない玄関で、俺は小さく呟いた。恵子は台所にいたが、こちらを見なかった。冷蔵庫のモーター音と、蛇口から落ちる水の音だけが聞こえてくる。俺は鞄を肩にかけると、振り返らずに玄関を出た。恵子が何を考えているのか、俺には分からなかったし、今さら聞いたところで、また「何もしなかった」と言われるような気がした。


 駅まで歩く途中、俺は何度も昨日の会話を思い出した。ずっと死ぬまで一緒にいられると思っていた。夫婦だから、これから先も喧嘩をしたり、仲直りしたり、旅行に行ったり、どちらかが先に腰を痛めたらもう片方が病院へ付き添ったりしながら、何となく最後まで一緒にいるものだと思っていた。若い頃ほどベタベタするわけじゃない。それでも、同じ家に帰って、同じ食卓で飯を食って、テレビを見ながらくだらないことで笑う。それが夫婦というものだと思っていた。


「まさか、退職した途端に放り出されるとはな」


 駅前の交差点で信号を待ちながら、俺は鼻で笑った。信号が青に変わっても、足が一瞬動かなかった。背後から自転車のベルが鳴り、慌てて歩き出す。コンビニの前では、揚げたてのコロッケの匂いがしてきた。朝飯を食べてから何も口にしていないことに気づいたが、食欲はなかった。昨日までなら恵子が「お昼どうする?」と聞いてきた時間なのに、今日はそんな声を聞くこともない。


 俺はコンビニに入り、おにぎり二個とペットボトルのお茶を買った。鮭とツナマヨを選んだのは、恵子がいつも買ってくれていたものだった。店を出て、駅前のベンチに座って包みを剥がす。海苔がぱりっと音を立て、ツナマヨの匂いが鼻に入った。ひと口食べたところで、急に馬鹿らしくなった。こんなときまで、俺は恵子が選んでいたものを選んでいる。


「好きにすればいいよ」


 口の中のおにぎりを飲み込んで、俺は誰に言うでもなく呟いた。


「お前が好きにしたいっていうのなら、それもいいだろう。俺も好きなように生きる」


 言ってみると、少しだけ胸が軽くなった。恵子が離婚したいなら勝手にすればいい。俺だってもう知らない。夫婦で話し合って何かを決めるなんて、今までだってほとんどなかった。家のことは恵子、金のことは俺。それぞれ担当を決めて、四十年近く何とかやってきた。今さら、その仕組みを全部ひっくり返されても困る。


 だが、駅前の時計を見た瞬間、俺の頭に退職金のことが浮かんだ。会社から振り込まれた退職金は、俺一人のものだと思っていたわけではない。家を建てたときのローンも、子どもたちの学費も、俺の給料から払ってきた。恵子は「ありがとう」と言っていたし、俺も「これで家族を守っている」と思っていた。それなのに、離婚となれば財産分与だの年金分割だのという話になる。俺は急に、自分の老後の財布が薄くなるような気がしてきた。


「退職金の半分をもらって、自由になりたいってことなのか?」


 誰もいないベンチで、俺は眉間を指で揉んだ。年金分割という言葉も頭に浮かんだ。俺の年金まで分けるのか。長年働いてきたのに、これからの生活費まで削られたらどうなる。恵子は家事をしてきたのだから権利があると言われれば、そうなのかもしれない。だが、頭では理解できても、腹の中では「俺は一体何なんだ」とぐるぐる回っていた。


 俺は自分の手を見た。爪の脇には、会社の倉庫整理をしたときについた小さな黒い汚れが残っている。四十年以上、工具や書類を持ち、パソコンのキーボードを叩き、取引先に頭を下げてきた手だ。会社を辞めた翌日に、こんなふうに自分の価値を考えることになるとは思わなかった。


「俺はただのATMかよ」


 その言葉が口から出たとき、自分で自分が嫌になった。恵子が聞いたら、きっとまた何か言うだろう。だが、今の俺にはそう思えてしまった。金を運んでくる役目が終わったら、「おつかれさま」と言われて、ぼろ雑巾みたいに家の外へ放り出される。そんな想像をすると、腹の底が冷えていった。


 それでも、俺は立ち上がった。家に戻る気にはなれなかった。恵子と顔を合わせれば、また余計なことを言ってしまいそうだったし、何より、あのテーブルの上に離婚届が置かれている光景をもう一度見るのが嫌だった。俺は駅の案内板を眺め、しばらく考えた末、以前から気になっていたネットカフェへ向かった。退職したばかりの男が、妻と喧嘩して家を飛び出して、行き先がネットカフェとは我ながら情けない。


 店に入ると、冷房の乾いた風が頬に当たった。受付で少し広めの個室を頼み、靴を脱いで中に入る。リクライニングチェアの横には小さなテーブルがあり、無料のドリンクバーから持ってきたコーヒーを置いた。ミルクを二つ入れてかき混ぜると、甘い匂いが鼻に上がってきた。個室の壁には漫画がびっしり並んでいて、隣の席からキーボードを叩く音が聞こえる。家より狭いのに、今はここのほうが落ち着いた。


 スマートフォンを見ると、翔太からメッセージが入っていた。


「父さん、大丈夫?」


 俺はしばらく画面を見つめた。大丈夫なわけがない。だが、「大丈夫じゃない」と送るのも癪だった。


「大丈夫だ。ちょっと頭を冷やしてくる」


 そう返信して、スマートフォンを伏せた。すぐにまた通知が鳴ったが、見る気になれなかった。俺は背もたれを倒し、天井を見上げた。会社を辞めた日に、まさかこんな場所で一人になるとは思わなかった。


 しばらくすると、怒りより先に疲れがやってきた。俺は目を閉じたが、眠れない。恵子の「私は一緒に旅行したかったの」という声が頭の中で何度も響いた。そういえば結婚三十周年のとき、恵子が「いつか二人で京都に行きたい」と言っていた。俺は「子どもたちが大きくなってからな」と答え、そのまま何年も経った。京都なら、会社の出張で何度も行った。なのに恵子とは一度も行っていない。


「……そういうことだったのかよ」


 俺は天井を見たまま呟いた。恵子は旅行に行きたかったのだ。料理も習いたかったのだ。俺はそんな話を聞いた記憶がないと思っていたが、もしかしたら、聞いていて忘れただけなのかもしれない。いや、忘れたのではない。俺にとっては重要な話ではなかったから、頭に残らなかったのだ。


 その考えを振り払うように、俺はパソコンを開いた。ネットカフェの画面には小説投稿サイトが表示されていた。昔から文章を書くのが好きだったわけではない。けれど、退職したら何か趣味を始めようと思っていた。家事から逃げてきた退職亭主が、第二の人生を始める物語でも書いたら面白いかもしれない。そんな馬鹿なことを考えて、俺は少し笑った。


「題名は……『妻に捨てられた退職亭主』か?」


 自分で言って、自分で吹き出した。だが、笑った直後に、胸の奥が妙にざわついた。まだ俺は、恵子に捨てられたと思っている。けれど、本当にそうなのか。もしかすると、捨てたのは恵子ではなく、俺のほうだったのではないか。


 キーボードの上に指を置いたまま、俺は動けなくなった。会社では何十年も、問題が起きれば原因を探し、対策を考え、再発防止策を作ってきた。それなのに、自分の家庭で起きたことだけは、原因を調べようともせず、「恵子が勝手に離婚した」と片づけようとしている。そこまで考えたところで、俺はパソコンを閉じた。


「……まずは、頭を冷やそう」


 そう言ってコーヒーを飲んだ。すっかり冷めていて、最初に飲んだときより苦かった。それでも俺は、その苦いコーヒーを最後まで飲み干した。家に帰るのは、もう少し後でいい。俺はそう決めて、リクライニングチェアに深く体を沈めた。



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