プロローグ 子どもが出ていったあくる日、妻が離婚届を差し出した時、「種付け馬と給料運搬人かよ」と、わめきたかった。
プロローグ 子どもが出ていったあくる日、妻が離婚届を差し出した時、「種付け馬と給料運搬人かよ」と、わめきたかった。
子どもたちが家を出てから、まだ二十四時間も経っていなかった。昨日まで二階の翔太の部屋には、大学時代から使っていた古い本棚と、脱ぎっぱなしのスウェットが残っていたのに、朝になって見に行くと、机の引き出しまできれいに空になっていた。壁には、十年前に恵子が貼ったカレンダーだけが取り残されていて、窓際には誰かが置き忘れたボールペンが一本転がっていた。秀夫はそれを拾い上げ、しばらく指先でくるくる回してから、机の上に戻した。昨夜は長男の翔太と長女の真奈美を送り出したばかりだった。二人ともそれぞれの家庭を持ち、もうこの家に戻ってくることはない。だから秀夫は、これからは夫婦二人でゆっくり暮らせばいいと思っていた。
六十七歳になった秀夫は、大手メーカーを定年退職したばかりだった。会社からもらった花束は玄関脇の花瓶に飾られていたが、赤いカーネーションの何本かは、もう少し首を下げていた。退職祝いのために恵子が作った筑前煮の残りが冷蔵庫に入っていて、朝食にはそれを温め直したものと、焼いた塩鮭、それから少し硬くなったご飯が出された。味噌汁からは大根と油揚げの匂いがして、秀夫は湯気の向こうで新聞を広げながら、これから毎朝こんな朝食を食べられるのだと思った。会社へ急ぐ必要もない。ネクタイを締める必要もない。好きなときに起きて、好きなときに昼寝をして、妻と温泉旅行にでも行けばいい。そんな老後を、秀夫は当然のように思い描いていた。
「恵子、来月あたり、温泉でも行くか」
秀夫が鮭の皮を箸で剥がしながら言うと、恵子は味噌汁の椀を持ったまま、ほんの少しだけ顔を上げた。紺色のカーディガンの袖口には、昨日の洗い物で濡れた跡が残っている。髪は白いものが増えていたが、後ろで一つにまとめてあり、耳の横には寝癖が一本だけ残っていた。恵子はすぐに返事をせず、流し台に目を向けた。昨夜の食器は洗ってあるものの、鍋の底には筑前煮の汁が少しこびりついている。秀夫はそんなことに気づかず、新聞の旅行広告を指で叩いた。
「定年祝いだ。二人で北海道でも行くか。昔、一度行っただろ」
「……そうね」
「沖縄もいいな。俺、退職したら一週間くらい休めるからな」
恵子は笑った。けれど、その笑顔は口元だけだった。秀夫はそれを見て、照れているのだと思った。結婚して四十年近くになるのだから、妻が自分の前で気取る必要もない。そう考えて、鮭の身を口に入れた。少し塩辛かったが、退職したばかりの朝には、これくらいの味のほうがご飯が進む。秀夫は湯飲みのお茶をすすりながら、これからは朝寝坊しても誰にも怒られないな、と笑った。
朝食を終えると、秀夫は居間のソファに座った。昨日もらった退職記念の腕時計を箱から出して、何度も眺めた。濃紺の文字盤に銀色の針が動いている。会社員として働き始めた二十二歳の頃には、定年なんてずっと先の話だと思っていた。気づけば四十年以上が過ぎていた。その間、秀夫は一日も休まず働いたわけではないが、遅刻もほとんどなく、会社に必要とされる人間であろうとしてきた。給料日には通帳を恵子に渡し、「これで家のことは頼む」と言った。それで十分だと思っていた。
恵子が台所から戻ってきた。手には一枚の白い紙があった。秀夫は最初、それが町内会の回覧板か、何かの書類だと思った。恵子はいつものようにエプロンをつけていたが、その手だけが妙に白く見えた。紙の端を親指で何度も撫でている。秀夫は腕時計を箱に戻しながら、何気なく顔を上げた。
「秀夫さん、これを見て」
差し出された紙を受け取った瞬間、秀夫の指が止まった。上のほうに大きな文字で「離婚届」と書かれている。妻の名前の欄には、見慣れた恵子の字が丁寧に記入されていた。秀夫の名前の欄まで、すでに書かれている。証人欄だけが空白だった。
「……なんだ、これ」
「離婚届よ」
「いや、そうじゃなくて。なんで、こんなものがあるんだ」
「出すためよ」
秀夫は紙をテーブルに置いた。置いたつもりだったが、手が震えていたせいで、角が少し折れた。すぐに伸ばそうとしたものの、指先がうまく動かない。昨日まで家族の食卓だったテーブルには、朝食の醤油差しと、使いかけのティッシュ、それから恵子がいつも使っている小さな裁縫箱が置かれていた。その裁縫箱の蓋には、昔、真奈美が貼った花のシールが色褪せて残っている。そんなものを眺めながら、秀夫は頭の中で何度も計算した。浮気はしていない。酒で暴れることもない。給料も家に入れてきた。子どもたちも大学まで出した。家も建てた。車も買った。いったい何が足りなかったのか。
「お前、昨日からおかしかったのか?」
「昨日からじゃないわ」
「じゃあ、いつからだ」
「ずっと前から」
その答えを聞いた瞬間、秀夫は椅子の背もたれに体を預けた。胸の奥に何か硬いものが落ちてきたようだった。昨日までなら、退職した男が妻と二人で第二の人生を始めるという話だったはずだ。それなのに、妻は何年も前から別の人生を考えていたという。秀夫には、その時間がまったく見えていなかった。
「俺が何をしたっていうんだ」
「何をしたかじゃないの」
「じゃあ何だよ」
「何もしなかったのよ」
恵子は静かに言った。その声には怒鳴る力もなかった。むしろ、何度も同じことを考えた人間だけが出せるような、疲れた落ち着きがあった。秀夫はその言葉を聞いて、ますます腹が立った。何もしなかっただと。自分は四十年以上働いてきた。朝六時に起きて、満員電車に乗り、夜遅くまで会社にいた。休日だって接待やゴルフがあった。家族が生活できるように金を稼いできた。それなのに、何もしなかったと言われるのは納得できなかった。
「俺は働いてきただろう」
「ええ」
「家族を食わせてきただろう」
「ええ」
「子どもたちだって大学まで出した」
「分かってるわ」
「じゃあ、なんでだよ!」
声が大きくなった。恵子は肩をわずかにすくめたが、逃げなかった。秀夫はその様子を見て、昔のことを思い出した。夫婦喧嘩をすると、恵子はいつも同じように肩をすぼめていた。若い頃は、それを「妻が自分の非を認めている」と勝手に思っていた。今になって考えれば、ただ怒鳴り声を聞きたくなかっただけなのかもしれない。
「私はね、一緒に旅行したかったの」
「旅行?」
「ええ。あなたが定年したら、二人でいろんなところへ行ってみたかった」
恵子は窓の外を見た。六月の朝だった。庭の紫陽花には昨夜の雨粒が残っていて、葉の上で小さな水滴が光っている。網戸を通して、湿った土の匂いが入ってきた。秀夫はその匂いを嗅ぎながら、結婚してから二人きりで旅行したことが何回あっただろうと思った。新婚旅行、子どもが小さい頃の海水浴、会社の保養所。それ以外はほとんど記憶にない。
「それからね、料理も習いたかった」
「料理なら、お前は十分できるだろ」
「自分が食べたい料理を作るための料理よ」
恵子は少し笑った。
「あなたの好きなものじゃなくて、私が食べたいもの。タイ料理とか、パンとか、魚を丸ごと一匹使う料理とか。昔、テレビで見て、やってみたいって思ったことが何度もあったの」
秀夫は何も言えなかった。恵子が料理教室のチラシを冷蔵庫に貼っていたことを思い出した。十年ほど前のことだった。秀夫はその紙を見て、「そんなものに金を使うなら、家で飯を作ればいいだろ」と言った。恵子は翌日、そのチラシを剥がしていた。
「私は、あなたと旅行に行ったり、お料理を習ったりしたかったなー」
恵子はそう言って、テーブルの上の離婚届に目を落とした。
「でも、もういいの。今からでも、自分で行けるし、自分で習えるもの」
秀夫は返す言葉を失った。喉まで「俺は種付け馬と給料運搬人かよ」と出かかった。子どもを作り、金を稼いで、家に帰れば妻が食事を用意している。それが夫としての役割だと思っていた。だが、その言葉を口にしたら、本当に自分がそれだけの存在だったと認めることになる気がした。
恵子は立ち上がり、台所へ向かった。流し台に残っていた湯飲みを一つ手に取り、蛇口をひねる。水が陶器に当たる音が、静かな居間まで聞こえてきた。秀夫は離婚届を見つめたまま動けなかった。紙一枚なのに、会社からもらった退職金の通知書より重い。何十年も一緒に暮らした妻が、自分の名前の横に離婚という二文字を書いている。その事実だけが、朝の光の中ではっきり浮かんでいた。
そして秀夫は、そのとき初めて思った。自分は妻の人生について、何を知っているのだろう。好きな料理も、行きたい場所も、やりたかったことも、諦めたことも、何一つ答えられない。四十年近く同じ家で暮らしてきたのに、隣にいた女がどんな人生を望んでいたのか、秀夫は何も知らなかった。




