人間の町での初めての夕食です!
「夕食が増えそうですね~」
ルナがそう言った瞬間、解体場の中が静まり返った。
マリアとガルムンさんはもちろん、知らせを持ってきたギルド職員まで俺たちを見つめている。
「え~、どうしたんですか?」
ルナが首を傾げた。
ガルムンさんは額を押さえた。
「二十頭以上のアーマーボアが集まっていると聞いて、真っ先に思い浮かぶのが夕食なのか……?」
「お肉は多い方がいいじゃないですか~?」
「ううむ……間違ってはいないが……」
マリアが深いため息をついた。
俺は作業台の上に置かれた牙を見ながら尋ねた。
「そのアーマーボアたちが、町まで下りてくる可能性もありますよね」
「はい」
マリアが答えた。
「アーマーボアは、もともと単独で行動する魔物です。子育て中の雌でもない限り、複数で群れを作ることはほとんどありません」
「なのに、二十頭も集まっているんですか?」
「はい。しかも、ボス個体まで含まれています」
ガルムンさんが腕を組んだ。
「森の奥で何かが起きたのは間違いないな。もっと強い魔物に縄張りを奪われたか、餌が足りなくなった可能性もある」
もっと強い魔物か……。
今日のボス個体より何倍も大きなアーマーボアさえ追い出すほどなら、なかなか強いかもしれない。
少し楽しみになってきた。
「俺たちが見に行きます!」
俺が言うと、マリアはすぐに首を横へ振った。
「駄目です」
「え? どうしてですか?」
「もうすぐ日が暮れます」
窓の外を見ると、空は赤く染まっていた。
山では昼も夜も、あまり気にしたことがない。
暗闇の中でも、匂いや音だけで大抵の獣の位置は分かったからだ。
だが、人間は違うらしい。
「北の森は、昼間でも見通しがよくありません。夜になれば、熟練の冒険者でもむやみに入ろうとはしない場所です」
「明かりを作ればいいんじゃないですか?」
ルナが手のひらの上に、小さな光の球を浮かべた。
解体場の中が、真昼のように明るくなる。
「これで足りなければ、もっと大きくできますよ~」
「そういう問題ではありません……」
マリアがルナに光を消させた。
「強い光は、かえって森の魔物を引き寄せることもあります。それに、負傷した斥候隊の報告だけでは、正確な位置も分かりません」
「では、いつ出発するんですか?」
「やはり、明日の朝が最も適切だと思います」
マリアはそう答えると、知らせを持ってきた職員を振り返った。
「この件は、すぐに副ギルド長へ報告してください。警備隊にも、斥候隊の状況を伝える必要があります」
「分かりました!」
職員は慌てて解体場を飛び出していった。
隣にいた警備隊長が、険しい表情で言った。
「北の農地にいる住民は、日が暮れる前に町の中へ避難させる。北門の警備も倍に増やそう」
カルドさんも頷いた。
「ギルドでは、副ギルド長の許可が下り次第、参加できる冒険者を集めることになるでしょう。斥候隊の証言を確認してから、明日の朝に討伐隊を出すはずです」
しばらくすると、一人のギルド職員が解体場へ戻り、マリアに何かを伝えた。
それを聞いたマリアが、俺たちへ目を向ける。
「副ギルド長が、明日の朝に討伐隊を編成することを決定しました」
「俺たちも参加できますか?」
俺が尋ねると、マリアは少し迷った。
「今日、お二人の依頼遂行を直接確認したカルドさんが、参加を推薦してくださいました。お二人が望むのであれば、討伐隊へ加わることができます。ただし、現場では必ず指揮官の命令に従ってください」
「はい」
「それから今回は、絶対にアーマーボアを背負って帰ってくるような真似はしないでください」
「今回は数が多いので、一頭ずつ背負うのは難しそうですね」
俺が真剣に答えると、マリアは両手で顔を覆った。
「そういう意味ではありません……」
ガルムンさんが大声で笑った。
「ははは! 心配するな、マリア。荷車を何台も用意しておけばいいだろう」
「ガルムンさんまでそんなことを言わないでください!」
ひとまず、明日の朝までは何もすることがなかった。
俺たちは精算してもらった金の入った革袋と、アーマーボアの肉を持ってギルドを出た。
金貨十三枚と銀貨八十枚。
袋は思っていたよりもずっしりと重い。
俺は歩きながらも、何度も中身を確認した。
「お兄様~」
ルナがじっと俺を見つめている。
「どうした?」
「どうして、何度もお金を確認しているんですか?」
「念のためだよ」
「袋を開けるたびに、落としてしまう可能性の方が高くなると思いますけど」
い、言われてみればそうかもしれない!
俺は慌てて革袋の紐を固く結んだ。
山では金など必要なかった。
食べ物は自分たちで狩り、服や武器は父さんが用意してくれていたからだ。
そのため、金貨一枚にどれほどの価値があるのか、今でもよく分かっていない。
「ルナ」
「はい?」
「金貨一枚あれば、パンをいくつ買えると思う?」
「そうですね~。百個くらいじゃないですか?」
「そんなにたくさん!?」
「それとも十個?」
「……差が大きすぎないか?」
俺たちは道沿いにあるパン屋の前で、同時に足を止めた。
焼きたてのパンの香りが、開いた窓から漂ってくる。
店先には丸いパンや細長いパン、蜂蜜のかかった小さなパンが綺麗に並んでいた。
ルナの視線が、蜂蜜パンに釘付けになる。
「食べたいのか?」
「い、いいえ。もうすぐ夕食ですから」
そう言いながらも、目はパンから離れなかった。
俺は店の中へ入った。
「この蜂蜜のかかったパンは、いくらですか?」
年老いたパン屋の主人が答えた。
「一つ銅貨三枚だよ」
金貨ではなかった。
よかった~。
そういえば、銀貨もあるんじゃなかったか?
「では、二つください」
「三つです」
後ろから入ってきたルナが、自然に付け足した。
「二つじゃないのか?」
「お兄様も一つ食べないと駄目ですよ」
「……? でも、どうして三つ……」
「私が二つ食べます」
「……」
パン屋の主人は笑いながら、蜂蜜パンを三つ紙に包んでくれた。
俺は銅貨を出そうとして、手を止めた。
俺たちが持っているのは、金貨と銀貨だけだ。
「金貨で払ってもいいですか?」
「金貨?」
主人の目が大きく見開かれた。
「パン三つを買うのに金貨を出すつもりか!?」
「えっ、駄目なんですか?」
「お釣りが足りないから無理だよ!」
結局、パン屋の主人は道の向かいにある雑貨屋まで行き、金貨を崩してきてくれた。
銅貨と銀貨が大量に入った小さな袋を受け取った俺は、困惑した。
金貨を一枚渡しただけなのに、金がかえって増えたように見える。
「人間の金は難しいな……」
「そうですね~」
ルナが蜂蜜パンを一口かじった。
サクッとした表面が砕け、甘い蜂蜜が口の中へ広がったようだ。
ルナの目が輝く。
「ん~~! 美味しいです!」
俺も一口食べてみた。
山で父さんが持ってきてくれた蜂蜜より甘さは控えめだったが、温かく柔らかなパンと一緒に食べると、まったく別の味になった。
「美味しいな~」
「そうでしょう?」
ルナはいつの間にか一つ目を食べ終え、二つ目の包みを開いていた。
「夕食も食べるんじゃなかったのか?」
「これはおやつです~」
人間の町には、珍しいものがたくさんあった。
道端では果物や野菜が売られ、布で作られた人形を並べている店もある。
鍛冶屋の前からは、赤く熱した鉄を打つ音が絶えず響いていた。
ルナは装飾品店の前でしばらく髪飾りを眺め、俺は武器屋の剣を見て回った。
だが、父さんが作ってくれた俺の剣と比べられるほどのものは見当たらない。
「こちらの剣は銀貨五十枚です」
武器屋の主人が自慢げに説明した。
俺は鞘から少しだけ剣を抜き、刃を確認した。
「……」
「……どうかされましたか?」
「何でもありません」
壊してしまう前に、慎重に元の場所へ戻した。
ギルドから紹介された宿は、町の中央にある『金鹿亭』という宿屋だった。
赤い屋根の三階建てで、一階は食堂として使われている。
扉を開くと、温かな空気と一緒に肉の焼ける香りが押し寄せてきた。
「いらっしゃい!」
ふくよかな体格の中年女性が、俺たちを迎えた。
「ギルドから紹介されて来ました」
俺が言うと、女性は俺たちを上から下まで眺めた。
「ああ、今日新しく登録したっていう兄妹ね? 私はこの宿の女将、エルマよ~」
「俺はリオンです。こちらは妹のルナです」
「よろしくお願いします、エルマさん!」
ルナが明るく挨拶した。
エルマさんは嬉しそうに笑った。
「部屋は二つにする?」
「一つで大丈夫です」
俺が答えると、ルナも頷いた。
わざわざ別々の部屋にする理由もない。
だが、エルマさんはどこか妙な表情を浮かべていた。
「ベッドが二つある部屋にしておくわね~」
「一つでも大丈夫です」
「二つある部屋にするって言ってるのよ~」
まあ、追加料金は取らないと言われたので、その部屋に泊まることにした。
それにしても、なぜだろう?
人間の宿には、何か特別な決まりでもあるのかもしれない。
宿代は、二人で一泊銀貨十二枚だった。
夕食と朝食も含まれているらしい。
俺たちは部屋へ荷物を置くと、すぐに一階の食堂へ下りた。
ガルムンさんが持たせてくれたアーマーボアの肉をエルマさんへ渡すと、彼女は目を大きく見開いた。
「こ、これをどこで手に入れたの?」
「今日、捕まえました」
「まさか、北の畑に出たあいつ?」
「はい。背負ってギルドまで運びました」
エルマさんは、しばらく黙り込んだ。
「……あの噂、本当だったのね!」
どうやら、噂が広まる速度はかなり速いらしい。
エルマさんは肉を厚めに切り、塩と香辛料を振ってから、熱した鉄板の上へ載せた。
ジュウウッ!
肉が焼ける音とともに、香ばしい匂いが食堂いっぱいに広がった。
周りにいた客たちが、一人、また一人と俺たちのテーブルへ目を向ける。
しばらくすると、こんがり焼けた肉と野菜のスープ、パンが食卓に並べられた。
「いただきます!」
ルナが肉を口へ運んだ。
そして、そのまま動きを止める。
「どうした?」
「……美味しいです!」
ルナはゆっくりと肉を噛んだ。
「山で食べていたものよりずっと小さい猪なのに、どうしてこっちの方が美味しいんでしょう?」
俺も肉を食べてみた。
表面は香ばしく焼け、中には肉汁がたっぷり詰まっている。
香辛料の風味も、肉の味を引き立てていた。
「調理の仕方が違うんだと思う」
山では、ほとんどの場合、肉をそのまま火で焼いて食べていた。
父さんは人間の本をたくさん持っていたが、料理にはあまり興味がなかった。
時々、肉を真っ黒に焦がした後でさえ、
『竜はこの程度を食べても腹を壊さん』
と言っていた。
問題は、俺たちが竜ではないことだった。
「お兄様、人間の町ってすごい場所ですね」
ルナが幸せそうな顔で言った。
「パンも美味しいし、お肉も美味しいし、可愛い服もたくさんあります~」
「ああ」
「旅を続ければ、ここよりもっと大きな町も見られるんですよね?」
「ロマンさんが、王都はこの町よりずっと大きいと言っていた」
「王都……!」
ルナの目が輝いた。
「絶対に行ってみたいです!」
「俺もだ」
本でしか読んだことのない高い城壁や王宮、大勢の人間が行き交う街並み。
そして、人間たちが通うという学校。
父さんによれば、人間の子供たちが同年代同士で集まり、勉強をする場所らしい。
俺たちにとっては、かなり馴染みのない話だった。
「学校という場所も気になりますね~」
ルナがスープを口へ運びながら言った。
「同い年くらいの友達をたくさん作れるそうですし」
「友達か……」
ルナに変な男が近づいてこないのなら、悪くないかもしれない。
「お兄様は、友達を作りたくないんですか?」
「俺はお前さえいれば十分だけど」
「そんな考え方をしていたら、友達なんて絶対にできませんよ~」
「俺には父さんもいる」
「父さんは友達じゃないでしょう……」
夕食を終えた後、俺たちは初めて人間のベッドへ横になった。
洞窟で使っていた獣の毛皮より、ずっと柔らかい。
「お兄様」
隣のベッドに横になったルナが、天井を見つめながら言った。
「山を下りて、本当によかったですね~」
「ああ」
「父さんも一緒に来られたらよかったのに……」
「それは無理だと思う」
「えへへ。そうですね~」
しばらくすると、ルナの穏やかな寝息が聞こえてきた。
見知らぬ部屋だったが、不思議と心は落ち着いていた。
人間の町で食べた、初めての料理。
初めて稼いだ金。
初めて受け取ったギルド証。
そして明日は、初めて他の冒険者たちと一緒に討伐へ向かう!
よし……俺もそろそろ寝るか。
その時だった。
ドン。
遥か遠くで、何かが地面を踏みしめる振動が伝わってきた。
ドン。
今度は、さらに鮮明だった。
俺はベッドから身体を起こした。
窓の外は暗かったが、北の森の方角から鳥の群れが一斉に飛び立つのが見えた。
「お兄様……」
いつの間にか目を覚ましていたルナも、窓の外を見ていた。
「あれ、町の方へ向かってきているように見えませんか?」
ドン。
テーブルの上に置かれた水差しが、小さく揺れた。
くそっ。
どうやら、明日の朝まで待ってはくれないらしい。
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