いつの間にか70階層まで来てしまいました!
53階層の入口には、薄紫色の霧が浅く漂っていた。
そして、人よりも大きな花があちこちでゆっくりと動いている。
「……」
ルナは扉の前に立ったまま、しばらく中へ入ろうとしなかった。
「どうした?」
俺が聞くと、ルナは巨大な花を一つ指さした。
「あれ、今こっちを見たような気がするんですけど……?」
「花が?」
「はい……」
いや、まさか。
俺はもう一度その花を見た。
花の蕾は俺たちとは反対側を向いている。
「気のせいじゃないか?」
「そうですかね……?」
その瞬間。
スッ。
蕾がゆっくりとこちらへ向いた。
正確に、俺たちの方へ。
「……」
「……」
ルナが俺の服の袖を掴んだ。
「見ましたよね?!」
「見た……!」
花が人を見るのか……?
植物というより、魔物に近い気がする。
後ろからガイルさんが言った。
「だから不用意に近づくな。53階層からは、植物そのものが魔物って場合もあるみたいだからな」
「ああいうのも魔物なんですか?」
「たぶんな」
ルナは、口みたいに開いた巨大な花を見て少し顔をしかめた。
「……気持ち悪いです……」
そう言って、俺の後ろへそっと一歩下がる。
「さっきは動く植物が珍しいって言ってただろ?」
「珍しいのと好きなのは別です!」
……そうなんだな。
俺たちは結局、53階層の中へ入った。
最初の数分は何も起きなかった。
だが奥へ進むほど、普通の植物はほとんど見なくなっていった。
茎に沿って青い光が流れる草。
手のひらほどもある花びらを何度も開いたり閉じたりしている花。
そして、俺が通り過ぎるたびに少しずつ向きを変える蔓まで。
「……あの蔓、さっきからついてきてる気がするんですけど……」
俺が言うと、セリアさんが振り返った。
「私もそう思う」
「え~、まさかですよ~」
ルナが笑った。
その時だった。
シュッ!
一本の蔓がルナの足首へ向かって伸びた。
「えっ?」
俺はすぐに手を伸ばして掴んだ。
ぐねぐね。
手の中で太い蔓が蛇みたいに動く。
「……」
ルナが一歩後ろへ下がった。
「やっぱりついてきてたんですね……!」
「そうみたいだな」
「燃やしてもいいですか?」
ガイルさんがすぐに答えた。
「ほどほどにな」
「はい!」
ルナが杖を構えた。
「《フレイムバースト》!」
ボッ!
小さな炎が蔓を伝って一気に広がっていく。
すると周囲から同時に動く気配がした。
ササササッ――
「ん?」
木に絡みついていた蔓が、一斉に地面へ落ちた。
一本。
二本……。
十本……。
ざっと数えただけでも、それよりずっと多い。
ガイルさんの表情が固まった。
「……ルナ」
「はい?」
「あれ、全部同じ植物みたいだぞ」
「……」
ルナが周囲を見回した。
森中の蔓がうごめき始めている。
「ちょっと燃やしすぎたみたいですね」
「ちょっとじゃないだろ!」
結局、俺たちはしばらく蔓の群れを相手にすることになった。
セリアさんが矢で道を作り、
ガイルさんが前を塞ぐ蔓を切り払う。
俺は横から伸びてくる蔓を掴んで引きちぎった。
そしてルナは――
「《フロストプリズン》!」
パキパキパキッ!
周囲の蔓をまとめて凍らせた。
……最初からそれを使えばよかったんじゃないか?
そうして53階層を抜けると、
そこから先は一つ階層を下りるたびに、少しずつ雰囲気が変わっていった。
54階層は、巨大なキノコが森を覆っていた。
俺の背丈の何倍もあるキノコの間を通らなければならず、少し触れただけでも胞子が降ってくる。
「触るなよ」
「私、まだ何もしてませんよ!」
ルナが不満そうに言った。
……手を伸ばしてたくせに。
55階層では木々がほとんど消え、巨大な沼が現れた。
「……!」
果てが見えない泥沼の中に、細い地面の道だけが続いている。
沼の下では、ずっと何かが動いていた。
「落ちたらどうなるんですか~?」
ルナが聞くと、ガイルさんが答えた。
「知らん」
「一回落ちてみます?」
「やめろ!」
56階層。
沼から飛び出してきたマッドクロコダイルを三体倒した。
57階層。
腰まで水に浸かる区域を進んだ。
ルナが全員を魔法で浮かせてくれたから、特に問題なく通れたけど。
そして58階層からは、再び地面が固くなり始めた。
59階層に着く頃には、
周囲には木の代わりに黒い岩が増えていた。
「また雰囲気が変わりましたね~」
ルナが言った。
「そうだな……」
森から沼。
そして今度は岩場。
本当に同じダンジョンの中とは思えない。
そうして二日目の夕方。
俺たちはついに60階層へ到着した。
扉の前でガイルさんが地図を確認する。
「60階層には守護者がいるって記録がある」
ルナがすぐに杖を持ち上げた。
「入りましょう!」
「少し休んでからだ!」
少し休んだあと扉を開くと、
その奥には広い円形の空間があった。
森も、
沼も、
巨大な植物もない。
床には黒い石だけが敷き詰められていた。
そして中央には、巨大な狼が一頭横たわっていた。
黒い毛。
赤い目。
背中からは煙のような黒い気配が流れ出している。
ガイルさんが息を呑んだ。
「……シャドウウルフか」
「シャドウウルフ……?」
「Bランク上位の魔物だ。特に暗い場所だと動きを目で追うのが難しい」
その言葉が終わるより早く、
シャドウウルフの姿が消えた。
「え?」
セリアさんが周囲を見回す。
そしてすぐ後ろ。
黒い影が飛び出した。
「セリア!」
ガイルさんが叫ぶ。
だが、それより俺の方が少し早かった。
俺はセリアさんの前に現れたシャドウウルフの首筋を掴んだ。
「捕まえた……!」
「……」
シャドウウルフが俺を見る。
俺も奴を見る。
「グルル……」
「じっとしてろ」
奴が前脚を振り回した。
俺は少しだけ頭を後ろへ引いて避け、そのまま地面へ押さえつけた。
ドン!
「……」
ルナが杖を下ろした。
「私の番は……?」
「次にしろ」
「残念です……」
シャドウウルフは俺が体を押さえつけると何度か暴れたが、すぐに動かなくなった。
ガイルさんはしばらく何も言わなかった。
「……60階層の守護者なんだけどな」
「はい」
「これで終わりなのか……」
「そうみたいですね」
ちょっと可哀想な気もするな……。
セリアさんが笑った。
「もうそろそろ慣れてもいいんじゃない?」
「これは慣れちゃいけない気がする」
60階層を突破したあと、
俺たちはそこで二度目の野営をした。
そして翌日。
61階層からは、まったく違う景色が広がっていた。
赤い土。
低い草。
巨大な岩柱。
熱く乾いた風。
森の面影はどこにもない。
「砂漠ですか?!」
ルナが聞いた。
ガイルさんが首を振る。
「砂漠っていうより、荒野に近いな」
「荒野……」
ルナはしばらく周囲を見回した。
「食べられそうなものがあんまりなさそうですね……」
幸い、荒野は森よりも道を探しやすかった。
視界を遮る木がないからだ。
62階層。
63階層。
64階層。
ひたすら岩場を進んでいった。
魔物も強くなっている。
赤い甲殻を持つレッドスコーピオン。
岩陰に隠れ、突然飛び出してくるサンドリザード。
上空を旋回しながら火球を落としてくるファイアバードまで。
だが道そのものは森よりずっと単純だった。
おかげで移動速度も上がった。
そして――
「見つけた!」
セリアさんが前を指さした。
崖の下に石の扉が見える。
【70】
「70階層……!」
ガイルさんが足を止めた。
ルナも目を大きくする。
「もう70階層ですか~?」
「はは……」
ガイルさんが乾いた笑いを漏らした。
「俺たちの最初の目標は45階層だったんだけどな」
「そういえばそうでしたね!」
もう忘れてたのか……。
ガイルさんは70階層の扉を見つめた。
しばらく何も言わない。
その顔には、ダンジョンへ入ったばかりの頃とは少し違う表情が浮かんでいた。
驚きもある。
だが、それ以上に緊張しているように見えた。
「ここから先は……本当に俺たちが記録を残すことになりそうだな」
セリアさんも頷く。
「70階層より先まで下りた冒険者自体が少ないからね」
ルナは扉を見つめた。
そして静かに笑った。
「じゃあ、ここからは私たちが自分で確かめればいいんですね」
ガイルさんが頭を抱えた。
「なんでそうなるんだ……」
俺は扉の上に刻まれた数字を見つめる。
【70】
最初の目標は45階層だった。
なのに、いつの間にか――
俺たちはそれよりずっと深い場所まで来てしまっていた……。




