力を加減しただけなのに
黒い狼たちが一斉に襲いかかってきた。
最初に動いたのは、群れの先頭にいた三頭だった。
三頭はそれぞれ別の方向へ散った後、まるで打ち合わせでもしていたかのように同時に俺へ飛びかかってくる。
正面から一頭。
左から一頭。
そして背後から一頭。
山ではよく見かけた狩り方だった。
正面の敵に意識を向けさせ、その隙に残りが横や後ろから狙う。
俺は剣を強く振るおうとして、ふと父さんの言葉を思い出した。
人間は弱い。だから、力加減をしなければならない。
周囲には馬車もあり、倒れている人たちもいた。
下手に振れば、狼より先に馬車の方が真っ二つになるかもしれない。
俺は剣を握る手から力を抜いた。
本当に軽く、枝でも払うように横へ振るった。
バキッ!
剣の腹に当たった黒い狼が、そのまま吹き飛んだ。
狼は後ろから走ってきた二頭を巻き込み、道端にあった大きな岩へ叩きつけられた。
ドガンッ!
岩が真っ二つに割れた。
「えっ?」
や、やっぱり強すぎたか?
俺はしばらく剣を見下ろした。
ほとんど力なんて入れていなかったはずなのに。
どうやら、この剣があまりにもよくできすぎているらしい。
「お兄様、後ろです!」
ルナの声に我に返り、身体を振り向かせる。
大きな狼が馬車の上へ飛びかかろうとしていた。
馬車の中では、幼い子供と女性が身を寄せ合いながら悲鳴を上げている。
少し距離があった。
走れば間に合わなくはないが、馬車が壊れるかもしれない。
「ルナ!」
「はい!」
ルナが指を軽く鳴らした。
小さな風が起きた……と、ルナは思っていたのだろう。
たぶん。
ドンッ!
目に見えない何かに殴られた狼が、空中で弾き飛ばされた。
狼は道端の木を四本続けてへし折った後、ようやく地面へ叩きつけられた。
馬車の周囲が静まり返った。
ルナは倒れた木々を眺めながら首を傾げた。
「おかしいなあ。本当に弱くしたのに……」
「どうやら、山の下は何かが違うみたいだな」
「そうなんですか?」
俺たちへ襲いかかろうとしていた狼たちも、足を止めていた。
獣とはいえ、状況を判断できる程度の知能はあるらしい。
狼たちは倒れた仲間と俺たちを交互に見比べながら、ゆっくりと後ずさりする。
その中で最も巨大な狼が、低く唸り声を上げた。
他の狼たちとは明らかに違っていた。
黒い毛の間には赤い縞模様があり、額には短い角が生えている。
そいつが大きく咆哮すると、残っていた狼たちが再び動き始めた。
「群れのボスみたいですね~」
ルナが俺の隣へやって来た。
「ああ。あいつを倒せば終わりだろう」
「私がやりましょうか?」
「いや。ルナの魔法は周りまで巻き込むかもしれないから、今度は俺がやる」
「さっき、お兄様も岩を壊してましたけど~」
「あれは剣がいいからだ」
ルナが何か言おうとしたが、先にボス狼が地面を蹴った。
目で追うのが難しいほどの速さだった。
もちろん、父さんの尻尾よりはずっと遅い。
狼が突き出した前脚を、身体をひねって避ける。
続いて牙が俺の首を狙ってきた。
首を横へ傾けると、黒い牙が目の前をかすめていった。
……遅すぎる。
あまりに遅くて、むしろどう反撃すればいいか迷うほどだった。
殺さずに制圧できるだろうか。
俺は剣を逆さに持ち、刃ではなく柄の先で狼の顎を軽く打ち上げた。
コツン。
本当に軽く触れただけだった。
それなのに、ボス狼の巨大な身体が真上へ飛び上がった。
「ええっ?」
狼はしばらく空へ上がり続けた後、少ししてから道の反対側にある森の中へ落ちていった。
ズズンッ!
驚いた鳥の群れが、一斉に空へ飛び立った。
残った狼たちは、もう戦う気を失ったようだった。
尻尾を脚の間に巻き込み、我先にと森の中へ逃げていく。
俺はその姿を見送りながら剣を鞘に収めた。
「ふう~。なんとか追い払えたな!」
「そうですね~。思ったより大人しく終わりました」
ルナが明るく笑いながら言った。
だが、助けた人たちの中で誰一人として言葉を発しなかった。
武器を持った男たちは口を開けたまま俺たちを見つめ、馬車にいた人たちも外へ顔を出したまま固まっていた。
もしかして、俺たちの戦い方が少し荒っぽすぎたのだろうか。
父さんは、人間は怖がりだと言っていた。
俺はできる限り優しい表情を作り、彼らへ近づいた。
「安心してください~。もう大丈夫です」
その言葉が終わった瞬間、先頭にいた中年の男がびくりと震え、持っていた剣を落とした。
カラン。
「だ、大丈夫……?」
「はい。狼は全部逃げましたから」
「いや……逃げたというより……」
男は森の向こう側へ視線を向けた。
そこでは、いまだに土煙が立ち上っている。
「あ、いえ。なんでもありません」
男は慌てて言葉を変えた。
近くで見ると、かなりひどい状態だった。
右肩が裂けて血が流れ、腕には黒い牙の痕が残っている。
周囲で倒れている人たちも似たような状態だった。
「ルナ、治療できるか?」
「もちろんです!」
ルナはすぐに負傷者たちのもとへ向かった。
すると、武器を持った者たちの何人かが反射的に後ずさった。
先ほどの魔法を見たのだから、驚くのも無理はない。
ルナは彼らを安心させるように微笑んだ。
「大丈夫ですよ! 治療魔法は爆発しませんから~」
その言葉を聞くと、中年の男の顔がさらに青ざめた。
ルナは男の傷へ手を当てた。
柔らかな緑色の光が、指先から流れ出す。
裂けた皮膚が見る見るうちに塞がり、流れていた血も止まった。
黒く変色していた牙の痕まで、一瞬で消えていく。
「終わりました」
「え……もう?」
男は自分の肩を何度か動かしてみた。
痛みがまったくないのか、目を大きく見開いている。
「毒も全部消しました。他の方も順番に治療しますね」
「ど、毒まで?」
「はい。すごく弱い毒だったので、難しくありませんでした~」
その言葉を聞いた人々の表情が、なんとも言えないものへ変わった。
俺はそこで初めて、地面に倒れている狼たちを調べた。
黒い唾液。
赤い縞模様。
小さな角。
山でも時折、似たような魔物を見たことがある。
ただし、山にいたものはこれより二、三倍は大きく、唾液が落ちた場所では岩が溶けていた。
どうやら、山の下にいる種はずっと弱いらしい。
治療が終わる頃、馬車の中から幼い女の子が飛び出してきた。
女の子はそのままルナへ駆け寄り、腰に抱きついた。
「お姉ちゃん、ありがとう!」
「あら」
ルナは少し驚いた後、女の子の頭を撫でた。
「もう大丈夫だよ~。怪我はしてない?」
「うん!」
「よかった~」
ルナはあっという間に女の子と話し始めた。
人間とも上手くやっていけそうだ。
山を出る前は、友達を作れるか少し心配していたが、余計な心配だったらしい。
その時、中年の男が俺の前に立った。
治療を受けた男は姿勢を正し、深く頭を下げた。
「命を救っていただき、本当にありがとうございます。私はハーベル商会の責任者、ロマンと申します」
「俺はリオンです。こっちは妹のルナです」
「お二人は、もしかして……高位の冒険者なのですか?」
「冒険者?」
聞いたことのない言葉ではなかった。
父さんが持っていた本で読んだことがある。
依頼を受けて魔物を討伐したり、人を護衛したりする職業だ。
いつか絶対にやってみたい!
「えっと……まだ違います」
「まだ……?」
ロマンは俺の言葉を繰り返した後、しばらく黙り込んだ。
「では、どこかの貴族家のご子息とご令嬢で……?」
「えっと……貴族でもありません。今日初めて山を下りてきたんです」
「え? 今日初めて……山を?」
ロマンの視線が、俺たちが下りてきた方角へ向けられた。
遠くに見えるのは、俺たちが暮らしていた山脈だ。
高い峰々が雲の上までそびえ立ち、山頂付近には魔物が多いため、人間は近づかないと父さんから聞いていた。
ロマンは山脈と俺たちを何度も交互に見た。
「まさかお二人は、竜の山脈から来られたのですか?」
「竜の山脈?」
「あの山を、人間はそう呼んでいるみたいですね、お兄様」
女の子と話していたルナが、いつの間にか隣まで来ていた。
「そうみたいだなあ」
俺たちが何気なく答えると、ロマンの顔から血の気が引いた。
「あ、あそこは王国でも最上級の危険地帯に指定されています。上級冒険者でさえ、簡単には立ち入れない場所で……」
「そうなんですかあ?」
俺はルナと顔を見合わせた。
俺たちが暮らしていた場所は、そんなに危険だったのだろうか……?
時々強い魔物が現れることはあったが、父さんのいる洞窟の近くにはほとんど寄ってこなかった。
「それでは、人間の村まではあとどれくらいですか?」
「一番近いのはレーベンという村です! 私たちも、ちょうどそこへ戻る途中でした」
「それはよかったです! 俺たちも人間の村へ行こうとしていたんです」
ロマンはしばらく考えた後、慎重に口を開いた。
「よろしければ、私たちと一緒に行きませんか? せめてもの恩返しをさせてください。馬車には空きがありますし、村へ着けば宿も用意いたします」
「宿?」
「人が寝る場所ですよ、お兄様」
ルナが小声で説明した。
「そ、それくらい俺も知ってる」
本で読んだことがある。
金を払って部屋を借りる場所だ。
一番の問題は、俺たちが人間の金を持っていないことだった。
父さんから鉱石や鱗は受け取っていたが、どこでどうやって金に換えるのかは知らない。
俺は頭を下げた。
「それなら、お願いします」
「こちらこそ、お願いいたします!」
ロマンはなぜか、俺よりも深く頭を下げた。
そうして俺は、生まれて初めて人間の馬車に乗ることになった。
馬車が動き始めると、ルナは窓から顔を出し、何度も感嘆の声を上げた。
「わあ~! 道がずっと続いています!」
「そうだな~」
「あれは畑みたいです! 本で見たものより、ずっと広いですね」
「落ちるかもしれないから、あまり身を乗り出すなよ」
「これくらいじゃ落ちません!」
「それでも危ない」
「お兄様は崖から飛び降りてましたよ!」
「いや……! あれは……」
俺が再び注意しようとした瞬間、馬車の向かい側に座っていた護衛たちが慌てて視線を逸らした。
さっきから彼らは、俺たちと目が合うたびにこうしている。
もしかして、竜の山脈から来たことを警戒しているのだろうか。
これから人間たちと暮らすなら、もう少し親しみやすく振る舞う必要があるかもしれない。
俺はできる限り優しく笑いながら尋ねた。
「村へ着くまでに、また魔物が出ることはありますか?」
護衛たちの肩が同時に跳ね上がった。
「あ、ありません!」
「絶対に現れません!」
「もし現れても、私たちが先に止めます!」
全員、頼もしい人たちだった。
俺は感心しながら頷いた。
「人間も、思っていたより頼りになるんだな~」
俺が小さく呟くと、ルナが吹き出した。
しばらくすると、森が終わった。
開けた平原の向こうに、低い城壁と屋根が見え始めた。
煙を上げる煙突。
門を行き交う馬車と人々。
俺たちが本でしか見たことのなかった、人間の村だった。
ルナの目が輝いた。
俺も思わず馬車の前へ身を乗り出す。
ついに、待ちに待った人間の世界へ到着したのだ!
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