ラグナの市場は、見るものが多すぎます!
翌朝。
コンコン。
「お兄様~」
コンコンコン。
「お兄様~?」
……。
まだ日も完全には昇っていない気がする。
俺は布団を頭まで被ったまま目を閉じた。
コンコンコンコン。
「お兄様?!」
今度はノックの速度が速くなった。
「起きないなら、先に行っちゃいますよ~」
……?
その言葉で、昨日眠る直前にルナが言っていたことを思い出した。
アイアンファングベアの肉。
俺はゆっくり体を起こした。
「分かった……起きるよ」
扉を開けると、すでに着替えまで全部済ませたルナが立っていた。
「おはようございます!」
「うん、おはよう……」
「早く準備してください!」
「まだ朝ご飯も食べてないけど?」
「朝ご飯を早く食べて、ギルドに行かないと!」
やっぱり肉のせいに違いない……!
でも、いつか肉に飽きる日も来る……よな?
俺はルナに引っ張られるように一階へ降りた。
朝の『銀月亭』は、昨夜とはまるで雰囲気が違っていた。
酒杯を手に騒いでいた冒険者たちの姿はなく、代わりに旅立つ準備をしている商人や、朝食を食べている宿泊客が何人か座っていた。
「おはようございます~」
ミアさんがパンの入った籠を持って近づいてきた。
今日も頭の上の猫耳が軽く動いている。
ルナの視線が自然と上へ向かった。
「……」
「ルナ」
「まだ何もしてませんよ?」
「まだ?」
ミアさんが笑った。
「まだ耳が珍しいんですか?」
「えへへ~、少しだけです」
ルナが指でほんの少し、という仕草をした。
どう見ても、その『少し』じゃないだろ……!
いつ暴走するか分からない。
気をつけてください、ミアさん。
朝食には、温かいスープとパン、卵料理が出てきた。
ルナはパンをスープにつけながら、ミアさんに尋ねた。
「ミアさん~」
「はい?」
「アイアンファングベアのお肉を持ってきたら、今日すぐに料理してもらえますか?」
「朝からその話ですか?」
ミアさんが笑った。
「解体さえ終わっていれば大丈夫ですよ。ただ、お昼は準備が多いので、夕食のほうがいいですね」
「夕食……」
ルナは少し残念そうな顔をした。
「数時間待つだけじゃないか」
「数時間も待たないといけないじゃないですか……」
……やっぱり価値観が違う……!
食事を終えた俺たちは、そのままラグナの冒険者ギルドへ向かった。
朝だというのに、ギルドの前にはすでに多くの冒険者が行き交っていた。
依頼を受けに来た人たちの中には、昨日初めて見た亜人やドワーフも混じっている。
狼のような耳を持つ男性冒険者が背中に大きな斧を担いで通り過ぎ、反対側では長い耳を持つ女性――エルフが、弓を手に依頼書を確認していた。
ルナが小さな声で言った。
「ラグナには本当にいろんな人がいるんですね~」
「レーベンより人がずっと多いからね」
「山では父さんとお兄様しかいなかったのに」
「お前もいただろ」
「私は私ですから」
何を言ってるんだ……。
ギルドの中へ入り、昨日会った受付職員にアイアンファングベアのことを尋ねると、彼女はすぐに書類を確認した。
「ちょうど解体が終わっています」
「本当ですか?!」
ルナが大きな声で答えた。
職員が少し笑った。
「状態がかなり良かったため、予想より高い値がつきました。毛皮、牙、魔石まで含めた買取額は金貨42枚です」
「金貨42枚!」
ルナの目が大きくなる。
俺も少し驚いた。
街道で突然遭遇した魔物一頭が金貨42枚だなんて。
Bランクの魔物は高く売れるとは聞いていたが、本当にかなりの金額だった。
「肉はどうされますか?」
「もらいます!」
今回もルナが先に答えた。
「全部じゃなくて」
俺はすぐに付け加えた。
「昨日お願いした前脚と背中の一部だけお願いします」
「承知しました」
職員は書類に印をつけた。
「残りの肉はこちらで買い取ります。食用可能な部位ですので、別途買取額に含まれます」
「お肉もお金になるんですね~」
「アイアンファングベアは味も悪くないので、需要があります」
ルナはそれを聞いて、少し考え込んだ。
「……もう少しもらいます?」
「駄目」
「まだ何も言ってないですよ?」
「……? 今、もう少しもらうかって聞いただろ」
しばらくすると、ギルド職員が処理済みの肉を大きな袋に入れて持ってきた。
思ったより量が多い。
俺が袋を持ち上げると、ルナは隣で満足そうに頷いた。
「今日の夕食が楽しみですね~」
「お金をもらったことより、肉のほうが嬉しいの?」
「金貨は逃げませんけど、お肉は傷むじゃないですか~」
……そう言われると、なかなかもっともらしい。
まあ、ルナが言っているという点を除けば。
金貨42枚を精算してもらった後、俺たちは銀月亭へ戻った。
ミアさんに肉を見せると、すぐに厨房へ持っていってくれた。
「状態いいですね~。夕食にはしっかり料理しておきますよ」
「お願いします!」
ルナは両手をぎゅっと合わせた。
その後は、特にやることがなかった。
ギルドで新しい依頼を受けることもできたが、受付職員からも、昨日着いたばかりなのだから数日くらい街を見て回ってもいいと言われていた。
何より、ラグナは広すぎる。
昨日はギルドと宿を行き来するだけでも精一杯だった。
「今日は市場でも見て回る?」
俺が尋ねると、ルナは待ってましたとばかりに頷いた。
「いいですね!」
「ただし、食べ物ばかり見ないように」
「どうしてですか?」
「……もういい」
言っても無駄だろう……。
そうして俺たちは大広場へ向かった。
朝の広場は、昨日の夕方よりもさらに人が多かった。
地面には大きな石板が敷き詰められ、噴水の周りには数えきれないほどの露店が円を描くように並んでいる。
果物を山のように積み上げた店。
色とりどりの布を吊るした衣料品店。
見たことのない香辛料が詰まった袋。
首飾りや腕輪を売る小さな装飾品店まで。
「わあ~!」
ルナは忙しなく辺りを見回した。
「昨日よりお店が多い気がします~」
「朝だから、新しく出ている露店もあるんだろうね」
「お兄様!」
ルナが突然、俺の袖を引っ張った。
「あれ見てください!」
指差した先には、赤くて丸い果物が何個も串に刺されていた。
表面には透明なシロップのようなものが固まって、きらきら光っている。
「あれ、何でしょう?」
「食べてみれば分かるだろ」
俺がそう言うと、ルナが目を見開いた。
「お、お兄様から先に食べようと言うなんて……!」
「俺も気になるから」
「ラグナに来てから、いい方向に変わってますね~」
……『いい方向』って、具体的に何なんだ?
俺たちは果物の串を二本買った。
一本、銅貨5枚。
ルナは一口かじるなり、何度も頷いた。
「甘いです!」
「果物だからね」
「外側も甘いです!」
シロップのように見えたものは、蜂蜜を煮詰めて固めたものだった。
酸味のある果物とよく合っている。
ルナはあっという間に一本食べ終えると、自然な動きで俺の手にある串を見つめた。
「……」
頼むから俺の分くらい、俺に食べさせてくれ!!!
俺たちはそのまま市場を見て回った。
ルナは食べ物が見えるたびに立ち止まり、俺は時々武器や旅用品を眺めた。
だが、しばらくすると問題が起きた。
「お兄様~」
「何?」
「あそこ、ものすごく長い列があります」
ルナが広場の反対側を指差した。
一つの露店の前に人が長く並んでいる。
大きな鉄板の上で何かを焼く匂いが、ここまで漂ってきた。
「肉かな?」
「わあ~! 見てきます!」
「一緒に行こう!」
「お兄様、さっきあっちの武器屋を見たいって言ってたじゃないですか?」
ルナが俺の後ろを指差した。
確かに、少し前から気になっていた店が一軒あった。
陳列台には、いろいろな種類の短剣や小道具が置かれている。
「私、一人で並べますよ」
「迷子にならない?」
「私を何歳だと思ってるんですか?」
「年齢の問題じゃなくて、大都市に来たばかりだろ……」
「……」
ルナは少し黙った。
「広場から動きません」
「本当?」
「はい!」
「変な人についていくなよ」
「お兄様、私16歳ですよ!」
「分かってる……」
「それに、大抵の変な人より私のほうが強いですから~」
うん……確かにそれはそうだ。
結局俺は、ルナを列に並ばせたまま、少しだけ周辺の店を見て回ることにした。
「ここで待ってて」
「は~い」
「俺が戻るまで、食べ物を買いすぎるなよ」
「それは努力してみます」
不安になる答えだった。
俺は広場の端にある通りへ歩いていった。
大通りから少し外れると、人通りもだいぶ減る。
小さな雑貨屋や装飾品店、書店のような店が続いていた。
ラグナには本当に何でもあるんだな~。
ある店には魔物の角を削って作った飾りがあり、別の店には小さな魔石を埋め込んだ灯りが並べられていた。
俺はゆっくりと通りを眺めながら歩いた。
その時だった。
前のほうから、誰かが急ぎ足で歩いてくるのが見えた。
フードを深く被った女の子だった。
顔はほとんど見えない。
両手には小さな紙袋といくつかの品物を抱えていたが、ずっと後ろを気にしているのか、何度も振り返っている。
何か急いでいるのかな?
彼女がもう一度後ろを振り返った瞬間。
つま先が、道から突き出ていた石に引っかかった。
「あっ……!」
体が大きく前へ傾く。
俺は反射的に手を伸ばした。
「危ない!」
幸い、転ぶ寸前で彼女の腕を掴むことができた。
「……!」
女の子はどうにか体勢を立て直した。
だが、持っていた物がいくつか地面へ落ちてしまった。
「大丈夫?」
「はい……!」
彼女が慌てたように答えた。
俺は地面に落ちた物を拾ってあげた。
小さな紙袋とハンカチ、それから包まれたお菓子のようなものだった。
「はい」
「あ……」
女の子は両手でそれを受け取った。
フードを深く被っているせいで、顔はよく見えない。
「怪我してない?」
「大丈夫です……」
声を聞く限り、俺と同じくらいの歳に思えた。
「前を見て歩いたほうがいいよ。人も多いし」
「はい……」
彼女はしばらく俺を見つめているようだった。
だが、その時。
遠くから聞き慣れた声が聞こえてきた。
「お兄様あああ!!」
……。
広場のほうだ。
「俺、先に行くね!」
「あ……!」
俺は一歩踏み出した。
その時、背後から小さな声が聞こえた。
「ありがとうございます……!」
俺は振り返り、軽く手を振った。
「うん。気をつけてね」
そして、そのまま広場へ戻った。
別に大したことではなかった。
人の多い市場なら、誰だって一度くらい転びそうになることはある。
それより今は、あの声のほうが問題だ。
広場へ戻ると、ルナが両手いっぱいに食べ物を抱えて立っていた。
「お兄様! どこまで行ってたんですか?」
「すぐそこだよ」
「思ったより早く列が進んだんですよ~」
「それで、それ全部買ったの……?」
ルナの片手には焼いた肉の串。
もう片方にはパンと、正体のよく分からない揚げ物があった。
「待ってる間にお腹が空くかもしれないじゃないですか~」
「朝ご飯食べてから、そんなに経ってないけど」
「市場を歩き回って、たくさん歩いたので疲れました」
「どれだけ歩いたっていうんだ……」
ルナは肉串を一口食べた。
「お兄様も食べます?」
「うーん……少しだけ」
「やっぱり食べると思いました」
……なんだか負けたような気分だ。
俺はルナから肉を一切れもらって食べた。
香辛料の味が強かったが、かなり美味しい。
「美味しくないですか?」
「うん」
「じゃあ、もう一本買ってきます?」
「いや」
「どうしてです?」
「今日の夕食はアイアンファングベアを食べるんだろ?」
ルナの動きが止まった。
「……そうだった!」
ようやく思い出したらしい。
「お腹を空けておかないと」
「そ、それできるの?」
「もちろんです!」
まったく信用できない。
そうして、俺たちは再び市場を見て回った。
初めて見る物も多かったし、初めて食べる物も多かった。
ラグナは本当に、一日くらいでは全部を見ることのできない街だった。
そして、その日市場で起きた小さな出来事についても、俺は長く考えることはなかった。
ただ、転びそうになった女の子を一度助けただけ。
その時の俺は、それがいつか思い出すことになる出会いだなんて、まったく思っていなかった。
……まあ、今はそれよりも……。
「お兄様! 夕食は何時からでしょう?」
アイアンファングベアの肉を待ちきれない妹を、先に止めるほうが重要な問題だけど。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!




