森の魔物は子供を守っていました!
クリムゾンボアを追い払った存在が、一体だけだと思っていたこと自体、間違いだったのかもしれない。
森の奥から、二つの鳴き声が重なって聞こえてきた。
一つは短く鋭い声。
そしてもう一つは、地の底まで響くような低く荒々しい咆哮だった。
バルクさんが弓に矢をつがえた。
「全員! 間隔を保ったまま、ゆっくり進むぞ」
「あ、あちらへ行くんですか?」
ドランさんが緊張した顔で尋ねた。
「ここまで来た以上、確認もせずに引き返すわけにはいかない」
「それはそうですが……」
ドランさんは巨大な盾を前へ構えた。
「さっきの青い奴だけでも、クリムゾンボアより遥かに大きく見えたぞ……」
「だからこそ、より慎重に進む必要がある」
バルクさんはセラさんを見た。
「痕跡は?」
「二種類あるわ……」
セラさんが地面を調べながら答えた。
「さっき見た青い毛の魔物が残した足跡と、それより遥かに重い、別の足跡」
彼女は折れた木のそばに残る痕跡を指さした。
青い魔物の足跡は大きく深かったが、形は一定だった。
一方、もう一つの足跡は、地面を踏み潰すように刻まれている。
指は三本。
それぞれの爪痕は、剣のように長かった。
「二頭が戦ったみたいです!」
ルナが言った。
「それが分かるのか?」
俺が尋ねると、ルナは頷いた。
「魔力同士が絡み合っていた痕跡があります。青い魔物の雷の魔力と、向こうから感じる濁った魔力です」
「濁った魔力?」
メルヴィンさんが緊張したように唾を飲み込んだ。
「そんなものまで区別できるんですか?」
「はい~。嫌な匂いみたいな感じがするんです」
「魔力から匂いを感じると……?」
メルヴィンさんは、また理解できないという顔になった。
「ルナは、昔からそういうものを感じ取るのが得意なんです」
俺が言うと、メルヴィンさんがこちらを見た。
「リオンさんも感じられるんですか?」
「いいえ」
「そ、そうですか……」
何だか少し安心したような顔をしているけど、どうしてだ……?
俺たちは鳴き声が聞こえた方向へ進んだ。
森の奥へ入るほど、折れた木が増えていく。
根元から引き抜かれている木もあれば、幹の中央が黒く焼けて倒れている木もあった。
地面のあちこちには青い毛と黒い血が落ちている。
「血がある……!」
セラさんが地面を指さした。
「青い毛が付いているところを見ると、さっき見た魔物の血みたいね」
「負傷しているということか?」
カルドさんが尋ねた。
「傷は軽くなさそうです」
バルクさんの表情が険しくなった。
「ふむ……負傷した魔物は、普段より遥かに危険だ。追い詰められれば、見境なく襲いかかってくることもある」
俺は昨夜、クリムゾンボアの後ろ脚に残っていた傷を思い出した。
クリムゾンボアを傷つけたのは、おそらくあの青い魔物だろう。
そして、その魔物に傷を負わせた別の存在が、この森の中にいる。
「お兄様」
ルナが俺の顔を見た。
「どうして笑っているんですか?」
「いや、俺は真剣だけど」
「……?」
「……ただ、どんな奴なのか気になっただけだよ」
「はい~。私も気になります~」
ルナも楽しそうに笑った。
そばにいたドランさんが、俺たちを見ながら呟いた。
「あの兄妹は、緊張というものを知らないのか……」
「そのくらい知っています!」
ルナが答えた。
「初めて食べる料理が出てくる直前は、本当に緊張します」
「俺が言っている緊張は、そういうものじゃない……」
その時、先を歩いていたセラさんが突然片手を上げた。
「皆さん、止まってください」
全員が即座に足を止めた。
前方から、何かが折れる音が聞こえた。
バキッ。
グルルルル……。
木々の間で青い光が閃いた。
調査隊は一斉に武器を構えた。
バルクさんは弓を引き絞り、ドランさんは盾を地面へ立てる。
メルヴィンさんの手のひらには、小さな炎が浮かび上がった。
俺とルナも前を見た。
しばらくして、木々の間から巨大な魔物が姿を現した。
狼と獅子を混ぜ合わせたような姿だった。
体格はクリムゾンボアほどもあり、全身が濃い青色の毛で覆われている。
背中と首の周囲の毛は稲妻のように鋭く逆立ち、四本の脚の爪の間では青い電流が弾けていた。
だが、状態はよくなかった。
左の前脚には深い傷があり、脇腹の毛は血に濡れて黒ずんだ赤色へ変わっている。
「あ、あれは……!」
バルクさんが息を呑んだ。
カルドさんも緊張した表情を浮かべている。
「知っている魔物なんですか?」
俺が尋ねると、カルドさんは首を横に振った。
「実物を見るのは初めてだ。だが、古い図鑑で似た魔物を見たことがある」
「名前は何ですか?」
「確か……『サンダーレオ』だったはずだ」
青い魔物が、俺たちへ向かって牙を剥いた。
「グルルルル……」
周囲の毛が逆立ち、稲妻がさらに強くなる。
バチッ。バチバチッ。
ドランさんが盾の後ろへ身体を隠した。
「攻撃が来るぞ!」
「待ってください!」
ルナが叫んだ。
「あの魔物、私たちを攻撃しようとしているわけではありません!」
「な、何だと? 牙まで剥いているのに?」
「怖がっているんです」
ルナはサンダーレオの後ろを見た。
俺もそちらへ視線を移す。
巨大な木の根の下に、小さな青い毛玉がうずくまっていた。
最初はサンダーレオから抜け落ちた毛だと思った。
だが、それは小さく身体を震わせていた。
「子供だ!」
俺は声を上げた。
成体の脚よりも小さな、サンダーレオの子供だった。
まだ目も完全には開いていないようで、前脚の一本には傷がある。
成体のサンダーレオは、俺たちと子供の間へ立ち塞がっていた。
傷ついた身体でも、絶対に退こうとはしない。
「子供を守っていたのか……」
バルクさんがゆっくりと弓を下ろした。
他の調査隊員たちも状況を理解したのか、少しずつ武器を下げていく。
ルナが一歩前へ出た。
「私が治してあげます」
すると、サンダーレオが大きく咆哮した。
「ガアアアアアッ!」
青い稲妻が周囲へ弾け飛んだ。
バキィッ!
近くの木が一本、雷を受けて真っ二つに裂けた。
「ルナ!」
俺はすぐにルナの前へ立った。
だがルナは、俺の背後からサンダーレオを見つめていた。
「大丈夫です、お兄様! 攻撃しようとしているわけではありません」
「今、木が裂けたけど?」
「あれは……警告です」
「……警告にしては強すぎないか?」
ルナは俺の横から顔を覗かせた。
「私たちは、あなたの子供を傷つけに来たんじゃありません!」
当然、魔物が人間の言葉を理解するとは思っていなかった。
だが、サンダーレオの耳がわずかに動いた。
唸り声も、ほんの少しだけ弱くなる。
「まさか、言葉を理解しているのか?」
メルヴィンさんが驚いて呟いた。
「高位の魔物の中には、人の言葉を理解する個体もいると聞いたことがあるわ……」
セラさんが言った。
「でも、ここまで反応する個体は初めて見るわね……」
ルナは手のひらに小さな光を浮かべた。
治癒魔法だ。
「これは傷を治す魔法です」
サンダーレオが、その光を見つめた。
まだ警戒はしているが、先ほどのように稲妻を放つことはなかった。
「先に、お兄様を治してみましょうか?」
「俺は怪我してないけど……」
「では、傷を作ればいいですか?」
「いやいや、わざわざ作る必要はない」
ルナは少し考えた後、周囲を見回した。
ちょうどドランさんの腕に、小さな傷があった。
昨日負ったものなのか、包帯の下から少し血が滲んでいる。
「ドランさん、少しだけいいですか?」
「ん?」
ルナがドランさんの腕へ手を当てた。
温かな光が広がると、傷は一瞬で消えた。
サンダーレオは、その様子をじっと見ていた。
「ほら。傷つけたりしません」
ルナが再び前へ進んだ。
ザッ。
ザッ。
サンダーレオは低く唸っていたが、今度は攻撃してこなかった。
ルナは奴のすぐ前まで近づくと、ゆっくりと膝をついた。
「子供から治してもいいですか?」
サンダーレオは、ルナの目を見つめた。
そして、しばらくすると、ごくゆっくりと横へ退いた。
「信じてくれたみたいです!」
ルナは嬉しそうに子供へ近づいた。
俺は念のため、ルナのすぐ後ろをついていった。
近くで見ると、子供の傷は思っていたより深かった。
前脚には黒い何かで切りつけられたような傷があり、その周囲は紫色に変色していた。
「かなり強い毒です……!」
ルナが驚いたように言った。
「治せるか?」
「はい。でも、少し時間がかかりそうです」
ルナは両手で子供を包み込み、治癒魔法を使った。
白い光が子供の全身を覆う。
紫色に変わっていた皮膚が、少しずつ元の色へ戻っていった。
「キュウ……」
子供が小さな声で鳴いた。
成体のサンダーレオが、心配そうに頭を下げる。
ルナは集中したまま、魔力を流し続けた。
「もう少しだけ我慢してね」
その時、森の反対側で木が倒れる音が響いた。
バキバキッ!
先ほど聞こえた低く荒々しい鳴き声が、再び響き渡る。
「グオオオオオ……!」
サンダーレオの身体が、すぐに強張った。
奴は子供の前へ立ち塞がり、森へ向かって牙を剥く。
バルクさんが再び弓を構えた。
「来るぞ!」
地面が揺れた。
ドン。
ドン!
ドンッ!!
木々の間から、黒い影が近づいてくる。
「子供へ毒を残した奴だろうな……!」
カルドさんが槍を構えた。
メルヴィンさんが緊張した声で言った。
「強力な毒を使えて、しかもあれほど巨大な魔物なんて……」
巨大な木が一本、横倒しになった。
その後ろから、魔物が姿を現した。
黒い鱗に覆われた、巨大な蜥蜴型の魔物だった。
体長はサンダーレオよりも長く、背中には鋸の刃のような鋭い棘が並んでいる。
太く長い尻尾の先には、黒い液体を滴らせる毒針が付いていた。
奴が口を開けると、その奥から紫色の唾液が流れ落ちた。
「ヴ、ヴェノムドレイクだ……!」
バルクさんの顔が青ざめた。
「知っているんですか?」
「Bランク上位の魔物だ。クリムゾンボアより遥かに危険だぞ」
ヴェノムドレイクは俺たちを見ていなかった。
奴の視線は、サンダーレオと、その背後にいる子供だけへ向けられている。
サンダーレオが傷ついた身体で前へ出た。
だが、前脚が震えていた。
この状態で再び戦えば、絶対に勝てないだろう。
俺は剣を抜き、サンダーレオの前へ立った。
「今度は俺たちが戦う!」
サンダーレオが俺を見た。
「お兄様!」
子供を治療していたルナが言った。
「お肉を傷めないようにすること、分かっていますよね~?」
「今もその心配なのか!?」
本当にぶれないな。
ヴェノムドレイクが大きく口を開いた。
紫色の毒液が、口の中へ集まり始める。
「全員、避けろ!」
バルクさんが叫んだ。
だが、毒液が狙っていたのは調査隊ではなかった。
動けないサンダーレオの子供だ。
俺は地面を蹴った。
毒液が吐き出されるのと同時に、子供の前へ飛び込む。
そして、剣を大きく振り抜いた。
ドォン!
剣風に押し返された毒液が、左右の木々へ降りかかった。
ジュウウウッ!
木と草が、一瞬で黒く溶け落ちた。
周囲が静まり返った。
ドランさんが震える声で言った。
「い、今……毒を剣で吹き飛ばしたのか?」
俺はヴェノムドレイクを見据え、剣を構えた。
奴も俺が邪魔だと気づいたのか、今度はこちらへ顔を向けた。
「グオオオオオッ!」
ヴェノムドレイクが咆哮しながら襲いかかってきた。
俺は剣を両手で握った。
「ルナ、子供を頼む!」
「はい! お兄様はお肉をお願いします~!」
……それは倒してから考えよう。
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