第八話 香草室の証言
マーサが小広間に呼ばれたのは、ジューンが退いた少しあとだった。
その間にも、廊下では足音が絶えなかった。
門を固めろ。
街道へ人を出せ。
森の捜索範囲を広げろ。
閉じた扉越しに、兵を走らせる命令が響いている。
香草室の古参使用人であるマーサは、いつもの黒い仕事着のまま現れた。
白髪交じりの髪をきっちりと結い、腰には古びた鍵束を下げている。袖口には、乾いた葉の粉が薄くついていた。
広間の張り詰めた空気を見ても、マーサは取り乱さなかった。
ただ、眉間の皺を少し深くした。
「マーサ」
「はい、旦那様」
「リリアは、昨日一日どうしていた」
「朝は薬湯用の葉の仕分けをしておりました。その後、女中頭の許可で香草園へ。戻ってからは棚の整理、軟膏の準備、乾燥葉の仕分けです」
「目を離した時間は」
「庭へ出ていた間と、自室へ戻したあとでございます」
「庭へ出したのはジューンだな」
「はい」
「おまえは止めなかったのか」
マーサは少しだけ顎を引いた。
「香草が必要でしたので」
「アンが近づく可能性は考えなかったか」
「アン様が地下の香草室や、温室裏の香草園へおいでになるとは、普通は考えません」
広間の空気が、わずかに硬くなる。
ハインリヒの目が細くなった。
「普通は、か」
「はい」
マーサは淡々と答えた。
「貴族のお嬢様がおいでになる場所ではございません。土は濡れておりますし、薬草の匂いも強い。薔薇園ならともかく、あの場所へ来られるとは思いませんでした」
「だが、来た」
「そのようでございます」
「リリアはアンを引き止めたか」
「私は見ておりません」
「本人から聞いていないのか」
「アン様がお見えになったとは聞きました。戻るよう申し上げたとも」
「それを信じるのか」
マーサは、わずかに眉を上げた。
「仕事の報告で、嘘をついたことはございませんので」
「仕事の報告では、か」
「それ以外のことを、あの子はあまり話しません」
その言い方には、哀れみも愛情もなかった。
マリアンネは黙って聞いていた。
ジューンの言葉には、隠した熱があった。
マーサの言葉には、それがない。
だからこそ、余計にごまかしが見えにくい。
ハインリヒは机の上に置かれた帳面へ目を落とした。
「香草室には、眠り薬に使えるものがあるな」
「ございます」
マーサは即答した。
広間に控えていた使用人の一人が、わずかに息を呑む。
「毒になるものは」
「ございます」
「人を眠らせるものも、熱を出させるものも、幻を見せるものもか」
「扱い方次第では」
「リリアは、それを知っているか」
「知っております」
ハインリヒの目が冷えた。
「隠さないのだな」
「隠しても仕方ございません。香草室で働く者なら、効能を知らねば仕事になりません」
「アンを外へ誘い出すために、何かを使った可能性は」
「低いと存じます」
「理由は」
マーサは腰の鍵束へ手を添えた。
「眠り根、幻惑草、強い鎮痛作用のある花弁は、すべて鍵付きの棚で管理しております。鍵は私が持っております。昨日の朝も夕方も数を確認しました。減っておりません」
「リリアが鍵を盗んだ可能性は」
「ございません」
「なぜ言い切れる」
「盗めるほど器用なら、あの子はもっと上手に生きております」
広間が一瞬、静まり返った。
ハインリヒの視線が鋭くなる。
マーサはすぐに頭を下げた。
「失礼いたしました。ですが、リリアは薬草の扱いには長けておりますが、人を騙すことには向いておりません」
「おまえは、あの子をかばうのか」
「いいえ」
マーサは顔を上げた。
「あの子の仕事について申し上げております」
その返答に、マリアンネはわずかに目を動かした。
ジューンは情で守る。
マーサは仕事で守る。
そういう女なのだと思った。
ハインリヒは帳面を閉じた。
「リリアは昨日、何か変わった様子を見せたか」
「朝から顔色が悪うございました」
「それだけか」
「庭から戻ったあと、木札を強く握っておりました」
「木札?」
「香草園採集許可の木札です」
「なぜ握っていた」
「分かりません」
「怯えていたのか」
「……そう見えました」
ハインリヒの目が、わずかに動く。
「何に」
「それは、私には」
「アンと会ったことにか」
「分かりません」
「ヨーゼフに何か言われたか」
マーサは、答えるまでにわずかな間を置いた。
「ヨーゼフ様と、香草園で言葉を交わしたとは聞きました」
「内容は」
「体調、仕事、右腕のことを聞かれたと」
その場にいた者たちの視線が、わずかに揺れた。
マリアンネは父を見た。
ハインリヒの表情は変わらない。
だが、肘掛けに置いた指だけが止まっていた。
「リリアは、それをどう受け止めていた」
「怖がっておりました」
「ヨーゼフをか」
「右腕を聞かれることを、でございます」
マーサの声は、そこでわずかに硬くなった。
「リリアは痣を見られることを嫌がります。検分されるように扱われると、手が震えます。あれでは薬草の仕分けにも支障が出ます」
「仕事の心配か」
「はい」
マーサは即答した。
「地下では、あの子の手が必要です」
情ではない。
そう言い切るような声だった。
けれど、マリアンネには分かった。
この女は、情という言葉を使わないだけだ。
ハインリヒは冷たく言った。
「仕事に必要だから、疑うなと?」
「いいえ。疑うなら、仕事と事実を見てからにしていただきたいのです」
「事実」
「はい」
マーサは腰の鍵束を握った。
「薬草は減っておりません。眠り薬も毒草も、鍵付きの棚にございます。リリアは夕刻には香草室におりました。体調は悪く、右腕を押さえていた。アン様を探しに出られるような様子ではございませんでした」
「様子では、証拠にならん」
「承知しております」
「ならば黙っていろ」
「はい」
マーサは頭を下げた。
それでも、最後に一言だけ付け加える。
「ですが、あの子が薬草を使ったなら、必ず痕跡が残ります。香り、粉、瓶、棚の乱れ。私は見落としません」
ハインリヒは、しばらくマーサを見つめていた。
「自信があるのだな」
「香草室のことだけは」
マーサは静かに答えた。
「私の領分でございます」
広間に沈黙が落ちた。
ハインリヒは、やがて手を振った。
「下がれ。香草室の薬棚と帳面を確認させる。記録はすぐにオットーへ提出しろ」
「かしこまりました」
マーサは深く頭を下げた。
扉へ向かいかけた時、ハインリヒが呼び止める。
「マーサ」
「はい」
「あの子を、どう見ている」
マーサは振り返った。
少しだけ考え、それから答えた。
「手のかかる子でございます」
ハインリヒの眉が動く。
「それだけか」
「はい」
マーサは表情を変えなかった。
「手はかかります。顔色は悪い。人付き合いは下手。時折ぼんやりします。けれど、教えたことは覚えます。薬草を粗末にしません。怪我人に渡す軟膏の量を間違えたこともありません」
そこで一度、言葉を切る。
「香草室では、役に立つ子でございます」
褒め言葉には聞こえなかった。
だが、否定にも聞こえなかった。
マーサはもう一度頭を下げ、小広間を出ていった。
扉が閉まる。
ハインリヒは、しばらく無言だった。
マリアンネが口を開く。
「お父様」
「何だ」
「マーサは嘘をついていると思われますか」
「分からん」
ハインリヒは低く言った。
「だが、あの女は少なくとも、香草室については嘘をつかない」
「では、リリアが薬草を使った可能性は」
「低いだろうな」
マリアンネは、閉じた扉を見つめた。
ジューンは、リリアを守るために黙った。
マーサはリリアを守るためではなく、香草室の秩序を守るために話した。
けれど結果として、二人とも同じ少女の前に立っている。
「リリアは、守られているのですね」
マリアンネがそう言うと、ハインリヒの顔が険しくなった。
「守られているのか、隠されているのか」
窓の外では、白い霧が屋敷の庭を覆っていた。
その向こうにいるはずのアンの姿も。
地下に閉じ込められたリリアの過去も。
今はまだ、何一つ見えなかった。




