表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/10

第七話 あの女との約束

 リリアが連れて行かれたあと、小広間にはしばらく誰の声もなかった。


 ハインリヒは椅子に腰を下ろし、指先で肘掛けを叩いている。


「ジューン」


「はい」


 女中頭のジューンが、一歩前へ出た。


 背筋はまっすぐ伸びている。


 顔色も変わらない。


 長年この屋敷に仕えてきた女の、乱れのない姿だった。


 けれど、マリアンネは気がついた。


 ジューンの両手が、前掛けの布を強く握っている。


「昨日の朝、リリアを庭へ出したのはおまえだな」


「はい。私でございます」


「理由は」


「香草室の薬草が切れかけておりました。朝露の残るうちに摘ませる必要がございました」


「アンがそこへ行く可能性は考えなかったのか」


 ジューンのまぶたが、わずかに下がった。


「アン様はその前の晩、遅くまで起きていらっしゃいました。昼頃まではお休みになると判断いたしました」


「判断を誤ったわけだ」


「はい」


 短い返事だった。


 ハインリヒは、しばらく次の言葉を待った。


「それだけか」


 ジューンは答えなかった。


「おまえは、この屋敷の女中頭だ。使用人の動きも、奥の事情も、誰より把握している。アンがリリアに会いたがっていたことを、本当に知らなかったのか」


「アン様は、お優しい方です」


「聞いていることに答えろ」


 ジューンは静かに頭を下げた。


「……リリアを気にかけておられることは、存じておりました」


「ならば、なぜ近づけた」


「近づけたのではございません。リリアは香草園へ出ただけでございます」


「言葉遊びをするな」


 ハインリヒの声が低くなる。


「結果として、アンはリリアに会った」


「はい」


「その後、アンは消えた」


 ジューンの肩が、ほんのわずかに強張った。


 それは一瞬だった。


 すぐに、いつもの女中頭の顔へ戻る。


「旦那様。リリアがアン様を連れ出した事実はございません」


「まだ誰も、そうとは言っていない」


 ハインリヒは冷たく言った。


「なぜ、先にかばう」


 ジューンは唇を閉じた。


 広間の隅で、マリアンネは静かに二人を見ていた。


 父はジューンを責めている。


 けれど、ジューンは恐れているのではない。


 守っている。


 誰を。


 リリアを。


 それとも、他の何かを。


「ジューン」


 ハインリヒは言った。


「おまえは、リリアに情を移しすぎた」


 ジューンの表情が、初めてわずかに揺れた。


「私は、屋敷の命に従っております」


「屋敷の命か。私の命か」


「どちらも、でございます」


「アンが消えたと知らされる前、リリアは香草室横の小部屋を出たか」


「私が最後に確認した時は、部屋におりました」


「その後は」


「見張りを置くまでは、確かめようがございません」


「紙とインクは」


「香草瓶の札を書くための小紙片と、記録用のインクはございます」


「リリアは手紙を書けるな」


「書けます」


 ハインリヒは、しばらく無言でジューンを見た。


 ジューンは続けた。


「ですが、アン様を呼び出す手紙を書く子ではございません」


「それは事実か、情か」


 ジューンは一瞬だけ黙った。


「両方でございます」


 部屋の空気が、わずかに張り詰めた。


 ハインリヒは何も言わなかった。


「旦那様」


 ジューンの声は静かだった。


「今は、アン様をお探しになることが第一でございます」


「話を逸らすな」


 ハインリヒは立ち上がった。


「三年前、おまえはリリアをかばった。アンが倒れたあの日も、おまえは同じ目をしていた。あれは助けようとしただけだ、と。悪意はなかった、と」


 ジューンは目を伏せた。


「今も同じことを言うつもりか」


「リリアに、アン様を害する意思はございません」


「意思がなければ許されるのか」


 ハインリヒの声が鋭くなる。


「力が暴れれば、人は傷つく。あの子が望もうと望むまいと関係ない。三年前、アンは死にかけた。そして今また、アンが消えた」


「リリアも苦しんでおります」


「苦しんでいれば、疑わなくてよいと?」


「いいえ」


 ジューンは静かに言った。


「ですが、あの子を人として扱わずに、真実は出ません」


 ハインリヒの目に怒りが浮かぶ。


「人として扱っていないと言うのか」


 ジューンはすぐに頭を下げた。


「出過ぎたことを申しました」


「本当にそうだ」


 ハインリヒは低く言った。


「おまえは昔からそうだ。奥に仕える者でありながら、時折、主人を裁く者のような目をする」


「そのようなつもりはございません」


「ならば命じる。今後、リリアの痣の確認はマーサに任せる。記録はヨーゼフに提出させる」


 ジューンの手が、前掛けを握りしめた。


「旦那様」


「不服か」


「……リリアは、痣を見られることをひどく嫌がります」


「嫌がるかどうかの問題ではない」


「興味本位で見られれば、あの子は傷つきます」


「興味本位ではない。確認だ」


「確認という名であっても、傷つくものはございます」


 ハインリヒは、しばらくジューンを見つめた。


「やはり、おまえはリリアに近すぎる」


 ジューンは顔を上げなかった。


「今後、おまえをリリアの管理から外すことも考える」


 その言葉に、初めてジューンが顔を上げた。


「それだけは、ご容赦ください」


 声は小さかった。


 けれど、広間にはっきりと響いた。


 ハインリヒの表情が険しくなる。


「なぜだ」


 ジューンは一瞬、言葉を失った。


 マリアンネは、その沈黙の中に答えがあるような気がした。


「リリアは……私が育てました」


 ジューンは、ようやく言った。


「ならば、なおさら距離を置け」


「旦那様」


「情は判断を曇らせる」


「情を奪えば、人は壊れます」


 また、沈黙が落ちた。


 ハインリヒはジューンを見下ろしていた。


 怒りだけではない。


 疲労と、恐怖と、悔恨のようなものが、その顔に薄く浮かんでいる。


「アンが戻らなければ」


 ハインリヒは言った。


「私は、あの子を守るために必要なことをする」


 あの子。


 それがアンを指すのか、リリアを指すのか。


 マリアンネには、一瞬だけ分からなかった。


 ジューンは深く頭を下げた。


「承知しております」


「本当に承知しているのか」


「はい」


「ならば、リリアをかばうな。隠し事は許さない。私に黙って動けば、おまえでも罰する」


「心得ました」


 ジューンは最後まで声を乱さなかった。


 だが、退室を命じられて扉へ向かう時、マリアンネは見た。


 固く握られている前掛けの布から、指先だけが、糸が切れたように震えていた。


 扉へ手をかけたところで、ハインリヒが低く呼び止めた。


「ジューン」


 女中頭は振り返った。


「まだ、あの女との約束に縛られているのか」


 ジューンの顔から表情が消えた。


 ほんの一瞬。


 長年ローゼンベルク家に仕えてきた女中頭ではない、別の顔が見えた。


「……私は、ローゼンベルク家に仕える者でございます」


 ジューンはそう答えた。


 それ以上は何も言わず、扉の向こうへ消えた。


 重い扉が閉まる。


 広間に残されたマリアンネは、父を見た。


「お父様」


「何だ」


「あの女、とは誰のことですか」


 ハインリヒは答えなかった。


 ただ、窓の外に沈む白い霧を見ていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ