第七話 あの女との約束
リリアが連れて行かれたあと、小広間にはしばらく誰の声もなかった。
ハインリヒは椅子に腰を下ろし、指先で肘掛けを叩いている。
「ジューン」
「はい」
女中頭のジューンが、一歩前へ出た。
背筋はまっすぐ伸びている。
顔色も変わらない。
長年この屋敷に仕えてきた女の、乱れのない姿だった。
けれど、マリアンネは気がついた。
ジューンの両手が、前掛けの布を強く握っている。
「昨日の朝、リリアを庭へ出したのはおまえだな」
「はい。私でございます」
「理由は」
「香草室の薬草が切れかけておりました。朝露の残るうちに摘ませる必要がございました」
「アンがそこへ行く可能性は考えなかったのか」
ジューンのまぶたが、わずかに下がった。
「アン様はその前の晩、遅くまで起きていらっしゃいました。昼頃まではお休みになると判断いたしました」
「判断を誤ったわけだ」
「はい」
短い返事だった。
ハインリヒは、しばらく次の言葉を待った。
「それだけか」
ジューンは答えなかった。
「おまえは、この屋敷の女中頭だ。使用人の動きも、奥の事情も、誰より把握している。アンがリリアに会いたがっていたことを、本当に知らなかったのか」
「アン様は、お優しい方です」
「聞いていることに答えろ」
ジューンは静かに頭を下げた。
「……リリアを気にかけておられることは、存じておりました」
「ならば、なぜ近づけた」
「近づけたのではございません。リリアは香草園へ出ただけでございます」
「言葉遊びをするな」
ハインリヒの声が低くなる。
「結果として、アンはリリアに会った」
「はい」
「その後、アンは消えた」
ジューンの肩が、ほんのわずかに強張った。
それは一瞬だった。
すぐに、いつもの女中頭の顔へ戻る。
「旦那様。リリアがアン様を連れ出した事実はございません」
「まだ誰も、そうとは言っていない」
ハインリヒは冷たく言った。
「なぜ、先にかばう」
ジューンは唇を閉じた。
広間の隅で、マリアンネは静かに二人を見ていた。
父はジューンを責めている。
けれど、ジューンは恐れているのではない。
守っている。
誰を。
リリアを。
それとも、他の何かを。
「ジューン」
ハインリヒは言った。
「おまえは、リリアに情を移しすぎた」
ジューンの表情が、初めてわずかに揺れた。
「私は、屋敷の命に従っております」
「屋敷の命か。私の命か」
「どちらも、でございます」
「アンが消えたと知らされる前、リリアは香草室横の小部屋を出たか」
「私が最後に確認した時は、部屋におりました」
「その後は」
「見張りを置くまでは、確かめようがございません」
「紙とインクは」
「香草瓶の札を書くための小紙片と、記録用のインクはございます」
「リリアは手紙を書けるな」
「書けます」
ハインリヒは、しばらく無言でジューンを見た。
ジューンは続けた。
「ですが、アン様を呼び出す手紙を書く子ではございません」
「それは事実か、情か」
ジューンは一瞬だけ黙った。
「両方でございます」
部屋の空気が、わずかに張り詰めた。
ハインリヒは何も言わなかった。
「旦那様」
ジューンの声は静かだった。
「今は、アン様をお探しになることが第一でございます」
「話を逸らすな」
ハインリヒは立ち上がった。
「三年前、おまえはリリアをかばった。アンが倒れたあの日も、おまえは同じ目をしていた。あれは助けようとしただけだ、と。悪意はなかった、と」
ジューンは目を伏せた。
「今も同じことを言うつもりか」
「リリアに、アン様を害する意思はございません」
「意思がなければ許されるのか」
ハインリヒの声が鋭くなる。
「力が暴れれば、人は傷つく。あの子が望もうと望むまいと関係ない。三年前、アンは死にかけた。そして今また、アンが消えた」
「リリアも苦しんでおります」
「苦しんでいれば、疑わなくてよいと?」
「いいえ」
ジューンは静かに言った。
「ですが、あの子を人として扱わずに、真実は出ません」
ハインリヒの目に怒りが浮かぶ。
「人として扱っていないと言うのか」
ジューンはすぐに頭を下げた。
「出過ぎたことを申しました」
「本当にそうだ」
ハインリヒは低く言った。
「おまえは昔からそうだ。奥に仕える者でありながら、時折、主人を裁く者のような目をする」
「そのようなつもりはございません」
「ならば命じる。今後、リリアの痣の確認はマーサに任せる。記録はヨーゼフに提出させる」
ジューンの手が、前掛けを握りしめた。
「旦那様」
「不服か」
「……リリアは、痣を見られることをひどく嫌がります」
「嫌がるかどうかの問題ではない」
「興味本位で見られれば、あの子は傷つきます」
「興味本位ではない。確認だ」
「確認という名であっても、傷つくものはございます」
ハインリヒは、しばらくジューンを見つめた。
「やはり、おまえはリリアに近すぎる」
ジューンは顔を上げなかった。
「今後、おまえをリリアの管理から外すことも考える」
その言葉に、初めてジューンが顔を上げた。
「それだけは、ご容赦ください」
声は小さかった。
けれど、広間にはっきりと響いた。
ハインリヒの表情が険しくなる。
「なぜだ」
ジューンは一瞬、言葉を失った。
マリアンネは、その沈黙の中に答えがあるような気がした。
「リリアは……私が育てました」
ジューンは、ようやく言った。
「ならば、なおさら距離を置け」
「旦那様」
「情は判断を曇らせる」
「情を奪えば、人は壊れます」
また、沈黙が落ちた。
ハインリヒはジューンを見下ろしていた。
怒りだけではない。
疲労と、恐怖と、悔恨のようなものが、その顔に薄く浮かんでいる。
「アンが戻らなければ」
ハインリヒは言った。
「私は、あの子を守るために必要なことをする」
あの子。
それがアンを指すのか、リリアを指すのか。
マリアンネには、一瞬だけ分からなかった。
ジューンは深く頭を下げた。
「承知しております」
「本当に承知しているのか」
「はい」
「ならば、リリアをかばうな。隠し事は許さない。私に黙って動けば、おまえでも罰する」
「心得ました」
ジューンは最後まで声を乱さなかった。
だが、退室を命じられて扉へ向かう時、マリアンネは見た。
固く握られている前掛けの布から、指先だけが、糸が切れたように震えていた。
扉へ手をかけたところで、ハインリヒが低く呼び止めた。
「ジューン」
女中頭は振り返った。
「まだ、あの女との約束に縛られているのか」
ジューンの顔から表情が消えた。
ほんの一瞬。
長年ローゼンベルク家に仕えてきた女中頭ではない、別の顔が見えた。
「……私は、ローゼンベルク家に仕える者でございます」
ジューンはそう答えた。
それ以上は何も言わず、扉の向こうへ消えた。
重い扉が閉まる。
広間に残されたマリアンネは、父を見た。
「お父様」
「何だ」
「あの女、とは誰のことですか」
ハインリヒは答えなかった。
ただ、窓の外に沈む白い霧を見ていた。




