第六話 閉ざされた白い朝
「あの部屋には戻さない」
その意味が、リリアにはすぐには分からなかった。
部屋へ戻れない。
ハインリヒは続けた。
「香草室には薬草がある。刃物がある。瓶も、紐も、紙もある。お前が何を知っているか分からない以上、あそこへ戻すことはできない」
息を止めたまま、言葉が出てこない。
香草室横の小部屋は、地下の冷たい部屋だった。
罰のような場所だった。
けれど、唯一リリアに許された場所でもあった。
そこが、取り上げられる。
「では、どちらへ」
ヨーゼフが問う。
「果実貯蔵室へ」
部屋の空気が、少し変わった。
マリアンネが父を見る。
「お父様」
ハインリヒは娘を見なかった。
「厨房奥の果実貯蔵室は鍵がかかる。窓は高く、小さい。刃物も薬草も置いていない。見張りを二人つけろ」
「ですが、あそこは」
マリアンネが言いかける。
果実貯蔵室。
厨房の奥にある、冷えた石造りの部屋。
林檎や梨、干した果実を置いておく場所。
人が長くいる場所ではない。
「一時的な措置だ」
ハインリヒは言った。
「アンが見つかるまで」
イザベラが目を伏せた。
マリアンネは一歩前へ出た。
「お父様。せめて香草室の小部屋に見張りを置く形では」
「駄目だ」
「リリアはまだ疑いの段階です」
「だから殺さず、追放もせず、閉じ込めるだけにしている」
その言葉に、リリアの身体が凍った。
殺さず。
追放もせず。
閉じ込めるだけ。
まるで、物の扱いを決めているかのようだった。
マリアンネの顔色が変わる。
「お父様」
「マリアンネ」
ハインリヒの声が低くなる。
「私は父としてではなく、当主として判断している」
マリアンネは唇を噛み、腰の剣の鞘を強く握った。
けれど、それ以上は何も言わなかった。
「ヨーゼフ」
「は」
「連れていけ」
リリアは頭を下げた。
ヨーゼフが扉へ向かう。
その靴音だけで、リリアの背中が強張る。
一。
二。
三。
ハインリヒの声が、背後から落ちた。
「リリア」
リリアは振り返らずに止まった。
「アンが戻らなければ」
声が一度、途切れる。
「今度は、処罰では済まない」
イザベラが小さく息をのんだ。
マリアンネも父を見た。
リリアは、ただ頭を下げた。
「……はい」
それ以外、言葉がなかった。
扉が開く。
小広間の外には、ジューンが立っていた。
彼女はまず、リリアの拘束された手首を見た。
それから、リリアの顔を見る。
何かを言いかけて、飲み込んだ。
「果実貯蔵室へ」
ヨーゼフが短く告げた。
ジューンの表情が、初めてはっきりと変わる。
「果実貯蔵室、ですか」
「旦那様の命令だ」
ジューンは、唇を引き結んだ。
けれど、リリアへ近づくことはできなかった。
小広間の中から、ハインリヒの声がした。
「ジューン」
ジューンの足が止まる。
「お前は残れ。次はお前に聞く」
ジューンはリリアを見た。
その目に、ほんの一瞬だけ迷いが浮かぶ。
けれど女中頭は、主人の命令に背けない。
「……かしこまりました」
ジューンは深く頭を下げた。
それから、廊下の端に控えていた若い女中を呼び寄せた。
「果実貯蔵室へ毛布を二枚。水差しと杯も。急ぎなさい」
声は低かったが、ヨーゼフにも聞こえていた。
そして、リリアにだけ聞こえるほど低く言う。
「歩けますね」
リリアは頷いた。
「……はい」
「倒れてはいけません」
厳しい声だった。
けれど、リリアには分かった。
それは歩けという命令ではなく、倒れないでほしいという願いだった。
ヨーゼフが先を歩き、護衛二人がリリアの後ろに続いた。
「来い」
リリアは歩き出した。
ジューンは、扉の前で、リリアが廊下の角を曲がるまで、ただ静かに見送っていた。
◆
リリアは手首を結ばれたまま、屋敷の廊下を歩いていた。
廊下の角を曲がった時だった。
水差しと替えの布を載せた盆を持った従僕見習いが、向こうから歩いてきた。
ヴィクトルだった。
リリアは思わず足を止めかけた。
ヴィクトルも、一瞬だけ動きを止めた。
彼の視線が、リリアの顔ではなく、まず手首へ落ちる。
黒い革紐。
前で結ばれた両手。
乱れた袖口。
わずかに見えた痣。
ほんの一瞬だった。
次の瞬間には、ヴィクトルは従僕見習いの顔に戻っていた。
廊下の端へ身を引き、深く頭を下げる。
「失礼いたします」
声は落ち着いていた。
ヨーゼフがヴィクトルを見た。
「どこへ行く」
「小広間へ。替えの水と布を運ぶよう、オットー様に命じられました」
ヴィクトルは顔を上げない。
「札ではないな」
「はい。直接です」
リリアは、その横を通り過ぎようとした。
すれ違う瞬間、ヴィクトルの唇がほとんど動かないまま、息だけが落ちた。
「お足元にお気をつけください」
誰に向けた言葉か分からないほど、小さな声だった。
リリアは答えられなかった。
答えれば、ヨーゼフに気づかれる。
答えなくても、ヴィクトルには伝わる気がした。
指先だけが、わずかに震える。
ヴィクトルの目が、その震えを拾った。
けれど、彼は何も言わなかった。
従僕見習いとして頭を下げたまま、リリアを通す。
ヨーゼフが先へ進む。
「急げ」
「……はい」
リリアは歩き出した。
背後で、盆の上の水差しがかすかに鳴った。
その音が、妙に耳に残った。
誰も、この命令を止められない。
けれど、今の一瞬は、胸の奥に小さく残った。
◆
厨房脇の階段を下りるにつれ、朝の気配は遠ざかっていった。
地下のさらに奥、果実貯蔵室へ続く廊下は、昼夜の区別もなく暗い。
果実貯蔵室の扉が見えてくる。
厚い木の扉。
外側についた鉄の掛け金。
扉の前には、若い女中が二人立っていた。
一人は腕に毛布を二枚抱え、もう一人は水差しと木の杯を載せた盆を持っていた。
ヨーゼフが目を向ける。
若い女中は、緊張した顔で頭を下げた。
「余計なものはないな」
「はい。毛布と水差し、杯だけです」
ヨーゼフは室内へ足を踏み入れ、棚や床を一通り確認した。
刃物も、紐も、紙もない。
室内はすでに片づけられていた。
秋の収穫を迎える前で、貯蔵室に残っていたものは多くなかった。
林檎の木箱も、干した果実の袋も、陶器の壺も運び出され、壁際に固定された空の棚だけが残っている。
ヨーゼフが、リリアの腰元へ目を向けた。
「前掛けも外せ。紐のついた物は入れるな」
若い女中が、もう一人の女中に毛布を手渡し、リリアの背後へ回った。
腰紐がほどかれ、白い前掛けが作業着から離れていく。
毎日身につけていたものだった。
香草の粉と、乾いた葉の匂いが染みついている。
女中は作業着のポケットにも何も入っていないことを確かめた。
ヨーゼフの視線が、リリアの髪へ向いた。
「髪紐も外せ」
女中はためらいながら、黒い髪を束ねていた細紐をほどいていった。
髪は肩から背中へ落ち、乱れたまま作業着を覆った。
前掛けに続いて、髪紐まで女中の手に収まった。
毎朝、自分を使用人の姿に整えていたものが、一つずつ取り上げられていく。
リリアは、自分がもう使用人でさえなく、閉じ込められる者になったと感じた。
若い女中は、外した前掛けと髪紐を腕にまとめた。
「こちらは、どういたしましょう」
「護衛へ渡せ」
ヨーゼフが答えた。
扉の脇に立つ護衛がそれらを受け取り、前掛けのポケットをもう一度確かめる。
「オットー殿へ届けろ。没収した品として記録させ、鍵のかかる場所に置け」
「承知しました」
ヨーゼフは護衛の一人へ顎を動かした。
「外せ」
革紐がほどかれる。自由になった手首には、赤い線が残っていた。
「入れ」
リリアは中へ入った。
高い位置の換気窓には、細い鉄格子がはめられていた。
石の床から冷気が上がってくる。
甘く湿った果実の匂いが、息苦しいほどにこもっている。
若い女中は水差しと杯を壁際へ置いた。もう一人が毛布を一枚床へ敷き、残る一枚をその上へ畳んだ。
一度だけリリアへ目を向け、すぐに俯いた。
「……失礼します」
前掛けを持った女中が小さく言った。
二人は頭を下げ、すぐに外へ出ていった。
ヨーゼフが扉の外に立つ。
護衛二人も、扉の左右に分かれて立った。
リリアは振り返った。
廊下の向こうにあるのは、閉じていく扉だけだった。
鉄の掛け金が下ろされ、錠がかけられた。
重い音だった。
いつもの小部屋の扉は、内側からも開いた。
けれど、この扉は違う。
外側からかけられた錠の音が、白い朝を完全に閉ざした。




