第五話 リリアの名
空が白み始めた頃、扉が叩かれた。
リリアは眠ってはいなかった。
寝台に腰を下ろしただけだった。水差しの水はほとんど減っていない。昨夜、ヴィクトルが置いていった夕食にも、一口も手をつけていなかった。
扉が開く。
立っていたのはジューンだった。
その後ろに、護衛が二人。
「旦那様がお呼びです」
ジューンの声は、いつもよりさらに低かった。
「……はい」
リリアは立ち上がった。
その時、護衛の一人が黒い革紐を取り出した。
足が止まる。
「手を」
短い命令だった。
それだけで、リリアの喉が詰まった。
手首に食い込む革帯。
足の裏に触れる、冷たい石床。
背後に立つ人の気配。
空気を裂く音。
一。
二。
三。
数が、頭の中で勝手に始まる。
「リリア」
ジューンの声がした。
「前へ出しなさい」
リリアは震える両手を差し出した。
ジューンが護衛を見た。
護衛は眉を動かした。
「旦那様のご命令は、拘束して連れてくることです」
「では、前で十分です」
ジューンは引かなかった。
「ここで倒れられても困ります」
護衛は短く息を吐き、リリアの手首を前で結んだ。
強くはない。
血が止まるほどではない。
けれど、両手が自由に離れないだけで、胸の奥に恐怖が広がった。
リリアは小部屋を出た。
廊下にいた使用人たちが息をのむ。
視線が、前で結ばれた手首に集まる。
誰かが小さく囁いた。
「やっぱり……」
ジューンが振り返る。
声は止まった。
リリアは顔を上げられなかった。
革紐が手首に触れる。
その感触が、知らないはずの記憶を呼び起こした。
一。
二。
三。
「息をしなさい」
隣を歩くジューンが、リリアにだけ聞こえる声で言った。
リリアは小さく息を吸った。
応接用の小広間の前で、ジューンは足を止めた。
「聞かれたことにだけ答えなさい」
「はい」
「分からないことを、分かったふりをしてはいけません」
リリアはわずかに顔を上げた。
ジューンの顔は、いつも通り厳しかった。
「ですが、黙り込んでもいけません。旦那様は沈黙を嫌います」
「……はい」
扉の向こうから、低い声がした。
「入れ」
その声で、リリアの背中が強張った。
記憶を失ってから、ハインリヒ・ローゼンベルクと正面から向き会ったことはない。
主人一家が通る廊下に近づくことは禁じられ、庭へ出る時も、ジューンは必ず時間を選んだ。
だから、リリアはこの人を知らない。
知らないはずだった。
でも、体は知っている。
この声の前では、逆らってはいけない。
問いに詰まってはいけない。
沈黙すれば、痛みが来る。
扉が開いた。
リリアは小広間へ入った。
すぐに床へ視線を落とす。
磨かれた床に、いくつもの靴先が映っていた。
卓の向こうに立つ男の黒い靴。
壁際に控える護衛の泥のついた靴。
窓辺には、女物の淡い裾。
その隣に、細身の剣の鞘が見えた。
誰がいるのか、顔を見なくても分かった気がした。
けれど、確かめることはできない。
「顔を上げろ」
ハインリヒの声が落ちた。
リリアは、ゆっくりと顔を上げた。
卓の向こうに、ハインリヒが立っていた。
表情に乱れはない。
アンが消え、屋敷中が凍りついているというのに、彼だけは崩れていなかった。
それが怖かった。
壁際にはヨーゼフがいた。
泥のついた外套を替える暇もなかったのか、縁に森の土が残っている。夜通し屋敷の外まで捜索していたのだろう。
その姿を見た瞬間、リリアの結ばれた両手がわずかに動いた。
ヨーゼフの低い声。
逃げられない位置に立つ気配。
背後に回られる恐怖。
記憶はない。
けれど、体が覚えている。
窓際には、イザベラが座っていた。
顔色は悪く、唇には血の気がない。
それでも、その目はリリアから逸れなかった。
怒り。
恐怖。
拒絶。
その奥に、母親のどうしようもない痛みがあった。
そして、イザベラのそばに立つ女性がいた。
ローゼンベルク家の長女、マリアンネ・ローゼンベルク。
アンに似た金髪を高く結い、腰には細身の剣を帯びていた。夜通し動いていたはずなのに、立ち姿には疲れを見せていない。
リリアは、記憶を失ってから、彼女とも正面から向き合うのは初めてだった。
初めてのはずだった。
なのに、その人を見た瞬間、胸の奥が奇妙に痛んだ。
ハインリヒやヨーゼフを見た時のような恐怖ではない。
イザベラを見た時のような罪悪感でもない。
もっと遠いものだった。
廊下を走る足音。
高い位置から差し出される手。
転ばないように、と誰かが笑った声。
剣の鞘が陽に光る色。
それが記憶なのか、ただの幻なのか、分からない。
マリアンネの目も、わずかに揺れた。
「……本当に」
その先は、言葉にならなかった。
マリアンネは視線を逸らし、卓の端へ指を置いた。
卓の端では、オットーが帳面を開いていた。
先ほど小部屋で初動確認をした時と同じ、硬い顔だった。
ハインリヒは、オットーの帳面へ一度目を落とした。
「先ほど答えた内容と照合する。言葉を変えるな」
「はい」
「まず、アンがいなくなったと知らされる前だ。お前は香草室の外へ出たか」
「いいえ」
「地下階段を上がったか」
「いいえ」
「中庭、温室、裏門へ向かったか」
「いいえ」
オットーの筆が動く。
「では、アンが消えたと知らされた後は」
「セシルが香草室へ来て……お嬢様がいらっしゃらないと聞いて、上へ上がりました」
「一人でか」
「いいえ。セシルと一緒でした」
「どこまで行った」
「廊下までです。中庭へ向かおうとして、その前に奥様にお会いしました」
イザベラの指が震えた。
ハインリヒは妻を見なかった。
「その後は」
「オットー様が、部屋へ戻るようにと」
オットーの筆が一瞬止まる。
だが、彼はすぐに記録を続けた。
「戻る時は誰かと一緒だったか」
「セシルです」
「戻る途中で、どこかへ寄ったか」
「いいえ」
「アンの部屋へは」
「行っておりません」
「中庭へは」
「行っておりません」
ハインリヒは、卓の上の紙片に視線を落とした。
「昨日の朝、アンと話したな」
「はい。香草園でお会いしました」
「何を話した」
「お嬢様は、明日、旦那様が東国の商人と会われると……そう仰っていました」
「つまり、今日の客のことを話したのだな」
部屋の空気がわずかに動いた。
マリアンネの指先が、卓の端に触れる。
ヨーゼフが、わずかに顎を引いた。
「他には」
「昔の話を教えてくださいました」
「昔の話とは。具体的に話せ」
「苦いお茶を、私がお嬢様の代わりに飲んだとおっしゃいました」
「右腕は痛むか」
ハインリヒの視線が、リリアの袖口へ落ちた。
「見せろ」
リリアは反射的に袖口を押さえようとした。
けれど、前で結ばれた両手は思うように動かない。革紐が手首に触れ、指先だけが震えた。
護衛が手を伸ばす。
「待って」
マリアンネが、その手を制した。
「私がします」
マリアンネは一瞬だけ父を見た。
それから、リリアの前へ歩み寄る。
「……失礼」
その声は低かった。
冷たくはない。
けれど、優しいとも言えなかった。
マリアンネの指が、リリアの袖口に触れる。
その瞬間、リリアの胸の奥が妙に痛んだ。
怖いのではない。
どこかで、この手を知っている気がした。
「少しだけです」
マリアンネはそう言って、袖を必要な分だけずらした。
白い肌の上に、黒い線が浮かんでいた。
背中から続く黒百合の痣の先端が、花弁の縁のように右腕へ伸びている。
イザベラが息をのんだ。
ハインリヒは表情を変えなかった。
「昨夜、疼いたか」
「……はい」
「いつからだ」
「夜になってからです」
「アンが消える前か、後か」
リリアは答えられなかった。
痛みはあった。
夢を見た。
黒い花びらが散った。
セシルの声で目を覚ました。
でも、その順番が分からない。
「リリア」
ハインリヒの声が低くなる。
「答えろ」
その声で、リリアの背中に痛みが走った。
誰も触れていない。
鞭もない。
縄もない。
けれど、体が痛みに備えていた。
「……分かりません」
沈黙が落ちた。
ハインリヒは、ゆっくりと繰り返した。
「分からない」
リリアの喉が震えた。
「はい」
「三年前も、お前はそう言った」
その言葉で、背中の奥が焼けるように痛んだ。
三年前。
空白の中にあるはずのない言葉。
けれど、体だけが知っている言葉。
一。
二。
三。
革紐に結ばれた手首が、かすかに震えた。
「三年前、アンはお前のそばで倒れた。多くの者がお前の手がアンに触れるのを見ていた。何が起きたと聞いても、お前は分からないと言った」
リリアは息を吸った。
「私は……」
「覚えていない、か」
「はい」
「都合のいいことだ」
イザベラが小さく声を漏らした。
「あなた……」
ハインリヒは妻を見なかった。
「私は父としてではなく、当主として聞いている」
その言葉で、部屋の空気がさらに冷えた。
マリアンネがわずかに父を見た。
けれど、口は挟まなかった。
ハインリヒは、一枚の紙片を指先で押さえた。
「これが、アンの部屋で見つかった」
マリアンネが紙片を持ち上げた。
彼女の声は冷たくはなかった。
ただ、感情を押し殺して読み上げた。
「アン様。奥様のお叱りを受けました。もうここに居られないかもしれません。怖くて、誰を頼ればいいのか分かりません。真夜中に、私たちの秘密の場所に来てください。お一人で。お願いです。リリア」
読み終えた瞬間、紙片の文字が遠ざかった。
けれど、最後の自分の名だけは、黒く焼きついたように残っていた。
「違います」
声がこぼれた。
「何が違う」
「私は、書いておりません」
「筆跡はお前に似ている」
「でも、違います」
「アンはそう思わなかった」
イザベラが顔を歪めた。
「アンは……この子が心配で、部屋を出たの?」
マリアンネが、母の肩に手を添える。
「お母様」
イザベラはリリアを見た。
その目から、リリアは逃げられなかった。
「どうして」
イザベラの声は震えていた。
「どうして、いつもお前のせいでアンが」
リリアは答えられなかった。
それは、リリア自身が一番聞きたかった。
どうして。
どうして、アン様なの。
どうして、私の名前なの。
ハインリヒが低く言った。
「なぜ、アンを誘い出すために、お前の名が使われた」
リリアは紙片を見つめた。
答えは、胸の奥にあった。
「……お嬢様が」
声が震える。
「私を、心配してくださるからだと思います」
イザベラが顔を覆った。
マリアンネの手が、母の肩で強く握られる。
ハインリヒの表情が、一瞬だけ崩れた。
父親の顔だった。
だが、それはすぐに消えた。
「そうだ」
低い声だった。
「アンは、お前を心配した。そして消えた」
「申し訳ございません」
「謝罪を聞きたいのではない」
ハインリヒの声が鋭くなる。
リリアの肩が跳ねた。
「私は事実を聞いている」
「はい」
「お前は手紙を書いていないと言う」
「はい」
「アンを秘密の場所へ呼んでいないと言う」
「はい」
「だが、昨夜の記憶は完全ではない」
「……はい」
「痣は疼いた」
「はい」
「三年前のことは覚えていない」
「はい」
「そして、アンは消えた」
言葉が一つずつ積み上げられる。
まるで、リリアを閉じ込める檻だった。
ハインリヒは机の端に手を置いた。
「リリア」
「はい」
「お前をこの屋敷に置いたことは、間違いだったのか」
オットーの筆が止まった。
イザベラの指だけが、膝の上で震えていた。
マリアンネの目が父へ向く。
ヨーゼフは動かない。
「あの時、処罰で済ませたことが、間違いだったのか」
背中の古い傷が、焼けるように痛んだ。
十二。
数える声。
自分のものではない、誰かの声が。
その数が、記憶のない場所から浮かぶ
椅子。
革帯。
低い命令。
ヨーゼフの足音。
ハインリヒの声。
リリアは、結ばれた両手を胸の前で握りしめた。
「……分かりません」
ハインリヒの目が冷たくなる。
けれど、リリアは続けた。
「でも、私は、お嬢様を傷つけたいと思ったことはありません」
声が、掠れて出てきた。
「三年前のことは覚えていません。分からないことばかりです」
ヨーゼフがわずかに顔を上げる。
「でも、手紙は書いていません。お嬢様を秘密の場所へ呼んでいません」
リリアは深く息を吸った。
イザベラの指先が、膝の上で白くなるまで沈んだ。
マリアンネは、じっとリリアを見ていた。
「でも、その手紙に私の名前が使われたのなら……お嬢様が私を心配して部屋を出られたのなら」
リリアは、結ばれた手を握った。
「私にできることがあるなら、命じてください」
ハインリヒは、しばらくリリアを見下ろしていた。
「ならば、命じる」
リリアは顔を上げた。
「お前は動くな」
胸が沈んだ。
「アンを探すのは、お前の役目ではない」
「……はい」
「いや」
ハインリヒは続けた。
「あの部屋には戻さない」
リリアは顔を上げた。




