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第四話 三つの偽り



 香草室隣の小部屋の扉が叩かれたのは、リリアがセシルに付き添われて地下へ戻ってから、しばらく後のことだった。


 地上の騒ぎは、収まっていない。


 廊下を走る足音。

 遠くで飛ぶ命令。

 誰かが泣く声。


 それらが石の天井を通して、地下にまで落ちてくる。


 扉を開けたのはジューンだった。


 その後ろに、老執事のオットーが立っていた。


 白髪交じりの髪をきちんと撫でつけ、手には帳面を持っている。いつもなら穏やかな声で使用人たちをまとめる男だが、今夜の顔に柔らかさはなかった。


「リリア」


 ジューンの声は低かった。


「旦那様の命です。先ほどからの行動を確認します」


 リリアは立ち上がった。


「はい」


 オットーは帳面を開き、今夜の行動を一つずつ確認した。


 香草室を出たか。

 誰といたか。

 アンの部屋へ行ったか。

 アンへ手紙を書いたか。


 だが、右腕の痣がいつ疼き始めたのかという問いには、答えられなかった。


 オットーが扉の外へ目を向けた。


「見張りを」


 廊下に控えていた護衛が一歩前へ出る。


 リリアはその気配だけで、胸が苦しくなった。


 外から鍵をかける音がした。



 クララへの尋問が、アンの部屋で続いていた。


 部屋には、まだ灯りが残っている。

 燭台の火は短くなり、溶けた蝋が銀の皿に白く固まっていた。


 寝台は乱れていない。

 窓も閉じられている。


 クララは部屋の中央に立たされていた。


 顔色は青ざめ、両手は胸の前で固く握られている。いつもならアンの髪を整え、リボンを選び、静かに控えている侍女の姿は、そこにはなかった。


 ハインリヒは問うた。


「なぜ、アンの部屋を離れた」


「奥様からの呼び出しがございました」


「イザベラが?」


「はい。奥様付きの伝令札が、扉の外の盆に置かれておりました」


 ヨーゼフが一歩、卓に近づいた。


「誰が持ってきた」


「……分かりません」


「見なかったのか」


「扉を開けた時には、すでに盆だけが置かれていて……札には、奥様のお呼びと」


「その札は」


 クララの喉が震えた。


「戻った時には、盆ごとなくなっておりました」


 部屋の空気が冷えた。


「つまり」


 ヨーゼフが一歩前へ出る。


「お前が呼び出されたという証拠はない」


「本当にあったのです」


「そう言うしかないな」


「違います!」


 クララは顔を上げた。


「私はアン様をお一人にするつもりなど……すぐ戻るつもりでした。奥様のお呼びなら、従わないわけには」


「その間に、アンは消えた」


 ハインリヒの声は静かだった。


 静かすぎて、クララの顔から血の気が引いた。


「伝令札についてイザベラに確認しろ」


 控えていた侍従に命じる。


 侍従はすぐにその場を離れた。


 ヨーゼフが、一枚の紙片を示した。


「この手紙を見たことは」


 クララは紙片を見た。


 震えたような細い文字。

 最後に記された、リリアの名。


「いいえ……見ておりません」


「本当に?」


「はい」


「アン様の部屋にあった。お前はアン様付きの侍女だ。部屋の中のものを見逃す立場ではない」


「本当に知りません」


 ハインリヒは紙片を指先で押さえた。


「最後にリリアと接したのはいつだ」


 クララの肩が揺れた。


「今日の朝です。香草園で……アン様がリリアに話しかけておられました」


「何を話していた」


「ここには、私たちの秘密の場所があるのよと、おっしゃっていました」


「リリアの様子は」


「いつも通り、控えておりました。けれど……顔色はあまりよくなかったように思います」


「リリアは、イザベラに叱られたと言ったか」


「いいえ」


「屋敷にいられないかもしれないと?」


「言っておりません」


「では、なぜ手紙にはそう書かれている」


 クララは答えられなかった。


 ハインリヒの声がさらに低くなる。


「アンがリリアを心配していたことを、お前は知っていたな」


「……はい」


「誰かに話したか」


 クララは唇を噛んだ。


「調理場で、少しだけ」


 ヨーゼフの目が鋭くなる。


「何を話した」


「……愚痴のつもりでした。アン様がまた香草園へ行かれた、リリアを気にしておられる、奥様のお耳に入れば大変なことになる、と……調理場で、少し」


 クララの声が震える。


「私は、リリアを疑っていました。三年前のこともあります。奥様がお苦しみになるのも見ていました。けれど、アン様を危ない目に遭わせるつもりなど、本当に」


「お前にそんなつもりがなくとも」


 ハインリヒは言った。


「それを聞いた者が、アンを動かす方法を知った可能性もある」


 クララの顔が歪んだ。


「私が……漏らしたから……?」


「可能性の話だ」


 ハインリヒは冷たく続けた。


 クララは何も言えなくなった。


 戻ってきた侍従が、ハインリヒの耳元で何事かを告げる。


「クララ」


 ハインリヒの声が落ちる。


「イザベラは、お前に伝令札を出していないと断言している」


 クララの顔が、さらに青ざめた。


「旦那様、私は嘘を申しておりません」


「お前が嘘をついているのか、お前が騙されたのか、あるいは協力したのか。今はまだ判断できない」


「旦那様、私は」


「だから、自由には戻せない」


 クララの顔から血の気が引いた。


「ヨーゼフ」


「は」


「クララを空き部屋へ移せ。外から鍵をかける。女性使用人を一人、護衛を一人つけろ。筆記具、刃物、紐、伝令札には触れさせるな」


「承知しました」


「それから、クララの実家にも目を置け」


 クララが顔を上げた。


「実家を、ですか」


「お前個人ではなく、家が利用されている可能性もある」


「家族は何も」


「それを調べる」


 ハインリヒの声には、反論を許さない冷たさがあった。


「外へ使者を出すな。クララ宛ての文も、クララからの文も、すべて確認する」


 クララの唇が震えた。


「私は、アン様を裏切ってなどおりません」


「ならば、調べられても困ることはない」


 「……承知いたしました」


 クララは深く頭を下げた。


 クララが連れ出される直前、彼女は一度だけアンの寝台を見た。


 そこには、明朝、選ぶはずだったリボンが置かれている。


 小さな青いリボンだった。


 クララは声を殺して泣きそうになった。

 けれど、泣くことも許されない気がして、唇を噛んだ。


 扉が閉まる。


 ハインリヒは卓の上の紙片を見下ろした。


「リリアの名を使った手紙。イザベラ付きの札。消えた盆。クララの漏らした話」


 低い声だった。


「屋敷の内側に、アンを動かすための道具を知る者がいる」


 ヨーゼフが頷く。


「伝令札の管理、侍女部屋、調理場、リリアの周辺を洗います」


「急げ」


 ハインリヒは言った。


「私が呼ぶまで、リリアを部屋から出すな。見張りをつけろ」



 クララが連れ出されたあと、ハインリヒたちは証拠を小広間へ移した。


 ヨーゼフは一度、護衛詰所へ向かった。


「昨夜、東廊下の見張りは誰だった」


 若い護衛が顔を上げる。


「私です」


「持ち場を離れた時間があるな」


 護衛の顔色が変わった。


「はい。ですが、隊長のご命令で」


 ヨーゼフの声が、一段低くなった。


「私の命令?」


「はい。北側厩舎付近に不審な物音あり、東廊下の見張り一名を確認に回せ、と」


「誰が伝えた」


「札が届きました」


「札を見せろ」


 護衛は一瞬、言葉に詰まった。


「確認後、連絡棚へ戻しました。ですが、その後は……」


「ないのか」


「はい」


 ヨーゼフの声が低くなった。


「私は、その命令を出していない」


 護衛の顔から血の気が引いた。


「ですが、札には隊長のお名前と略印がありました。連絡棚へ置かれる正式な札と、同じ形でした」


「私は出していないと言っている」


 詰所の空気が凍った。


 ヨーゼフはすぐに踵を返した。


 小広間へ戻ると、ハインリヒは卓の前に立っていた。


「旦那様」


 ヨーゼフは低く言った。


「見張りも動かされています」


 ハインリヒの目が動いた。


「どういうことだ」


「東廊下の見張りが、私の名で出された札を受け取り、北側厩舎へ回っています」


「お前が命じたのか」


「いいえ」


 ハインリヒの表情が変わった。


 怒りではない。


 事態の形が見えた時の、冷たい沈黙だった。


「リリアの名でアンを動かし、イザベラの名でクララを動かし、ヨーゼフの名で見張りを動かした」


 ハインリヒは卓に置かれた紙片を見下ろした。


「偶然ではない」


 オットーが羽根ペンを止める。


 ハインリヒは低く命じた。


「伝令札の経路を洗え。誰が札を置けたか、誰が戻した札を回収できたか。護衛詰所、連絡棚、イザベラ付きの控えの間、すべてだ」


 ヨーゼフは頭を下げた。


「承知しました」


 ハインリヒの目が冷える。


「リリアを呼べ」



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