第四話 三つの偽り
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香草室隣の小部屋の扉が叩かれたのは、リリアがセシルに付き添われて地下へ戻ってから、しばらく後のことだった。
地上の騒ぎは、収まっていない。
廊下を走る足音。
遠くで飛ぶ命令。
誰かが泣く声。
それらが石の天井を通して、地下にまで落ちてくる。
扉を開けたのはジューンだった。
その後ろに、老執事のオットーが立っていた。
白髪交じりの髪をきちんと撫でつけ、手には帳面を持っている。いつもなら穏やかな声で使用人たちをまとめる男だが、今夜の顔に柔らかさはなかった。
「リリア」
ジューンの声は低かった。
「旦那様の命です。先ほどからの行動を確認します」
リリアは立ち上がった。
「はい」
オットーは帳面を開き、今夜の行動を一つずつ確認した。
香草室を出たか。
誰といたか。
アンの部屋へ行ったか。
アンへ手紙を書いたか。
だが、右腕の痣がいつ疼き始めたのかという問いには、答えられなかった。
オットーが扉の外へ目を向けた。
「見張りを」
廊下に控えていた護衛が一歩前へ出る。
リリアはその気配だけで、胸が苦しくなった。
外から鍵をかける音がした。
◆
クララへの尋問が、アンの部屋で続いていた。
部屋には、まだ灯りが残っている。
燭台の火は短くなり、溶けた蝋が銀の皿に白く固まっていた。
寝台は乱れていない。
窓も閉じられている。
クララは部屋の中央に立たされていた。
顔色は青ざめ、両手は胸の前で固く握られている。いつもならアンの髪を整え、リボンを選び、静かに控えている侍女の姿は、そこにはなかった。
ハインリヒは問うた。
「なぜ、アンの部屋を離れた」
「奥様からの呼び出しがございました」
「イザベラが?」
「はい。奥様付きの伝令札が、扉の外の盆に置かれておりました」
ヨーゼフが一歩、卓に近づいた。
「誰が持ってきた」
「……分かりません」
「見なかったのか」
「扉を開けた時には、すでに盆だけが置かれていて……札には、奥様のお呼びと」
「その札は」
クララの喉が震えた。
「戻った時には、盆ごとなくなっておりました」
部屋の空気が冷えた。
「つまり」
ヨーゼフが一歩前へ出る。
「お前が呼び出されたという証拠はない」
「本当にあったのです」
「そう言うしかないな」
「違います!」
クララは顔を上げた。
「私はアン様をお一人にするつもりなど……すぐ戻るつもりでした。奥様のお呼びなら、従わないわけには」
「その間に、アンは消えた」
ハインリヒの声は静かだった。
静かすぎて、クララの顔から血の気が引いた。
「伝令札についてイザベラに確認しろ」
控えていた侍従に命じる。
侍従はすぐにその場を離れた。
ヨーゼフが、一枚の紙片を示した。
「この手紙を見たことは」
クララは紙片を見た。
震えたような細い文字。
最後に記された、リリアの名。
「いいえ……見ておりません」
「本当に?」
「はい」
「アン様の部屋にあった。お前はアン様付きの侍女だ。部屋の中のものを見逃す立場ではない」
「本当に知りません」
ハインリヒは紙片を指先で押さえた。
「最後にリリアと接したのはいつだ」
クララの肩が揺れた。
「今日の朝です。香草園で……アン様がリリアに話しかけておられました」
「何を話していた」
「ここには、私たちの秘密の場所があるのよと、おっしゃっていました」
「リリアの様子は」
「いつも通り、控えておりました。けれど……顔色はあまりよくなかったように思います」
「リリアは、イザベラに叱られたと言ったか」
「いいえ」
「屋敷にいられないかもしれないと?」
「言っておりません」
「では、なぜ手紙にはそう書かれている」
クララは答えられなかった。
ハインリヒの声がさらに低くなる。
「アンがリリアを心配していたことを、お前は知っていたな」
「……はい」
「誰かに話したか」
クララは唇を噛んだ。
「調理場で、少しだけ」
ヨーゼフの目が鋭くなる。
「何を話した」
「……愚痴のつもりでした。アン様がまた香草園へ行かれた、リリアを気にしておられる、奥様のお耳に入れば大変なことになる、と……調理場で、少し」
クララの声が震える。
「私は、リリアを疑っていました。三年前のこともあります。奥様がお苦しみになるのも見ていました。けれど、アン様を危ない目に遭わせるつもりなど、本当に」
「お前にそんなつもりがなくとも」
ハインリヒは言った。
「それを聞いた者が、アンを動かす方法を知った可能性もある」
クララの顔が歪んだ。
「私が……漏らしたから……?」
「可能性の話だ」
ハインリヒは冷たく続けた。
クララは何も言えなくなった。
戻ってきた侍従が、ハインリヒの耳元で何事かを告げる。
「クララ」
ハインリヒの声が落ちる。
「イザベラは、お前に伝令札を出していないと断言している」
クララの顔が、さらに青ざめた。
「旦那様、私は嘘を申しておりません」
「お前が嘘をついているのか、お前が騙されたのか、あるいは協力したのか。今はまだ判断できない」
「旦那様、私は」
「だから、自由には戻せない」
クララの顔から血の気が引いた。
「ヨーゼフ」
「は」
「クララを空き部屋へ移せ。外から鍵をかける。女性使用人を一人、護衛を一人つけろ。筆記具、刃物、紐、伝令札には触れさせるな」
「承知しました」
「それから、クララの実家にも目を置け」
クララが顔を上げた。
「実家を、ですか」
「お前個人ではなく、家が利用されている可能性もある」
「家族は何も」
「それを調べる」
ハインリヒの声には、反論を許さない冷たさがあった。
「外へ使者を出すな。クララ宛ての文も、クララからの文も、すべて確認する」
クララの唇が震えた。
「私は、アン様を裏切ってなどおりません」
「ならば、調べられても困ることはない」
「……承知いたしました」
クララは深く頭を下げた。
クララが連れ出される直前、彼女は一度だけアンの寝台を見た。
そこには、明朝、選ぶはずだったリボンが置かれている。
小さな青いリボンだった。
クララは声を殺して泣きそうになった。
けれど、泣くことも許されない気がして、唇を噛んだ。
扉が閉まる。
ハインリヒは卓の上の紙片を見下ろした。
「リリアの名を使った手紙。イザベラ付きの札。消えた盆。クララの漏らした話」
低い声だった。
「屋敷の内側に、アンを動かすための道具を知る者がいる」
ヨーゼフが頷く。
「伝令札の管理、侍女部屋、調理場、リリアの周辺を洗います」
「急げ」
ハインリヒは言った。
「私が呼ぶまで、リリアを部屋から出すな。見張りをつけろ」
◆
クララが連れ出されたあと、ハインリヒたちは証拠を小広間へ移した。
ヨーゼフは一度、護衛詰所へ向かった。
「昨夜、東廊下の見張りは誰だった」
若い護衛が顔を上げる。
「私です」
「持ち場を離れた時間があるな」
護衛の顔色が変わった。
「はい。ですが、隊長のご命令で」
ヨーゼフの声が、一段低くなった。
「私の命令?」
「はい。北側厩舎付近に不審な物音あり、東廊下の見張り一名を確認に回せ、と」
「誰が伝えた」
「札が届きました」
「札を見せろ」
護衛は一瞬、言葉に詰まった。
「確認後、連絡棚へ戻しました。ですが、その後は……」
「ないのか」
「はい」
ヨーゼフの声が低くなった。
「私は、その命令を出していない」
護衛の顔から血の気が引いた。
「ですが、札には隊長のお名前と略印がありました。連絡棚へ置かれる正式な札と、同じ形でした」
「私は出していないと言っている」
詰所の空気が凍った。
ヨーゼフはすぐに踵を返した。
小広間へ戻ると、ハインリヒは卓の前に立っていた。
「旦那様」
ヨーゼフは低く言った。
「見張りも動かされています」
ハインリヒの目が動いた。
「どういうことだ」
「東廊下の見張りが、私の名で出された札を受け取り、北側厩舎へ回っています」
「お前が命じたのか」
「いいえ」
ハインリヒの表情が変わった。
怒りではない。
事態の形が見えた時の、冷たい沈黙だった。
「リリアの名でアンを動かし、イザベラの名でクララを動かし、ヨーゼフの名で見張りを動かした」
ハインリヒは卓に置かれた紙片を見下ろした。
「偶然ではない」
オットーが羽根ペンを止める。
ハインリヒは低く命じた。
「伝令札の経路を洗え。誰が札を置けたか、誰が戻した札を回収できたか。護衛詰所、連絡棚、イザベラ付きの控えの間、すべてだ」
ヨーゼフは頭を下げた。
「承知しました」
ハインリヒの目が冷える。
「リリアを呼べ」




