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第三話 新月の夜に消えたもの



 いつもの時間、リリアは地下の薄暗い自室で、セシルの弾んだノックと、「リリア、入るよー!」という声を待っていた。


 けれど、聞こえてきたのは、規則正しく、低く静かなノックの音だった。


 扉を開けると、そこに立っていたのはセシルではない。


 空き瓶の木箱の代わりに夕食を載せた木盆を持った、ヴィクトルだった。


「ヴィクトルさん……? セシルは?」


「ジューンさんから、地上の手伝いを命じられていました。今夜は忙しいので、代わりに私が」


 地上では、明日の客人を迎える支度が続いている。


 女中たちは、そちらに取られているのだろう。ヴィクトルは半年前から、香草室への使い走りを任されている。ジューンが彼を寄こしたとしても、不思議ではなかった。


 ヴィクトルは表情を変えず、木盆を机の上に置いた。


 その青灰色の目が、リリアが左手で隠している右腕へ、一瞬だけ向けられた。


「リリアさん。やはり、どこかお悪いのでは」


「……ただの、熱病の後遺症です」


「そうですか」


 ヴィクトルはそれ以上追及せず、静かに部屋を出ていった。


 扉が閉まってしばらくすると、右腕の痣が疼き始めた。


 痣は、背中から右腕にかけて伸びる、百合の花弁に似た曲線の模様だった。


 普段は色も薄く、触れても何も感じない。

 それが新月の夜だけは、皮膚の下からひりつくような熱を持つ。


 熱病の後遺症だと聞かされているが、今夜は特にひどかった。


 リリアは寝台に腰を下ろし、右腕を抱えた。


 目を閉じると、暗闇の奥で何かが揺れた。


 赤く染まった空。


 誰かの叫び声。


 風の中を舞う、黒い花弁。


 低い声が聞こえた。


 ――顔を上げろ。


 ――聞かれたことに答えろ。


 誰の声なのか、分からない。


 見えるのは、冷たい石の床だけだった。


 何かが空気を裂く、鋭い音。


 別の声が、数字を数える。


 一。


 背中に衝撃が走った。


 二。


 息が詰まる。


 三。


 石床に、ほどけた黒髪が張りついていた。


 痛い。


 怖い。


 でも、声は出せない。


 リリアは目を開けた。


 荒い息が、薄暗い部屋に響いている。


 夢なのか。

 失った記憶なのか。


 ――なぜですか。


 ――私は、どんな罪を犯したのですか。


 誰にともなく、心の中で問いかける。


 これが記憶なら、自分は何を見ていたのか。


 これが夢なら、なぜ痛みまで残っているのか。


 痣が、ひときわ強く疼いた。


 その瞬間、廊下の向こうから物音がした。


 最初は、風がどこかの扉を揺らしたのかと思った。


 次に、いくつもの足音だと気づく。


 そして――誰かの叫び声だと分かった。


 リリアは立ち上がり、扉を開けた。


 地下階段から、セシルが駆け下りてくる。

 明るい顔からは血の気が引き、息を切らしていた。


「リリア……!」


「どうしたの」


 セシルは一度息をのみ、震える声で言った。


「アン様が、いないって」


ジューンの言葉が脳裏をよぎった。


 ――誰に呼ばれても、ここから出てはいけない。


 それでも、リリアは扉の外へ踏み出した



 地下から地上へ上がると、どの廊下にも灯りがともされ、行き交う使用人たちの影が壁の上で激しく揺れていた。


 誰かが銀の燭台を取り落とした。


 石床に倒れた燭台の炎が大きく揺れ、近くにいた使用人が慌てて拾い上げる。


「中庭をもう一度探せ!」


「アン様のお部屋は?」


「寝台にも衣装部屋にもいらっしゃらない!」


「裏門を閉じろ! 街道にも人を出せ!」


 どなり声と足音が重なり、普段は静かな屋敷を揺らしていた。


 セシルの言葉が、ようやく現実のものとしてリリアの胸に落ちてくる。


 アン様が、いない。


 朝には、香草園にいた。


 いつものように笑い、昔の話をした。


 それなのに。


 ハインリヒはすでに正門へ向かい、門の封鎖と街道の捜索を命じているらしい。その姿は廊下にはなかった。


「ヨーゼフ様は?」


「私兵を連れて外へ出られた! 裏門から森へ向かわれたそうだ!」


 別の使用人が、階段の上から声を張り上げた。


「正門の兵を捜索へ回せ!」


「全員は動かせません! 旦那様から、正門には最低限の人数を残せと命じられています!」


「では残りを急がせろ! 街道と森へ回せ!」


「すでに伝令を出しています!」


 廊下の向こうから、クララの泣き声が聞こえた。


「私が……私が目を離したから……」


 途切れ途切れの声に、別の侍女が何かを言い聞かせている。


 その混乱の中に、女主人のイザベラが立っていた。


 髪は乱れ、青い瞳は焦点を失っている。

 細い肩が、呼吸のたびに大きく上下していた。


「駄目……」


 イザベラの唇が震えた。


「アン……」


 侍女が彼女を支えようと手を伸ばした。


 その時、イザベラの目が、廊下の端に立つリリアをとらえた。


 青い瞳が大きく見開かれる。


 イザベラはリリアを見つめたまま、一歩前へ出た。


「おまえのせいよ」


 静かな声だった。


 廊下を行き交っていた使用人たちの動きが、わずかに止まる。


「おまえのせいよ」


 イザベラはもう一度繰り返した。


「三年前も、今も」


 リリアは息を止めた。


 三年前。


 自分が記憶を失ったのは、三年前の熱病のあとだと聞かされている。


 自分は三年前、何をしたのか。


 どんな過ちを犯したのか。


 アンに、一体何をしたというのか。


 イザベラの言葉に、廊下にいた使用人たちの視線が、いっせいにリリアの右腕へ向いた。


 痣は袖の下に隠れている。


 それでも、皆には見えているかのようだった。


 イザベラはなおも何かを言おうとした。


 だが、イザベラ付きの古参侍女エリーズが、もう一人の侍女とともに両側から体を支えた。


「奥様、お部屋へ」


「アンを……早く、アンを……」


「旦那様とヨーゼフ様が捜しておられます。どうか、お部屋でお待ちください」


 イザベラは何度もアンの名を呼びながら、侍女たちに連れられていった。


 扉が閉まる。


 命令の声も足音も続いているのに、リリアの耳には何も届かなかった。


 「おまえのせいよ」という声だけが、胸の内側で何度も響いていた。


 老執事のオットーが、リリアの前に立った。


 長年、屋敷に仕えてきた男の顔にも、今は疲労と焦りがにじんでいる。


「ここは、お前がいてよい場所ではない」


 押し殺した声だった。


「すぐに部屋へ戻りなさい」


 すぐには、動けなかった。


 おまえのせい。


 その言葉の意味が分からない。


 自分が何をしたのか。


 自分が、アンを――。


 右腕の痣が、燃えるように疼いていた。


 空には、月がなかった。




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