第二話 新月の少女
◆
「アン様!」
遠くから、切羽詰まった声がした。
アンの専属侍女であるクララが、青ざめた顔で小道を駆けてくる。
「このような場所にいらしたのですか!」
「クララ、少しだけよ」
「少しだけではありません。奥様に見つかったら……」
クララはそこで口をつぐみ、リリアを見た。
困惑の中に、責めるような色が混じっている。
「リリア。アン様をお引き止めしなかったのですか」
「申し訳ございません」
リリアは頭を下げた。
「リリアは悪くないわ。私が勝手に来たの」
アンは庇うように、リリアの前へ出た。
その小さな背中を見た瞬間、リリアの右腕が熱く疼いた。
シリルの視線が、リリアの袖口へ落ちる。
「お嬢様、お戻りください」
リリアは言った。
「ここは、お嬢様がいらっしゃるような場所ではありません」
「でも、ここには私たちの秘密の場所があるのよ。覚えてない?」
「……覚えておりません」
大柄な男が、霧の中から早足で近づいてきた。
護衛隊長のヨーゼフだった。
クララが、近くにいた庭番へ知らせたのだろう。
「アン様。こちらにおいでになる予定は伺っておりません」
リリアはさらに頭を下げた。
クララがアンの肩に外套をかけ直す。
「戻りましょう。奥様がお目覚めになる前に」
「リリア」
アンは何かを言いかけた。
けれど、言葉にはせず、胸の前で手を握った。
「また来るね」
ヨーゼフの眉が動く。
クララも困った顔でアンを見た。
リリアは頭を下げたまま答えた。
「恐れ入ります」
「違う」
アンが呟く。
「そうじゃないの」
けれど、それ以上は言えなかった。
アンはクララに促され、何度も振り返りながら香草園を出ていった。
ヨーゼフだけが、その場に残った。
その視線が、壁際に立つシリルを一度だけ掠めた。
リリアは顔を上げられなかった。
重い靴音が近づき、目の前で止まる。
「お前には、アン様の前に出ることも、お名前を呼ぶことも許されていない。覚えているな」
「承知しております。申し訳ございません」
自分でも分かるほど、声が震えていた。
「体調は」
その問いを聞いた途端、肩に力が入った。
理由は分からない。
それでも、体が先に怯えていた。
「……問題ございません」
「仕事は」
「滞りなく」
「右腕は」
リリアの指が、袖口を押さえた。
「……変わりありません」
ヨーゼフは黙っている。
その沈黙が怖かった。
「……そうか」
それだけ言うと、ヨーゼフは踵を返した。
足音が遠ざかってから、リリアはようやく息を吐いた。
胸が固く塞がれたようで、何度息を吸っても苦しさが残る。
「リリア……?」
シリルが声をかける。
だが、リリアが振り向くより先に、彼の声音から気遣いが消えた。
「……長居するな。すぐに地下へ戻れ」
突き放すような言い方だった。
リリアは振り返らず、香草園をあとにした。
◆
香草室へ戻る途中、リリアは裏口の近くで従僕見習いのヴィクトルとすれ違った。
半年前に屋敷へ入ったばかりの若い男だ。
裏口の荷受けや通用口の戸締まり、地下の香草室への使い走りなどを任されている。
淡い金髪に、青灰色の目。
背筋が伸び、荷を運ぶ手にも無駄がない。
ヴィクトルは、空き瓶の入った木箱を抱えている。
「香草室へ?」
リリアが尋ねると、ヴィクトルは頷いた。
「マーサさんから頼まれました。それと、厨房の下働きが火傷をしたと聞きました。火傷に効く薬があれば、分けていただけませんか」
「それなら、冷やしたあとに使う軟膏があります」
二人は並んで香草室へ戻った。
作業台では、セシルが仕分けかけの葉を前に首をひねっている。
マーサは帳面から顔を上げ、ヴィクトルの木箱を一瞥すると、すぐに視線を戻した。
リリアは棚の下段から小さな瓶を取り出し、布で包んだ。
「冷やしたあとに、この軟膏を。強く擦らないように伝えてください。痛みが引いても、今日の水仕事は避けた方がいいです」
ヴィクトルは木箱を作業台の端に置き、瓶を受け取った。
「手際がいいですね」
「香草室では、こういうことしかできませんから」
淡々とした声だった。
ヴィクトルは何か言いかけ、結局、頭を下げた。
「伝えておきます」
それから、周囲を気にするように声を落とした。
「庭番が、今朝アン様をお見かけしたと言っていました」
リリアの指が、瓶を包んでいた布の上で止まる。
答える前に、奥からジューンの声が響いた。
「ヴィクトル」
ヴィクトルはすぐに姿勢を正した。
ジューンが、地下へ続く階段の前に立っている。
「終わったら裏口の荷受けを手伝いなさい」
「はい」
ヴィクトルは短く答え、リリアから視線を外した。
リリアは木札を握りしめた。
指先だけが、ひどく冷たかった。
◆
夕刻になると、霧はさらに濃くなった。
地上からは、人や荷車が行き交う音が絶えず響いていた。
明日の客を迎えるため、ヨーゼフが警備の配置を変えているらしい。
地下の香草室で後片づけをしていると、マーサがリリアの顔を見て眉をひそめた。
「リリア、今日はもういい。部屋へ戻りな」
「まだ棚の確認が」
「いいと言ったらいいんだよ。顔色が悪い」
セシルも作業の手を止め、心配そうに覗き込んだ。
「リリア、本当に無理しないで。朝から変だよ」
「少し休めば平気です」
地下の小さな窓からは、月のない夜空など見えない。
けれど、体は知っている。
今夜は、新月だ。
右腕が熱い。
袖の下で、百合の花をかたどった痣が浮かび上がっている。
皮膚の奥を、何かに呼ばれるような痛みが走っていた。
「リリア」
扉の外から声がした。
ジューンだった。
彼女は香草室に入ると、マーサとセシルに目配せした。
マーサは何も聞かずに頷き、セシルの背を押して部屋を出ていく。
扉が閉まると、ジューンはリリアの前に立った。
「見せなさい」
「……大丈夫です」
「リリア」
その一言で、逆らえなくなった。
リリアは袖をまくった。
袖口の奥、白い肌の上に黒い線が浮かんでいる。
背中から続く痣の先端が、細い花弁の縁のように右腕へ伸びていた。
ジューンの表情が強張る。
「今夜は、ここから出てはいけない」
「はい」
「誰に呼ばれても」
リリアは顔を上げた。
「念のためだよ」
ジューンはそう言ったが、声音はいつもより重かった。
「今夜の屋敷は、いつもと違う。旦那様もヨーゼフも正門側に気を取られている。奥様も落ち着かない。こういう夜は、余計なことが起きる」
リリアは迷った末に、口を開いた。
「私は、お嬢様に何をしたのですか」
ジューンの目が揺れた。
「今のお前に話せることではありません」
ジューンは、まくれた袖を元に戻した。
何かを隠している時、ジューンはこういう言い方をする。
それは命令であり、同時に、願いでもあるように聞こえた。
その夜、月が消えた。




