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第二話 新月の少女


「アン様!」


 遠くから、切羽詰まった声がした。


 アンの専属侍女であるクララが、青ざめた顔で小道を駆けてくる。


「このような場所にいらしたのですか!」


「クララ、少しだけよ」


「少しだけではありません。奥様に見つかったら……」


 クララはそこで口をつぐみ、リリアを見た。


 困惑の中に、責めるような色が混じっている。


「リリア。アン様をお引き止めしなかったのですか」


「申し訳ございません」


 リリアは頭を下げた。


「リリアは悪くないわ。私が勝手に来たの」


 アンは庇うように、リリアの前へ出た。


 その小さな背中を見た瞬間、リリアの右腕が熱く疼いた。


 シリルの視線が、リリアの袖口へ落ちる。


「お嬢様、お戻りください」


 リリアは言った。


「ここは、お嬢様がいらっしゃるような場所ではありません」


「でも、ここには私たちの秘密の場所があるのよ。覚えてない?」


「……覚えておりません」


 大柄な男が、霧の中から早足で近づいてきた。


 護衛隊長のヨーゼフだった。


 クララが、近くにいた庭番へ知らせたのだろう。


「アン様。こちらにおいでになる予定は伺っておりません」


 リリアはさらに頭を下げた。


 クララがアンの肩に外套をかけ直す。


「戻りましょう。奥様がお目覚めになる前に」


「リリア」


 アンは何かを言いかけた。


 けれど、言葉にはせず、胸の前で手を握った。


「また来るね」


 ヨーゼフの眉が動く。

 クララも困った顔でアンを見た。


 リリアは頭を下げたまま答えた。


「恐れ入ります」


「違う」


 アンが呟く。


「そうじゃないの」


 けれど、それ以上は言えなかった。


 アンはクララに促され、何度も振り返りながら香草園を出ていった。


 ヨーゼフだけが、その場に残った。


その視線が、壁際に立つシリルを一度だけ掠めた。


 リリアは顔を上げられなかった。


 重い靴音が近づき、目の前で止まる。


「お前には、アン様の前に出ることも、お名前を呼ぶことも許されていない。覚えているな」


「承知しております。申し訳ございません」


 自分でも分かるほど、声が震えていた。


「体調は」


 その問いを聞いた途端、肩に力が入った。


 理由は分からない。

 それでも、体が先に怯えていた。


「……問題ございません」


「仕事は」


「滞りなく」


「右腕は」


 リリアの指が、袖口を押さえた。


「……変わりありません」


 ヨーゼフは黙っている。


 その沈黙が怖かった。


「……そうか」


 それだけ言うと、ヨーゼフは踵を返した。


 足音が遠ざかってから、リリアはようやく息を吐いた。


 胸が固く塞がれたようで、何度息を吸っても苦しさが残る。


「リリア……?」


 シリルが声をかける。


 だが、リリアが振り向くより先に、彼の声音から気遣いが消えた。


「……長居するな。すぐに地下へ戻れ」


 突き放すような言い方だった。


 リリアは振り返らず、香草園をあとにした。



 香草室へ戻る途中、リリアは裏口の近くで従僕見習いのヴィクトルとすれ違った。


 半年前に屋敷へ入ったばかりの若い男だ。

 裏口の荷受けや通用口の戸締まり、地下の香草室への使い走りなどを任されている。


 淡い金髪に、青灰色の目。


 背筋が伸び、荷を運ぶ手にも無駄がない。


 ヴィクトルは、空き瓶の入った木箱を抱えている。


「香草室へ?」


 リリアが尋ねると、ヴィクトルは頷いた。


「マーサさんから頼まれました。それと、厨房の下働きが火傷をしたと聞きました。火傷に効く薬があれば、分けていただけませんか」


「それなら、冷やしたあとに使う軟膏があります」


 二人は並んで香草室へ戻った。


 作業台では、セシルが仕分けかけの葉を前に首をひねっている。

 マーサは帳面から顔を上げ、ヴィクトルの木箱を一瞥すると、すぐに視線を戻した。


 リリアは棚の下段から小さな瓶を取り出し、布で包んだ。


「冷やしたあとに、この軟膏を。強く擦らないように伝えてください。痛みが引いても、今日の水仕事は避けた方がいいです」


 ヴィクトルは木箱を作業台の端に置き、瓶を受け取った。


「手際がいいですね」


「香草室では、こういうことしかできませんから」


 淡々とした声だった。


 ヴィクトルは何か言いかけ、結局、頭を下げた。


「伝えておきます」


 それから、周囲を気にするように声を落とした。


「庭番が、今朝アン様をお見かけしたと言っていました」


 リリアの指が、瓶を包んでいた布の上で止まる。


 答える前に、奥からジューンの声が響いた。


「ヴィクトル」


 ヴィクトルはすぐに姿勢を正した。


 ジューンが、地下へ続く階段の前に立っている。


「終わったら裏口の荷受けを手伝いなさい」


「はい」


 ヴィクトルは短く答え、リリアから視線を外した。


 リリアは木札を握りしめた。


 指先だけが、ひどく冷たかった。



 夕刻になると、霧はさらに濃くなった。


 地上からは、人や荷車が行き交う音が絶えず響いていた。


 明日の客を迎えるため、ヨーゼフが警備の配置を変えているらしい。


 地下の香草室で後片づけをしていると、マーサがリリアの顔を見て眉をひそめた。


「リリア、今日はもういい。部屋へ戻りな」


「まだ棚の確認が」


「いいと言ったらいいんだよ。顔色が悪い」


 セシルも作業の手を止め、心配そうに覗き込んだ。


「リリア、本当に無理しないで。朝から変だよ」


「少し休めば平気です」


 地下の小さな窓からは、月のない夜空など見えない。


 けれど、体は知っている。


 今夜は、新月だ。


 右腕が熱い。


 袖の下で、百合の花をかたどった痣が浮かび上がっている。


 皮膚の奥を、何かに呼ばれるような痛みが走っていた。


「リリア」


 扉の外から声がした。


 ジューンだった。


 彼女は香草室に入ると、マーサとセシルに目配せした。


 マーサは何も聞かずに頷き、セシルの背を押して部屋を出ていく。


 扉が閉まると、ジューンはリリアの前に立った。


「見せなさい」


「……大丈夫です」


「リリア」


 その一言で、逆らえなくなった。


 リリアは袖をまくった。


 袖口の奥、白い肌の上に黒い線が浮かんでいる。


 背中から続く痣の先端が、細い花弁の縁のように右腕へ伸びていた。


 ジューンの表情が強張る。


「今夜は、ここから出てはいけない」


「はい」


「誰に呼ばれても」


 リリアは顔を上げた。


「念のためだよ」


 ジューンはそう言ったが、声音はいつもより重かった。


「今夜の屋敷は、いつもと違う。旦那様もヨーゼフも正門側に気を取られている。奥様も落ち着かない。こういう夜は、余計なことが起きる」


 リリアは迷った末に、口を開いた。


「私は、お嬢様に何をしたのですか」


 ジューンの目が揺れた。


「今のお前に話せることではありません」


 ジューンは、まくれた袖を元に戻した。


 何かを隠している時、ジューンはこういう言い方をする。


 それは命令であり、同時に、願いでもあるように聞こえた。


 その夜、月が消えた。




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